新たな決意
それが実現したのは、ドゥーケ侯爵家においてだった。ライラから気分転換に遊びに来ないかという手紙を受け取り、それがオレイアの根回しした結果だとすぐに判断できたのは、ライラからの誘いはいつでも直接だったからかもしれない。
迎えに馬車を寄こしてくれるとのことだったし、なるべく揺れの少ない道をお願いするからとリカルドを説得して家を出たアリシアは、そっと息を吐く。何も言わずにお願いを聞いてくれたオレイアは、やはりいつも通りにアリシアに甲斐甲斐しく付き添っていた。
「いらっしゃい」
「あの……突然、ごめんなさい」
「良いのよ。2階の奥にある客間を使って頂戴。既に準備してるわ」
出迎えてくれたライラに階段を指さされて、アリシアは小さく笑った。
「……何も、訊かないんですね」
「そんな死にそうな顔してる人に、何を問い質す事があるっていうの? 言いたくなったら言ってくれれば良いのよ、私は」
呆れたように腰に手を当てたライラは、それからオレイアの方に向き直る。
「オレイアさんは、もし良ければキッチンへどうぞ。今の時間帯は使用人が丁度休憩していると思うから、色々と話相手になってあげて欲しいの」
色の濃いオーク材の扉をノックすると、向こうからどうぞ、と声が聞こえた。そろりとノブを回して、入室する。硝子製のローテーブルを挟んで並ぶソファの1つに、その姿はあった。
「どうぞ、お座りください……と言っても、此処は私の部屋ではありませんが」
その言葉にも気の利いた応答ができないまま、アリシアは彼と向かい合う様にして腰を下ろした。
「あの……本当に、こんなにいきなりで、申し訳ありませんでした」
「気にしないで。私で役立てるなら、本望だから」
そういって彼――ディートハルト・バーデンは、目を細めた。誰かに相談したいと思った。相談しなければ、潰れて何もかも駄目になってしまうような恐怖にとりつかれていた。ある程度アリシア達の事を知っていて、それでいてリカルドにも秘密にしておいてくれるような、信頼のできる人物。けれど、親しすぎない、客観的な見方をできるような人に、他に心当たりが無かった。正直アリシア贔屓な所のあるバーデンが第三者目線で聴いてくれるのか迷ったけれど、それでも彼以上の人選を思いつかなかった。
「私……私、もう、いっぱいいっぱいで」
「うん。……ゆっくりで良いから、話してみて」
アリシアは大きく息を吸って、溜めこんできた不安を一気に話した。話したいのは子どもとアリシアの取るべき選択についてだけだった筈なのに、頭を整理せずに話している内に次々と話題が飛んで、愚痴めいた話もしてしまった。それでもバーデンは特に嫌がることもなく、律義に相槌をしながらアリシアが全て出しきるのを待ってくれた。
「す、すみません、なんだか、まとまらなくて」
我に返ると、とてつもなく恥ずかしくなって、アリシアは顔を俯ける。けれど胸の内は幾らかスッキリとしていた。
「少しは落ち着いた?」
「はい」
アリシアは幾分軽くなった心を感じながら、バーデンが下す判断を緊張した面持ちで待った。けれどバーデンはいつまで経ってもアリシアをじっと見つめているだけで何も話してくれない。
「あの……バーデン様?」
何かアドバイスをください、と言うのは流石に不躾かと思い、取り敢えず呼びかける。バーデンは、ふぅ、と1つ息を吐いて、それから口を開いた。
「ミセスは、私からどんな言葉が欲しいのかな」
その視線が思った以上に冷静で、アリシア少し怯んだ。
「わ、私は……私の望む言葉ではなくて、冷静な意見が欲しい、です」
「つまり、貴女の将来を、私に決断して欲しいと?」
そう問われて、アリシアはぐっと詰まった。そこまで大きな責任を負わせてしまうつもりはなかった。アリシアはただ誰かの意見が欲しくて、けれどそれに従おうと思っていたのだから、同じ事なのかもしれない。
「私が思うにね……誰かに何かを言われたからって、最終的には貴女が判断することだ」
「……分かって、います」
「じゃあ、冷静な意見が欲しいと言うけれど、責任を転嫁したいだけってことは無いんだね? ――あの人がこう言っていたから、って、自分のする事に理由付けしようって考えてるわけじゃ」
