図書館前掲示板とミズキの妹
ミズキが朝からおかしな顔をしたままだ。ヘタに突っ込むとやぶへびになりそうなのでグラベルはじっと黙っていた。
「ところで」話を切り出したのはそんなおかしな顔のミズキから。
「ここも朝はこれか? あの国と一緒じゃないか。もっと別なもんはないのかよ」
パイを眺めつつ言う。
「それは……」
そしてグラベルは黙り込んだ。言葉を選ぶための逡巡。迂闊なことは言ったらいけない。
ミズキは返答を待つ事無く、「妹が、最近これの作り方を習ってるんだ」ブスブスとパイをフォークで突き刺し、「運が悪い事に、そんな時に限ってあいつに用ができる」
妹思いのいい兄貴だ、計算づくで答えようとしていたグラベルの緊張も緩む。
「兄ちゃんがそれを邪魔しちゃうんだ?」
なにを言う、とミズキは眉間に皺を寄せ、「邪魔しきれずに、食わされる」
「なんだ、それならなおのこといいじゃないか」
「いいものか。あいつは瓜を入れたんだ。瓜だぞ、瓜」
「瓜?」グラベルは首を傾げ、「ピクルス?」と言換えてみた。
「なにもしてない瓜だ。生の瓜。ピクルスにする前。想像してみろ」
想像できない。グラベルは首を振った。
「とにかく、だ。この国とランカワンマクスラルクは文化が似てるというのが俺の感想だ」
瓜のパイで似てると言われるのはいくらなんでも納得できず、
「ナハスブータトドでは、生の瓜をパイに入れたりしない」
「パイは、いいんだ、パイは。あいつの感性がちょっとおかしいだけだから……じゃなくて、これだけ離れていて、文化や習慣が似てるのは、大国にすり寄るというより、その必要があったというより、そうなってしまうほど交流が盛んだってことだろ? 盛んだった、と言うべきかもしれないが」
グラベルは曖昧に頷いた。確かに以前はそうだった。現状はどうかわからない。
「最初はそれで興味を引かれたんだ。ま、俺はそんな流れ。じゃ、早く食って図書館に行こう」
ミズキは弄んで形崩れしたパイを気にせず口に放り込んでいった。
「あんたの流れなんか俺に関係ないだろ」
そしてグラベルも朝食に手をつけ始めた。
だといいんだが、とのミズキの呟きは気にしないようにして。
◇◇◇◇◇
グラベルは、開いた口が塞がらなかった。
図書館前にある最新情報の掲示板。想像していたのは、教師が教鞭を取るときに使う白墨と黒板だった。しかし、そこにあったのは、透明なガラスの板に浮かぶ色鮮やかな光の文字。
「へえ、結構進んでるんだな、この国だけ」
ぽかんと開けた口のままグラベルはミズキを見ていたが、「だけ」との強調に、はっと意識を取り戻した。開けた口を閉じる。
「他は? 他の国も同じようなものだろ? この国だけってのは無いだろ」
ミズキは、嘲笑のような笑みを浮かべ、
「いいや。『だけ』だ。一国だけで、ここまで進むのにいったいどれだけの苦労があったんだろうな? 他国を旅していたおまえのほうが詳しいんじゃないのか?」
窺う視線に耐えきれずグラベルは目を逸らす。
「と、そんなこんなを調べたくて図書館に来たんだ。おすすめの本は?」
グラベルが逸らした方向へ体を滑り込ませつつミズキは問う。
「知らねえよ、んな本」
「まあ、それも本ならいいんだけどな。あれと同じ板だったりしたら、目が焼ける」
「さすがに、そこまでは……」
「そうだな。無理だろう。そこまで出来ていれば、この国はもっと裕福になっているはずだ」
にやりと笑う顔に、もしかしてひっかかったかと思い、グラベルの背に冷や汗が流れる。
「さて、行こうか」
「押すなよっ」
抗う言葉に反して、進む足は力なくよろよろでミズキの誘導に従ってしまっていた。
◇◇◇◇◇
なにがどうしてこうなった。
