魔界の日常
第二章、開幕!
初っ端から人外が数多く出てくる第二章、お楽しみいただければ幸いです。
2018,2,28 改行作業、加筆修正を行いました。
それは、ある雨の日のことだ。
とある世界で、ひとつの事件が起きた。
その世界は力が全てという考え方が世を占めており、その世界のほとんどの人々に『バトルランキング』という実力順での序列を示す制度がある。
それは何百年と続いてきた制度で、法律にもそれに関わった記述をされており、順位が高ければ高いほど、貴族として扱われるようにもなるという。
だが、ある日ある人物がそれを撤回し、平和な世にするためにとその制度を廃止する考えを示した。
それは、その世界において知らぬ者はいないレンストン王家の国王、ヴァニラ・スニール・マトニ・レンストン王だった。
その王の言葉は、順位が高いものには特に反感を買い、ヴァニラ王への不信感を駆り立てていった。
そして、遂にその者達の怒りは爆発し、決起を起こさせたのだ。
その者達はレンストン城に駆け込み、門番達を容易く撃退し、城門を突破。決壊したダムのように猛烈な勢いで城内に押し寄せてきた。
門番達も一応はランキングはあるが、そのほとんどは順位はそれほど高くなく、ランキング上位者達を筆頭に構成された戦闘集団の猛攻は、防ぐことが出来なかったのだ。
城内は瞬く間に占拠され、彼らは例外なくヴァニラ王を探した。そして、彼らは遂にヴァニラ王夫妻の私室前に集まった。
扉が叩かれる。力強く、乱暴に間隙なく。鍵はかけてあるが、この様子ではいつ突破されるかわかったものではない。
ヴァニラ王夫妻は戦う術を持たない。元々心優しい人柄で、どれほど卑しい者にも等しく接する慈悲深い人物達だった。
そんな彼らは他者を傷つけるということはあまり看過出来なかった。
バトルランキングは自分よりも上位の者を倒せば順位が上がるというわかりやすいものだが、その分怪我人が増えてしまう。病院にはその日のうちに何人もの怪我人が担ぎ込まれ、遂に薬品が底をつき始めた。
それもあり、今までの制度を変えようとした。
もちろん、反感がないとは思わなかった。力をつけたからこそ今の地位になった者も数多い。
そんな彼らにも今のままの立場で入れるよう手を打とうと考えてる真っ最中だった。
しかし、これほど多くの者達が殴り込んでくるとは思ってもみなかった。
廊下の奥は今頃は街にいたランキング上位者達で埋め尽くされていることだろう。
「どうするのです!?」
縋るような妻の言葉を聞き、ヴァニラ王は唇を噛む。
このままでは時間の問題だった。私室の扉は特別製で、他の部屋よりも頑丈に作られており、そう簡単に突破できる作りではない。
しかし、今のランキング上位者、特にトップスリーにとってはこの程度紙同然かもしれない。
思わず唸る。部屋には武器になるような物も置いてはいない。
唯一あるとすれば、何かあった時のために抜け穴ぐらいだ。
だが、そこに入って逃げたところで逃げ切れるものではない。すぐに捕まって、殺されるのが関の山だろう。
言葉にしなくても、二人にはそんなことは容易に理解出来た。
夫妻の視線は部屋の隅に向けられる。そこで怯え、体を震わせている最愛の娘がいる。
ウェーブがかった長い艶のある銀髪に、スカイブルーの瞳が恐ろしげに揺らいでいる。まだ十歳にも満たない幼い容姿だが、どこか気品を感じさせる華やかさがある少女だ。だが、それも恐怖に歪んでしまい、普段の元気な様子が見る影もない。
――せめて、娘を逃がす時間は稼がねばなるまい!
