アメジストの許し
王太子殿下の誕生日は、国中がお祭りムードだった。ブラン家の有する領土は首都から離れているが、それでも人々は昼間から酒樽を囲んで騒いでいる。唯一忙しくしている商人達も、飛ぶように売れて行く商品に満足そうだ。その様子を自室の窓から眺めながら、アリシアはとうとうこの日がやってきたのだとぼんやり思った。
「……アリシア様、本当に行かれるのですか?」
ドレスを着つけてくれているオレイアが不満そうにそう聞いてくる。
「オレイアさん、大丈夫よ。前から言っているように、私はしなければならない事があるから行くだけなの。それにクラウス様だって、皆が思っているような感情を私に抱いたりしないわ」
ここ数日何度も同じ遣り取りをしたが、オレイアはまだ納得いかないらしい。そしてそのような疑惑を抱いているのが、どうやらオレイアだけでは無いらしい事もアリシアは感じていた。困ったわ、と思いつつも、しかしこの機会だけは逃せないのがアリシアの置かれている状況だ。
クラウスが迎えに来たのは、昼過ぎの事だった。パーティは多忙な招待客を慮ってか日が落ちてから行われるので、馬車でゆっくり進んでも十分間に合うだろう。
「アリシア様、お気をつけて」
オレイアの言葉に頷いて、姿見の前で最終チェックをする。こういた知識に疎いアリシアは、今日の衣装を全てオレイアに選んでもらった。ライラの代わりに行くのだから、みっともない格好はできない。
「……転ばないでいられるかしら」
クリノリンでいつも以上に膨らんだスカートが、とんでもなく歩きにくい。見栄を張って締めすぎたコルセットの所為で、食事は手につかないだろうなと思った。けれど光沢のあるモスグリーンのドレスはアリシアの髪にも瞳にも良く合っていて、珍しくアップにした髪がいつもと違う自分を感じさせる。
腰の後ろに拵えた大きなリボンをキュッと整えられれば、アリシアは一つ大きく深呼吸をして部屋を後にした。
クラウスは、馬車の前に立っていた。
「お待たせいたしました」
アリシアがお辞儀をすると、クラウスがすかさず手を取ってエスコートしてくれる。ごくスムーズな振る舞いを女慣れなどしていなさそうな彼がすると、なんだか違和感があった。
「その、なんだ。とても美しいな」
「ふふ、ありがとうございます」
不慣れな世辞にアリシアは軽く笑って、馬車に乗り込もうとスカートの裾を持ち上げる。――と、その時
「――アリシアっ!!」
背後から名を呼ばれて、アリシアはハッと振り返った。此方へと駆けてくるその姿に、一瞬逃げたくなる。それでもなんとか先日の失態を頭から追い出して、アリシアはそっと一歩踏み出した。
「っ、間に合ったか」
「リ、リカルド様、私」
相当慌てて来たのだと分かる様子に戸惑いつつ、アリシアは何を言って良いのか分からない。このパーティに行くことだって、顔を合わせるのが気まずくてオレイアを使ってしまった。
「これを」
アリシアの心配を余所に、リカルドは急に右手を差し出す。そしてそこには、何かが握られていた。
「え、ええと」
「いいから手を出せ」
有無を言わせぬ口調に、アリシアはバッと腕を突き出す。ぞんざいな口調とは裏腹にそっと掌に乗せられたそれは冷たく、小さいのにズシリとしていた。
「……わ、私に、ですか?」
信じられず問うアリシアに、リカルドは少し落ち着かなそうにしながら、それでも力強く頷いた。
「今日のパーティにして行くと良い」
それは、髪飾りだった。菫の花を模した銀細工は実物と同じくらいの大きさがある。花びら一枚一枚にはめ込まれた大粒のアメジストが、日の光を受けてキラリと輝いた。
「こ、んな。……でも」
「お前も俺にプレゼントをくれただろう。その礼だ、遠慮は要らん」
リカルドの言葉に、アリシアは目を見開く。あの日買ったプレゼントは、てっきり失くしてしまったのだとばかり思っていた。探そうとも思ったが、今更渡した所で関係の修復は叶わないと、何処か諦めていた部分もあったかもしれない。
じわり、と浮かんだ涙を、アリシアは必死で押し止めた。妻の役目をおざなりにしてしまおうとした自分を、そしてその後ろ暗さに逃げ回ってしまった自分を、許してもらえたような気がした。
「リカルド様」
「なんだ」
短く返事をしたリカルドを、アリシアはじっと見つめた。眩しく感じるこの人を、少しでも目に焼き付けたい。暫く二人で見つめ合った後、アリシアは握った髪飾りを差し出した。
「つけて、くださいませんか」
「……俺は、こういうのが苦手だ。何処につけて良いのやらさっぱり分からん」
困ったように眉根を寄せるリカルドに少し笑って、アリシアは口を開く。
「それでも、です」
「……分かった」
渋々といったように受け取ったリカルドは、アリシアの髪にそっと触れた。そこだけに全神経が集まっているかのように、リカルドに触れられる感覚が、熱を持ってアリシアに伝わる。
「――これで良いか」
「はい」