丸一日を費やした図書館ではさしたる収穫は無かった。もちろんそれなりの資料はあったが、特に感慨のないレベルの国の歴書ばかりだった。今日は他を当たると言って出て行ったミズキ。グラベルは宿屋に残った。残らざるを得なかったのだ。
「無責任だよな、あんたの兄さん」
グラベルは、部屋の隅で怯えるように小さくなっている少女の扱いにさっきから困っている。
「こっちへおいで」
言って、これでは何かが違うと反省する。一室に男女二人。少女は緊張の面持ちで、じっとグラベルを見ている。小リスのように黒く丸く大きな瞳。手も足も白く小さい。顔なんかグラベルの掌よりも小さそうだ。
「何もしやしないから。お菓子あるよ、ほら」
場面は合っているが、やっぱりこれも違っている。クッキーの乗ったテーブルは、ベッド二つの間にある。腰掛けはベッドが兼任。いかがわしいことこのうえない。
どうして俺がこんな目に。
「あ、あのな、俺は怪しいもんじゃない。ごめんな。俺もどうしたらいいのかわかんないんだ、あいつとは一昨日知り合ったばかりで、ほんと、何を考えてんのかさっぱりなんだ、怪しいのはあいつのほうなんだよ」
いや、そんなことを言っては失礼なのだが。
今朝早く出かけたミズキミが戻りしなに「俺の妹だ」と少女を部屋にぽいと置いて再び出て行った。相当急いていたらしい。粉だらけの前掛けを外す間も彼女に与えなかったようだ。グラベルには、ミズキがそこまで急ぐ理由もわからなければ、この街に妹とともに住んでいるのに宿屋に泊まる理由もわからない。何もかもわからず、どれから聞こうかと思っているうちに当の本人はさっさと出かけてしまったのだ。
「お腹、空いてない? 昼飯、どう?」
少女は目を見開くばかりで応答なし。口がきけないわけではないと思う。自分を置いて出て行こうとする兄に、なにやら抗議をしていた。兄であるミズキはそれを一言で黙らせた。早口な為か訛りの為か、あいにくとグラベルには聞き取れなかった。
以降、この気詰まりな状態が続いている。
「あの…」
おずおずと二歩ほど少女は踏み出した。食べ物でつったのは正解だったかもしれない。打ち解けてくれそうな雰囲気に、また怯えさせることのないよう、グラベルはその場を動かず、微笑んで聞いてみる。
「嫌いなものとかある? 先に言っておくと外してくれるよ」
しかし、少女はそれに応えることなく、
「ここ、どこです? 王都じゃないですよね? どこかの…大きな…街っぽいけど」
混乱している模様。可哀想にと、グラベルは窓の外を指差す
「いや、王都だよ。ほら時計台、見えるだろ? 図書館の」
この部屋からも図書館の丸時計が見える。宰相はあの時計の位置に透明の掲示板を付けると公約したそうだ。図書館に出かけなくても最新情報が得られるようにと。全く信じられない。
「図書館?」と少女は怪訝な顔をしながら、窓辺に寄り「あれが? 図書館?」
馴染みのある景色からほんの少しずれただけでも別の世界に見えるものだ。グラベルは微笑みを絶やす事無く頷いた。
少女は意を決したようにグラベルに向き直ると「これって、どこの王都ですか?」
「どこって…」
「ランカワンマクスラルクの王都じゃないですよね」
「そんな遠いとこのわけないだろう?」
笑うグラベルに、
「遠いんですか。それは、まあ、いいですけど、後で煩いだろうなあ」
続く少女の言葉に、もはや笑顔は取り繕えなかった。
ミズキがこの少女をどうやって連れてきたのかグラベルは知らないし、今までどこに匿っていたのかも知らない。他の宿屋に居たのか、どこかのパン屋にでも働いていたのか、それにしては、この国がどこだかわからないなどと言う…
「昼飯食いながら話そっか」
自身が落ち着くためにも、いたいけな少女を階下の食堂へと誘った。