二人は娘を呼び寄せ、扉とは正反対の位置にある暖炉の前に立ち、中に入るように促す。
「お、お父様……お母様……?」
喘ぐように口から漏れる娘の言葉に胸を傷ませる。
心残りがあるとすれば、娘の成長を見届けることが出来ないことだろう。他にも無念の思いは多々あるが、それが一番強い思いだった。
「逃げなさい。決して振り返らないように。父と母もきっと後から追いつくから」
震えそうになる声を自制し、娘に力強く言葉をかける。もちろんそうなってくれればどれだけ嬉しいだろう。
でも、と何か言いたげな娘だったが、今は一刻を争う時。一度強く抱きしめ、隠し扉を開いた。
「さぁ、行きなさい!」
その時、扉の向こうのざわめきが不意に変わった。それまでのような、出て来い、殺してやる、といった怨嗟のものではなく、新たに現れた人物に何かを託すようなそんなざわめきだった。
それだけで、この扉の向こうで何が起こっているのかを無意識に理解してしまった。
「さぁ、早く!!」
娘は泣き出しそうになるのを堪え、隠し扉に入っていく。
扉を閉じ、すぐに爆音がして振り返った。
扉が破壊された。そこから多くの男女がなだれ込み、しかし、すぐに二人の目の前の人垣が左右に分かれた。そこを、三人の男女がゆっくりと進む。
先頭に立つのはまだ年若い少女だ。
腰に一本の刀を携え、一糸乱れず歩くその姿は一人の少女ではなく、孤高の剣士を彷彿とさせる。
その後ろに付き従う二人の男達は常に少女の二歩後ろを追随する。
「こんな夜更けに押し入ってしまい、申し訳ありません。ヴァニラ王」
少女は感情を感じさせない無機質な声音で言う。その左手は常に鞘を握っており、いつ抜刀されてもおかしくはない。
「君まで出向いてくるとはね。今宵は如何なる用かな?」
「簡単です。貴方方の首を、頂戴したいと思います」
「深くは問わんよ。理由は目に見えているからね」
「それは結構です。一歩として、動かないでいただきたい。出来れば、苦しませたくありません」
そうはいかない。少しでも長く、娘の逃げる時間を稼ぎたいのだ。
しかし、彼女はそんなことを許さなかった。
ピクッ、と彼女の指が動いたと思った瞬間、二人は無気力にその場に崩れ落ちた。
抜刀の瞬間。それはその場にいたほとんどの者が視認することは出来なかった。出来たとすれば、当事者である少女と、その後ろに立っている二人の男達だけだったろう。
少女は赤い血溜まりをつくるふたつの肉塊を無表情で一瞥した後、
「この二人には娘がいたはず。見つけ出して、殺しなさい」
機械的にその場にいる者達にそう指示を出し、少女は男達を率いて一足早くその場から立ち去った。
その後、王女が見つかることはなく、ヴァニラ王夫妻死亡、王女行方不明として終わった。
三日後、魔界――
目に入る光景は、もう幼いころから見慣れた回廊だ。黒を基調とした暗い壁は魔界にしか存在しないという稀少な石材を使用されており、妖しく黒光りするそれに触れてみるとひんやりとした冷たさが掌に伝わる。
回廊の壁際ではメイド達が薫に気付き、足を止めて頭を下げている。獣耳や尻尾があったり、肌の色が人間とは違う者達が城内に多くいた。これを初めて見た場合、一定層のオタクは歓喜乱舞することだろう。
窓も少ないがある。しかし、窓の外は禍々しく輝く赤い月が魔界を照らし、それが見る者を不気味に感じさせる。
そんな回廊を、薫は歩く。
ライオネル・ソウルの戦いからもう一ヶ月が経過した。暗殺者達も既に皆退院し、巴は今頃は刑務所で懲役刑でも課せられているだろう。いい気味だ。
千尋とリムはあれから本当に付き合い始め、休みの日は時折デートに行ったりしている。関係はどうやら良好らしく、千尋自身抱えた殺人の罪意識を和らげようと、リムも献身的な様子が千尋的にもグッとくるものがあるようだ。
煜ももう退院し、仕事をこなしながら修行に専念しているらしい。顔色も当初より良くなり、笑い顔にも当時よりも明るさを取り戻していた。
だが、薫が驚いたことといえば、近衛を千尋が雇って氷崎グループで働くことになり、篠原は千尋の空手道場に入門したことだろう。
