新しい生活
「ア、アリシア様! それは私がいたしますので」
シーツを洗濯場まで運んでいると、通りがかった侍女の一人がサッと籠毎持ち去ってしまう。手持無沙汰になったアリシアは落ち着かない気持ちで、仕方なしに自室へと戻った。
此処へ来てもう一週間になるが、十数年という年月の習慣はアリシアの隅々にまで染みついている。ぼんやりとしながら考えるのはシミ抜きや献立の事だし、水を汲みに行かねばと早朝に目を覚ます。事情を詳しく知らない使用人達には、さぞかし奇妙な侯爵令嬢に見える事だろうとアリシアは静かに溜息を吐いた。
リカルド・ブランというあの綺麗な男が何を考えて自分を娶ったのかは未だに謎だ。彼は彼なりに忙しいらしく、あの急なプロポーズの日以来、一度も顔を合わせていなかった。
アリシアは男性に免疫がない。つまりは、あまり得意ではなかった。父のアリシアに対する態度も勿論あるが、それ以上の原因は、彼女が以前に失った恋にあることを、彼女自身自覚している。アリシアは、ドレス越しにそっと背中に触れた。
「どうせ、想われることなどないのに」
小さな呟きは、誰にも届かない。リカルドは、きっと自分を娶った事を後悔するだろう。そう、アリシアは確信を持っていた。自分の素肌を、この背中を見た時、彼も言うのだろうか。
『ああ……何て醜い』
このままだと過去に迷いこんでしまいそうで、アリシアはふるふると首を振った。それからボスンとベッドに沈む。気を張る事ばかりで、労働を強いられていた頃よりも疲れる気がするわ、と思いながら、ゆっくりと目を閉じた。
「――、――っ!! ――!」
激しい罵りが、アリシアを打った。目の前に居るのは5歳になったばかりのアリシアよりも少しだけ年上の少年だ。アリシアは急に感情をむき出しにする少年に、恐いというよりも驚いて泣いていた。
「――!――、――――!!」
少年の右腕が振り上げられる。その手に握られている物を見て、アリシアは漸く恐怖に震えた。組み敷かれた時の、固く冷たい床の感触。髪の毛を掴まれた痛み。
「――――――!!」
少年がひと際大きく叫び、そして――
「―――ああぁあああぁああっ!」
自分の口から漏れ出た叫び声に、アリシアはガバリと身を起こした。体を伝う嫌な汗を不快に思いながら、少し弾んだ息を整える。こういったことは初めてではない。けれど最近は割と治まっている方だった。
「あの方の事を考えたせいかしらね」
自重気味に笑って、アリシアはポスリと再びベッドに身を横たえた。以前婚約者だった男の事を思い出しながら、一瞬フラッシュバックした夢の残像を振り払うように首を大きく振る。それからノソノソと這って、側に会った水差しから水を飲んだ。