階下の食堂に下りてみれば、客はグラベル達をいれて三組ほどだ。これなら落ち着いて話もできるだろうと安堵し、適当に見繕ってくれと賄い婦に頼んで席に着いた。
「えーと、サユちゃん、でいいよね? ちょこーっとお兄さんのことを聞きたいんだけど?」
済ませた自己紹介をもとに名を呼んでみる。少しずつの歩み寄りが大事。が、話を切り出した途端に、大皿料理がテーブルにどかんと乗った。え?と面を上げれば、賄い婦と目が合った。
「おまちど! 美味しいよ」
「あ、うん、ほんとだ。ありがと」
作り置きしてあったと思われるが、あまりにも自慢げに言われてしまえば、社交辞令で返すのも仕方なく、その仕方なさのまま、少女サユに料理を勧めた。状況に戸惑っていても、食欲はあるらしい。さっそくとばかりに小さな口で、ぱくぱくと食べ、もぐもぐと咀嚼している。とても健康的だ。
さて、本題、と。グラベルは身を乗り出した。
「あいつ、なにもん?」そこでぐっと声を落とし、「ランカワンマクスラルク王家の人間?」
だとすれば、目の前のサユもそうなるのではあるが。
サユは手を止め、くりっとした瞳をまっすぐにこちらに向けて来る。ぱしぱしと瞬きをする睫毛は長い。
「違います。王家とはなんの関係もないです。兄が何者かと言われると、私も最近よくわからなくなってしまって。あなたも兄に係わらないほうがいいです、けど、もう関わっちゃってますね」
意味不明なことを言い、そうしてまたパクっとフォークを咥える。
係わりたくて係わったわけではない。向こうが勝手に係わってきたと言うに言えず。
「んなこと言って、サユちゃんだってお兄ちゃんに付いて来てるでしょうが」
あれこれ文句はあるが、そしてその気持ちは痛いほどよくわかるが、結局は仲の良い兄妹なのだろう。
「私は」ぐっとフォークを握りしめ、「逆らったって無駄だとわかっているので付いてくるしかなかったんです」
そう言ってしばらく考える素振りをし、
「すみませんでした。あなたは無駄な抵抗したクチだったんですね」
哀れみのまなざし。
「…そんなにヒドイやつなの?」
急に不安になった。お人好しにもこうしてつき合っているのは、ミズキ自身はどうでも良く、彼の知識に興味があったからだ。もちろん、正体がわからないうちは油断をするつもりはない。
「も、もしかして、妹ってのも嘘?」
「あー、嘘ですね」
あっさり白状したあ。
がたっと椅子を引いてしまうグラベル。
「さらわれたのか! あいつに!」
食堂が静まり返る。皆、聞き耳を立てているように思う。さらったのはもちろんグラベルではない。それでもミズキと仲間だと思われれば、非難されても仕方ない。
サユは雰囲気を察してか、クスクス笑って、不穏な空気を一掃すると、
「正確には従兄で、今は義理の兄です。誰かが結婚して、とかじゃなくて、私がミズキの両親に引き取られたんです。私とミズキは婚約もなにもしてないです。あと、何か言っておくことあったかな。誤解されると面倒なんですよ。後で従兄とバレるのも面倒くさくて、先に言うことにしてるんです」
サユは、うーんと考え始めた。
「ああ、そうそう、攫われたというなら、そうかもしれません。見てくださいよ、この恰好。パイを焼いてたんです。その途中で拉致されたんですよ」
まったく、と口を尖らせた。
例のパイか、とグラベルは心得、「生の瓜を入れるんだってね?」
単に話題を振ったわけではない。ミズキの言が真実かどうかを確かめたかった。
「今日は大根を塩漬けにしました。生はダメだと言われたので」
「そう……おいしくできるといいね」
「……姫様と同じニュアンスで言いますね」