会社では近衛がこちらを見かける度に挨拶し、薫はそれを無視している。しかし、その現場を煜に見られ鉄拳制裁。再び女についてを説かれ、それ以降は仕方なく片手を上げて返事としていた。
篠原は道場にいるとよく話をしにきた。父親は意識は戻り、今はICUから一般の病室へと移され毎日リハビリに明け暮れているらしい。
なぜ道場に入門したのかを訊くと、
「昔から格闘技には興味があったんです。それに、今回の件で護身の術はある方がいいって思いましたから!」
だそうだ。
表情に出しはしなかったが、人知れず感嘆の思いに囚われていた。
視線を自分の服装に向ける。
薫の服装はいつものものではない。
白い装束を裸体の上に羽織り、黒い外套を身に纏っている。無機質な石の回廊を裸足で歩いており、何より違う点といえば、常に左目を開眼し、第一から第三までの三つの封印を解放していることだ。
それが魔界における薫――悪魔王としての姿である。王と言うには装飾が少ないが、それは本人が過分な装飾を施すことを嫌ったからだ。
そんな薫からはただそこにあるだけで多くの人外を従える者としての風格が漂い、鋭く、赤黒く濁り、双眸の白い部分が漆黒よりも尚黒く染まったその眼光は見る者を自然と恐怖のどん底へと誘う。視線を向けられただけで恐ろしいほどの圧力に苛まれるほどだ。
その後ろに一人の女性が付き随う。
女性はウェーブがかった淡い水色の髪を背まで届くほど伸ばし、背中の大きく開いた装束を纏っている。一六〇後半の身長に細く引き締まった四肢は一見脆そうではあるが、その分その身体の曲線美は見る人間を無意識に魅せてしまう。
だが、何より目がいくのはその背中だ。
外気に晒した肩甲骨の位置から三対の翼があった。元は白く立派な翼だったのだろうが、今は漆黒に染まってしまっていた。
その翼は邪魔にならないよう小さく折り畳まれている。
ふと目をやると、装束に隠れてわかりにくいが左肩に古い傷が見える。幼い頃に訊くと、昔戦いで食い千切られた傷なのだそうだ。
薫が魔界に来てもう一週間である。本日までの滞在時間ではあったのだが、正直業務ばかりであまり休めていない。しかし、悪魔や人外の長という立場にある薫は文句は言えない。
ただでさえ地上にいる時はその多くを部下に任せてあるのだ。せめて薫が戻ってきた時は楽をさせてやりたかった。
「サリエル、あの二人はどうしている?」
薫は正面を向いたまま、背後の翼を持った女性――サリエルに声をかける。
嘗ては七大天使として、『死を司る天使』と謳われた存在だ。
魂の扱いや医療の知識に長け、その腕を見込まれ昔はラファエルの右腕として働いていたそうだ。
そんな彼女も今や堕天してしまい、化物を裡に宿す薫の魔界での教育係だった。
サリエルは少し虚空に目を向ける。遠隔地を透視しているのだ。
「闘技場でスカアハの相手をしているわ。少しでもアレの相手をするだけの力は片方しか持っていないようですけど」
現在、この魔界には影の国という異界の女王として知られるスカアハが、鈍った薫を鍛え直すために訪ねてきている。そのお陰で、一日の時間の半分以上を厳しすぎる修行に費やされ、そうでないときは書類仕事に明け暮れる事となっていた。
彼女は呪術師でありながら武芸百般、特に槍術に秀でている。その槍捌きは圧巻の一言。柳のように柔らかく流麗な槍捌きで相手の猛攻を受け流し、隙を見ては苛烈な攻撃を加えていく。槍を手足の延長のように巧みに操り、まるで暴風のような懸絶たる術技を扱う。
薫が先日の戦いで獅童を相手に使った槍は彼女から直々に授かった魔槍。それは嘗て、クー・フーリンにも与えられたというゲイ・ボルグだ。
ただの槍であれば獅童も防御の構えはとらない。なまくらではあの男の皮膚は貫けないからだ。
あの男は、その槍がただならぬ逸品であると即座に見抜き、正面から薫と対峙したのだ。
脱線したが、スカアハのその技術はこの魔界においてもトップクラス。薫の裡にいる化物を相手に引き分けにまで持ち越したと聞く。
そんな女を相手にして、化物の力を完全には引き出していない薫が勝てる道理もない。だが、彼女との模擬戦は驚くほど愉しめる。
終わった後に、無意識に笑ってしまうほどに。