「……」
アリシアは黙りこんでしまった。何となく感じていたバーデンの冷たさは、アリシアに怒っているのかもしれない。アリシア自身、実はとても無責任な事をしていたのだと恥ずかしくなった。
「ごめん、厳しい事を言ってしまったかな」
「いいえ……事実ですから」
それでもシュンとしてしまうアリシアに、バーデンはもう一度「ごめん」と言った。
「これは私の勝手な推測だけど――貴女は、どちらかと言えば出て行こうとしているように見える。それでも迷いがあるから、誰かにそれが正しいって言って欲しい。そうじゃない?」
「そ、んなこと」
「でも、自分が犠牲になることで初めて人の役に立っているって実感できるタイプだろう? それは自覚してる?」
「……」
自覚している、という程にはアリシアは実は分かっていない。けれど前にリカルドにも同じような事を言われたのだから、そうなのだろうとぼんやり思った。そしてそれをリカルドは酷く嫌っているのだ。それは分かっている。
「わ、たしは……リカルド様とずっと居たいです。お腹の子を一緒に育てて、その成長に驚いたり困ったり、そして喜んだりしたいって、本当に思っているんです」
ポロリと、涙が零れた。どうしてこんなに切ないんだろうと思いながら、また一粒涙を零す。思い描いた親子3人の未来は、とても温かくて幸せなものだった。それから急に、あぁそうか、と思った。
「諦め、かけていたんですね、私」
咽から手が出る程欲しい未来なのに、何も足掻こうとしていなかった。もっと取り乱して必死に縋りついても良かったのに、アリシアは早々に手放す覚悟をしてしまった。だから幸せな未来は、手に入らない物としてアリシアの胸を締め付ける。アリシアは泣きながら、ぎゅっとお腹を抱きしめた。
「……ブラン伯爵はとても貴女を大切にしている。屋敷の使用人達だって、慕っている者は多いだろう。そんなに不安がらなくても大丈夫だよ――って言っても、気休めに聞こえてしまうかな」
バーデンは優しくアリシアの背中をさすった。屋敷の人達は優しい。頼めば一緒に戦ってくれることくらい、アリシアにだって分かっていた。それをしなかったのは、今思えばバーデンの言う様に、自己犠牲の自己満足でしかなかったのかもしれなかった。
「……なんだか結局、バーデン様に決断してもらってしまったような感じがしますね」
苦笑すると、バーデンは「そうかな」と呟く。
「伯爵家にいたいと強く願ったのは貴女自身だよ。そうだな、それで理由が弱いなら――例えば貴女が出て行ったとして、将来その理由を、その子は悟ってしまうかもしれない。中にはそういった余計な事を吹聴する意地の悪い人間も居るだろう。愛しい子にそんな辛い想いをさせて良いの? って、そう考えれば良い」
言われて、アリシアは初めてその可能性に気付いた。自分がいなくなれば全て上手く行くと思い込んでしまった考えの浅さに、アリシアはもう何も言い返そうとは思わなかった。
「――本当は、怖かっただけなのかもしれません。私には、母の記憶なんて無いし、それで困ることも特に無かったから、子供が誇れる母親になれる自信がなかったのかも」
母親を恋しく思った覚えすらないアリシアには、母親の務めなんて想像できない。それでもリカルドが前伯爵夫人を深く慕っている様子を見ると、どうしても憧れてしまった。だからこそ、逆に疎まれてしまうのが一段と怖いのかもしれなかった。
「子育ての不安に駆られる女性が多くいるって、聞いた事あるな。そういう時は、周りに吐き出してしまえば良いんじゃないかな。――難しい?」
「……」
「屋敷の人間に言い難いなら、ライラや私を呼び出して付き合わせると良いよ。彼女もそういうのには喜んで協力してくれるだろう」
バーデンの言葉に、アリシアは深く頷いた。問題は根本的には全く解決していないけれど、これからは子供と家を守る方向で解決策を探していかなくてはならないと決意する。早まって浅はかな真似をしてしまわなくて良かったと、心から思った。
「っ、ありがとうございました」
「気にしないで。周りに悪く言われる事もあるだろうけれど、あまり溜め込み過ぎないようにね」
最後にもう一度深く頭を下げて、アリシアは部屋を辞した。