本当に美味しくなるかどうかは別にして、サユとミズキは話の辻褄が合っている。ちゃんと義妹だ、間違いない。そこで安心して、グラベルもようやく自分の皿に手をつけた。
ドアが開けられ、すきま風とともに砂の粒子も舞い込む。
「待たせた。悪いな、グラベル。サユ、何もしなかっただろうな?」
皆食事中だ。マントの砂を落とさないよう遠慮がちに歩きながら、話題の男ミズキが現れた。
「何もしてねえよ。俺みたいな紳士捕まえてナニ言ってんだ」
少ないとはいえ人目がある。ことさらに大仰に言ってみせれば、ミズキは目の前で手を振った。
「おまえに言ってない。サユ?」
妹に確認してもらえばそりゃ確かだと思ったのも束の間、雲行きが怪しい。
「グラベルに何もしてないだろうな?」
「さあ? どう思う?」
サユはミズキを見上げて、挑戦的な物言いだ。
「おいおい」グラベルは止めに入る。いくらなんでも、それはない。
グラベルは、サユどころかミズキの体格すら上回っている。二人まとめてかかってこられてもはね返せると思うほどだ。さらにミズキは細くサユは小さい。なんとなく、保護者気分になってしまうのも仕方なし。
「言っておくが、こいつを見かけで判断するなよ」
ミズキが真剣な顔で釘を刺す。
「よく言う。私よりミズキ兄ちゃんのほうが見かけで騙してるくせに」
サユの目が据わっている。
もしかすると、思考の方向を著しく間違えているのかもしれない。
グラベルはサユをまじまじと見て、ミズキに視線を移す。
サユは、小リスではなく、男を誑かす女狐なのか? ミズキも? そうだ、なんのかんの言いつつ、グラベルも既にミズキに取込まれているではないか。新手の美人局か。この場合、美人はどっちだ? ええ??
「兄ちゃん、この人、考えが顔にモロだね」
「同意だが、おまえに言われたくはないだろうよ」
咄嗟に頬を抑えるグラベルに苦笑を漏らし、ミズキは椅子に座る。サユに胡散臭い笑みを向けた。
「俺も飯にする。食ったらここを出るからな」
「どこ行くの? 私、いつ帰れる?」
「兄貴には当分帰れないって言っておいた」
「えー、また勝手にぃ、」
「用事なんかないだろ、おまえ」
「用事はないよ、ないけど、私が居ないと、あの家、めっちゃくちゃになるんだよっ」
「おまえがめちゃくちゃにしてるんじゃなくて?」
「違う。兄ちゃんだって、ちょっと見た事あるでしょ、ほら提灯とか」
あーあー、とミズキは相づちを打った。
「三つほどあったな。面白い趣向だと思ったが、それが?」
「私が居ないとね、あれが増殖するんだよ」
「増殖?」
「そう、この前、どこだったか兄ちゃんに突然連れ去られたことあったでしょ?」
いつの突然だったかなとミズキがうそぶいている間に、
「天上にあれがびっしりだよっ、キモイったらないっ」
「ひまだなー」
「誰が片付けると思ってんの? 私だよ、私」
「それは難儀だ」
「あの家なんかどうでもいいと思ってるでしょ」
「それがなにか?」
「にーちゃんっ」
「待った」
とうとうグラベルが口を挟んだ。放っておくと延々と続きそうだったから。
「とりあえず、ミズキは飯ね」
おばちゃーんと呼んでおいて、ミズキに、
「で、この後行く所ってどこ?」
それを聞いて自分の身の振り方を考えようと思った。
「家を借りた。まずはそこへ行く。宿屋じゃ何かと動き難いだろうから」
当然、おまえも来るだろ、否は言わせないからな、言ったら美人局の餌食だぞ、無言の圧力にグラベルが屈しそうになった時、サユが言った。
「私、まだ一人でパイは作れないよ。大根の塩漬けならできるから、それと、パン? 挟めばパイみたいになる?」
「作らなくていい、いい。朝飯ぐらい俺がなんとでもするから」
不気味なパイからの逃げ言葉が、よもや了承の意味になるとは、グラベルは思ってもみなかった。