厳しすぎる修行? もう慣れた。
「アレの相手は俺でも厳しいからな。あの二人ではすぐに無力化されて終わるだろう」
今回魔界には薫一人で来たわけではない。イリカとレイラも付いて来たがったために、自分の命は自分で守る、という約束をこじつけて二人を連れて来た。
魔界にいる人外の多くは人間をあまり良しとはしていない。そのため、高位の悪魔や人外などは薫の言い分もあり渋々手を引いてはいるが、それ以外の人外達は人間を見かけると襲いかかることもある。
この場において、自衛が出来なければそれイコール死を意味するのだ。
今薫が向かっているのは、その闘技場だ。闘技場内を一周すると、四キロ走ることになるほどの巨大な建物だ。外観はローマのコロッセオをイメージすればわかりやすいだろう。
そこは薫が魔界にいる間はよく自分の技術を磨くために刀や槍などいろいろなものを振っている。
時折部下の悪魔と模擬戦をしたりもするが、その後はよく血だらけになった。
昔は一度も勝った試しなどなかったが、今は何人かにも徐々に勝てるようにはなってきている。技術面だけでなく、封印を解除した際の純粋な身体能力でも追いつき始めているのだ。
「おぉ、薫もこれから闘技場か?」
声がして背後を振り返る。そこには着物を動きやすいようにはだけさせた九老が立っており、ひらひらと手を振っていた。
ここでは九老はいつも自由にさせている。隠形をかける必要もないため、普段かけている術式は全て解除していた。
「お前もか、九老」
「まぁのぅ。フェンリルの奴もどこに行ったのかわからんし、することもないからのぅ」
九老は魔界にいると、いつも適当にぶらついては標的を定め、ちょっかいをかける。
しかし、何故かそれを嫌がる者が少なく、逆に仲の良くなることがほとんどだ。
勿論、例外はある。
フェンリルは基本無口で、あまり饒舌な存在ではない。表情にもあまり自分の感情を出すような奴でもない。
しかし、彼は九老にちょっかいをかけられるのが嫌なようで、そんな時はいつも何処かに身を隠してしまう。
今回もその例に漏れず、まんまと逃げられてしまったようだ。
「そうか。奴のことだ。そのうち現れるだろう。それより、サリエル。あれから人間の進軍はあったか?」
薫の統括するここ魔界にも様々な世界に通じる『ゲート』が存在する。そこを通り、人間が戦いを仕掛けてくることが稀にあるのだ。
薫が魔界に戻った一週間前もそうだった。
あの時、薫が魔界に戻り多くの悪魔や人外達に戻ったついでに顔を見せに行った。
その時には攻撃を受けている最中で、下位悪魔や人外の使い魔や手下がその猛攻を押しとどめていた。しかし、それはまだ力不足として城に入ることを許可されていない者達ばかりだった。
故に、それは膠着状態にしかならず、人間達は皆の予想以上に耐え忍んでいたのだ。
そして、薫がそれを聞き、自らが打って出た。
勿論、反対意見も多かった。統率者である薫がわざわざ戦場に立つ必要などない。
だが、それ以上に彼らは裡に眠る化物と、それに染まりつつある薫のことをよくわかっており、最後には皆承諾したのだ。
しかし、それにはある交換条件があった。
一人以上は必ず同伴者を連れて行くこと。それが皆の提示した条件だった。
薫はそれに従いベルフェゴールという悪魔を指名し、そして、更にもう一人、キャルマタという吸血鬼を連れて戦場に赴いた。
下位悪魔や使い魔達は皆退かせ、たった三人で人間の軍団を圧倒し、壊滅させた。
それから今までに攻め込まれたという報告はないが、情報は新しいに限る。
果たしてサリエルはかぶりを振り、
「今のところはありません。わたしはゲートの感知は出来ないので、その辺りは貴方かアスタロトにでも判断してもらわなくては」
「なるほど。どうなんだ、アスタロト」
薫は足を止めず、正面を見据えたまま声を張り上げる。
もしそこに何も知らない第三者がいれば、薫の行動は疑問に思ったことだろう。
しかし――
「――ないわ。今の所、昨日一度開かれたぐらいかしらね〜」
三人とは違う、第三者の声が回廊に木霊する。三人以外の姿はそこにはないのだが、全く別の人物の声が反響し続ける。