本当の事を言えば、その位置はほんの少し上過ぎたけれど、アリシアはこれ以上無く幸せだった。
「アリシア嬢、そろそろ」
クラウスの声に、アリシアは気を引き締めた。リカルドの顔が少し陰ったようにも思えたが、今は気にしないでおく事にする。アリシアには、今なら何だって出来ると思えた。
王太子殿下の誕生パーティは、王宮の離れにあるホールで行われた。見たことも無い豪奢な内装に目が眩む思いをしながら、アリシアはクラウスと共にホールに立つ。父との繋がりで見知った顔も幾つかあったが、使用人として認識されていたせいか皆アリシアには気付かずに通り過ぎて行った。
クラウスの元へも絶えず人が集まり、そしてアリシアへと好奇の視線が向けられる。
「申し訳ありません」
「気にする事は無い」
クラウスはアリシアの事を“友人の妻”として紹介してくれていたが、下世話な話題を好む人間は何処にでも居るものだ。ヒソヒソと事実無根の噂話ばかりが広がって行くのを、アリシアは歯痒い思いで見ているしか無かった。
「――ミセス・ブランですね?」
なるべく目立たないように居ようと壁の花を決め込んでぼんやりしていたアリシアは、そう突然話しかけられ、驚いて顔を上げた。
そこに立っていたのは、衛兵と思しき男だった。通常時とは違う、礼服を兼ねた装飾の多い軍服を纏っている。しかし何処よりも他の兵と違っている所があった。顔半分を、黒い布ですっぽりと覆っているのだ。帽子と布の間から覗く目元しか見えない所為で妙な迫力があって、アリシアはつい委縮してしまった。
「……ええと、どちら様でしょう」
「これは失礼を。私はディートハルト・バーデンと申します。謁見の許可が正式に降りましたので、貴女様をお連れしたく参りました」
堅苦しく無骨な格好とは裏腹に、腕を胸元まで掲げて腰を折る態度は、随分と柔らかだった。そこまで怖くない人なのかもしれない、と警戒心を解きつつ、アリシアもスカートを抓んで礼を返す。
「それは……お手数おかけします。バーデン様」
余裕が戻ってくると、見えていなかった物も見えてくる。バーデンの軍服に付けられたエンブレムは国旗を模したもので、それを縁取るラインは、ミッドナイト・ブルー。王族だけが身に纏う事が許されるロイヤル・パープルに近しい色として、ほんの一握りの人間だけが持つ階級色だったように記憶している。
「あの……もしかしてバーデン様は、王族直属の方ですか?」
クラウスに一言告げ廊下に出た所でおずおずと問うと、バーデンは少し首を傾げた。
「確かに私は国王陛下の近衛兵ですが……良くお分かりで」
「あの、階級色で……もしかしてと」
アリシアの返答に、バーデンがクスリと笑ったのが分かった。
「ミセス・ブランは知識が豊富なのですね。――ああ、読書がお好きなのでしたか」
「えっ、」
どうして知っているのかと驚くアリシアに、バーデンは得意げな顔を――している、と思う。目元でしか判断は叶わないが。
「近衛兵と言っても、私は諜報担当なのですよ。情報収集は十八番です」
成程、とアリシアは納得した。確かに衛兵にしてはそれほど逞しい体つきをしていない。厚い軍服を脱げば、もしかするとリカルドとそう変わらないのではと、アリシアは些か失礼な事を思った。
「それでは、お顔を隠してらっしゃるのも?」
「ええ。近衛は、様々な機密情報にも関わりますからね」
国王陛下の側近だ、当然だろう。しかもそれが諜報活動をも生業としているのならば、顔どころか身元も公にはできないのではないだろうか。
じゃあ、もしかして偽名――?
そう思い至って、それからふと、彼と何処かで会ったような気がした。しかしそういう事情ならば問いただすのは無粋だろうとアリシアは思う。
「このお仕事は長くされているんですか?」
「いえ、実は、最近入ったばかりなのですよ。何となく面白そうだと思って応募したのが、通ってしまって」
困ったように頭に手をやるバーデンに、アリシアは思わず笑ってしまった。
「ふふ、それは贅沢な本音ですね。相当なエリートコースだと思いますが」
「そうですね――ですから、この話はご内密にお願いしますよ」
冗談っぽくウインクされて、アリシアは苦笑してしまう。
「けれど、どうして私には色々と話してくださるんですか?」
兵士というのは、もう少し寡黙で硬派なイメージだっただけに、それがアリシアには不思議だった。
「それは……そうですね、貴女だからでしょうか」
「え、?」
「いずれ分かるかもしれませんよ。――ああ、お喋りはこのくらいで」
いつの間にか目の前には、アリシアの身の丈の2倍はある大きな扉があった。ここまでの道程を全く覚えていないアリシアは、もしそれがバーデンの狙いだったのだとしたら大成功だわ、と緊張感無しに付いてきた自分に呆れる。
「陛下は既にお待ちですよ。準備はよろしいですか?」
バーデンの言葉に、ゴクリと喉が鳴る。気分を入れ替えたアリシアは、速まる自身の鼓動を感じながら、軋む扉がゆっくりと開くのを見つめた。