不意に九老が頭上を見上げた。
薫もつられてそちらを見ると、回廊の天井付近。その壁際の出っ張りの部分に腰をかけた少女の姿があった。
身長は一五〇後半。くるぶしまで伸ばした緋色の髪をツインテールにし、パレオのような露出の高い服を着ている。更に、パレオの下半身の布は膝の位置にまで達し、貧相な胸は黒い布でサラシのように巻かれている。左肩には刺青が、背中には大きく魔法陣のような紋様が描かれている。
両目尻には炎を象ったペイントが描れてあり、童顔ながらやけに色っぽく表情を歪めていた。耳が尖っていることから人間ではないということが一目でわかる。自由に形を変えることができるらしいのだが。
右腕には一匹の蛇が巻きついており、その蛇は回廊を渡る者達を俯瞰するように顔を向けている。
少女は自分の居場所が察知されたことを認識すると、ふわり、という擬音がぴったりな柔らかな動作で飛び降り、地面に足をつくことなく空中でその動きを止めた。
ふわふわと空を飛んでいるのだ。まるで無重力の中にいるのではと錯覚するほど軽々しい動きで薫の後ろをついてくる。
彼女はアスタロトという悪魔で、悪魔達の中で一番の魔術師でもある。
その魔術の腕は地上において右に出るものはおらず、彼女一人がいれば異世界ひとつ丸ごと相手取っても容易に落としてしまうほどの実力者だ。
そして、彼女は薫の魔術の師匠である。
その教えはかなりスパルタで、鍛錬のみならず、魔力量を増やすためだけでも何度も吐血し、死にかけた。
魔術師には魔術回路と呼ばれる回路が存在する。魔術回路にはその本人が保有する魔力が流れており、大雑把に言えば、特殊な神経系という認識で間違いはない。
その回路の本数は決まっており、全部で三十六本。外法に手を出せば更に増やせるが、今はそれは割愛する。その魔術回路がどれだけ開いているかで魔力量は大きく変わってくる。
産まれ落ちた魔術師の魔力量がそれぞれ違うのは、肉体が耐えきれないため身体が勝手に回路を閉じているのだ。
基本的に産まれたばかりの子供でも開いている回路は多くて四つ。ひとつしか回路が開いていない者もいれば、ひとつも回路が開いていない者も中にはいる。
産まれた時に回路がひとつも開いていない者はその多くは魔術師としての才能はない。勿論、手を尽くせば一本無理やりこじ開ける事はできるが、最悪身体の機能を著しく阻害してしまう恐れもある。
そして、薫はそのほとんどをほぼ無理やりこじ開けたのだ。その数三十四本。
化物と契約していなければ身体が耐えきれず絶命していたに違いない。たとえそうでなくても、精神がその痛みから逃れようとして保たないことも多い。
薫はそれを耐え切って魔術回路を全て開き、更には外法をも行われて更に本数を増やされ、魔術の知識や技術を享受されたのだ。
そのおかげあってか、今は彼女を凌ぐほどの魔術の腕を持っている。弟子が師を超えた瞬間のアスタロトの顔は実に滑稽だったが、今はよそう。
薫は足を止めず、半分だけアスタロトを振り返る。
「昨日一度開いた? それにしては誰も襲撃してこないが」
「ええ。だから傍観してるの。面倒でしょ、何も起こってないのに行動を起こすなんて」
「時には必要になるがな。私とて、時には行動される前に自ら行動することもある」
「マジメね〜。無駄な労力使うだけじゃないのよ。そんな面倒なこと、やってられるかっての」
「だろうな。だからこの私自ら手を出さざるを得ないのだろう」
アスタロトは空中であぐらを組み、ふわぁ、とひとつ大きな欠伸を漏らす。
先述の通り、アスタロトは魔術の腕は一級なのだが、遺憾なことに怠惰を貪る性格をしている。
命令を下した時は文句など言わず嬉々として飛び出すのだが、普段はこのように何処ぞで油を売っているような悪魔なのだ。
「まぁ、なんでもよいが。今の所脅威はない、といったところかのぅ?」
「まーね。それに、ヒトが一匹ただ迷い込んだってだけの可能性もあるからね〜」
アスタロトの言葉に、サリエルが小首を傾げる。
「『ゲート』を通って来たのは一人だった、ということ?」
「そ。『ゲート』の開いていた時間を考えても恐らくね〜」
『ゲート』は星の数ほどの量がある。裏を返せば、それだけの別の世界があるということだ。もちろん、中にはある世界の過去や未来に繋がる『ゲート』も存在してはいる。
過去や未来に向かうことのできる世界は取り敢えず現在と同じ世界と考えて、それらの世界を一本線の上に平行して横一列に並んでいるとする。
それだけ様々な異世界がありながら、それらと離れた位置に魔界と天界が存在する。
魔界と天界はどれだけ多くの世界が存在しても、どちらもひとつしかない。そのどちらも、その一本線の上には存在しない。
魔界はその横一列の世界群、一本線の遥か下方に存在し、天界はその真逆の遥か上方に存在している。
そして、それらは本来人間界――人間達が暮らす様々な世界を総称して地上と呼ぶ――とは隔絶されたものだ。いや、そうであるべきものといった方が正しい。
しかし、現実はそうではなく、魔界には地上の様々な場所に『ゲート』を開き、いつでも行き来が可能となっている。
そして、その『ゲート』を創っているのは、今目の前にいるアスタロトと、裡に眠る化物だった。
薫は契約してからその事を知ったが、誰にも伝えてはいない。いや、伝えるべきことではないだろう。
寧ろ、伝えたところでどうにもならないというのが現状だった。
だが、その『ゲート』を創った本人である化物を宿している薫とアスタロトだからこそ、『ゲート』が開いたかどうか、何処に開かれてあるかなどといったことを認識出来るようになっている。
――まったく、何故こんなものを創ったのやら。
思わずそう思い、ため息を吐こうとして、上に立つ者の立場上それを思い止まった。
すると、
――決まってるじゃない。面白そうだから、それだけよ――
透き通るような女の魅力的な声が頭の中に響く。一ヶ月前にもレイラとの組手の際に聞こえた声。この場にいて、この場にいない者の声だ。
確かにあの化物の行動基準は面白そうかどうか、ただそれだけの愉悦、娯楽を求めて行動する存在だ。
そのおかげで、その答えだけで大いに納得出来てしまった。
「何にせよ、人間一匹迷い込んだところで、最期は喰われて終いだろうからな」
魔界には魔獣や怪物が様々な場所に生息している。人間が一人で迷い込んだところで、最期はそれに骨も残らないほど貪り食われるのがいつものことだった。
「そゆこと。そんなことより、そろそろ闘技場見えてくるけど〜?」
言われてみると、確かに回廊の奥に扉が見える。その向こうから剣戟の音がここまで聞こえてくる。
どうやら、随分と尽力しているようだった。
「存外に続いてるらしいのぅ」
「そうみたいね」
九老の言葉にサリエルが同意を示す。
今この場にいる者にとって、人間がスカアハを相手にして未だに耐え忍んでいるのは僅かな驚きと感嘆の思いがある。
しかし、今この場で誰よりも驚いているのは、透視魔術で闘技場の様子を一足早く眺めていたアスタロトだった。
「いや〜これは驚いた。あの黒髪、受けになると粘り強いね。それも、どれも無意識に行動してると見た!」
「無意識? 薫、貴方前に一度拳を交えているのでしょう? 見解はどう?」
「アスタロトと同じだ。アレはほとんど無意識に敵の攻撃を防ぎにかかる。よほどの潜在能力を持った女だ。今はまだまだだがな」
その言葉に嘘はない。薫の目で見ても、彼女の異常な粘り強さは賞賛に値するものだ。
それは眺めているアスタロトも同じ思いだ。同意するように何度も首を縦に振っていた。
「九老、貴様も以前の戦闘を見ていただろう?」
「まぁのぅ。あれは無意識というわけではなく、体が勝手に動いているといった方が正解だろうのぅ。頭はまるっきり付いてきておらんわ」
「それを一般的に無意識と言うのだけど」
「喧しいわ」
九老はむくれたようにそっぽを向く。そんな彼女の見解に、確かにそうっぽい、とアスタロトが漏らす。
その時、不意に背後に視線を向ける。
彼女が何をしているのかはわからない。何にせよ、ここで言っていても始まらない。
薫は扉に触れ、闘技場へと続く扉をゆっくり押し開けた。
次回、第一章にて名前だけは登場していた彼らが遂に登場します。




