恋を止めた日
アリシアはふらふらと自室に戻り、そしてぺたりと床に座り込んだ。盗み聞いてしまった会話が、まだ消化しきれずに脳内を巡っているような気がする。
「……どういうことなの」
ローレンはある話と濁していたけれど、それは間違いなく自身の火傷についてだ。となると、リカルドは自分と出会う随分前からその事を知っていたということになる。
それは、実を言えば不可能ではないことだった。隠していると言っても、例えば仕立屋やかかりつけ医は知っているし、当時使用人だった何人かも勘づいていたかもしれない。親友の婚約者について内密に調査していたのなら、どこからか噂を仕入れたことも考えられなくはなかった。
――けれど
けれど、それならば何故自分を選んだのか。ローレンとクラウスが抱いた疑問が、アリシアの中には更に大きく生まれた。彼らが言っていたような、自分に惚れてという可能性が無いことは、今まで接してきた自分が良く知っている。寧ろ疎まれているような印象を最初受けた事を思い返せば、ますますリカルドの行動は不可解と言えた。
混乱する頭を落ち着かせようと一呼吸置いたその時。コンコンと、もたれ掛かった扉がノックされる。
「アリシア、俺だが」
聞こえたのはたった今思っていた相手の声で、アリシアはドキリと鼓動を早める。まさか立ち聞きがバレたのだろうかと思えば、冷や汗が背中を伝った。
「アリシア?」
「は、はい。ただいま」
急いで立ち上がり乱れた服装を直したアリシアは、そっと扉を開く。立っていたのはリカルド一人で、他の二人はと問えば、帰ったという返事が返ってきた。夜中に男性を自室に招くのもどうかとは思うが、仮にも自分達は夫婦だ。問題はないだろうと、ドアを大きく開いた。
「着替えてなかったのか」
「……はい。リカルド様も、そのままいらしたのですね」
正しくは着替える時間が無かった、ということなのだが、アリシアは疑われないようにと、にこりと微笑む。
「具合はどうだ?」
言って、リカルドはアリシアの顎を掴んで顔色を伺う。いつもより強引な仕草に、酔っているんだわとアリシアは思った。じっと自分を見つめる視線に緊張しながら、アリシアはやましい事があるだけに無理矢理天井を見る。まだ少し青いな、という言葉と共にやっとのことで開放されれば、少し距離を取ってから勢いよく頭を下げた。
「失礼な態度を取ってしまい、申し訳ありませんでした」
「ああ……良い。気に病むな」
「……ご存じだったんですね、ローレン様との事」
ぐっと、リカルドの言葉が詰まる。言葉を選んでいるように見えて、アリシアは続けた。
「ご友人だなんて、知りませんでした」
「……腐れ縁なんだ。お前は、その……まだ?」
一瞬意味が分からずに、アリシアはきょとんとした。けれどそれが、“まだ好きでいるのか”という事だと分かった途端、ふつふつと怒りが涌いてくる。
「妻である私に、そんなことを聞くのですか?」
低くなった声色に、リカルド少し戸惑ったような顔をした。
「……すまない」
素直に謝られれば、何だか妻だの結婚だのに拘っている自分が恥ずかしくて情けなくて、アリシアはしゅんと下を向く。自分達の破談の原因がリカルドにあるという話だから、もしかしたら彼は責任を感じているのかも知れなかった。
「ローレン様とは、まあ、そういう間柄だったこともあります。けれど、私はまだずっと幼くて、多分あれはそんなに深い想いではなかったのです」
当時は本気だと信じていた恋。けれど今思えば、随分と綺麗すぎる想いだったと感じる。結局は“自分を愛してくれる人”に執着していたにすぎず、甘い雰囲気に酔っていただけだったのだとアリシアは思った。恋に恋するというのが、きっとあの頃の自分の事を指すのだと、今抱いている苦しい想いに思い知らされる。
「そうか。ならいい」
そっけない返事に、もう少し気にしてくれても良いのに、とアリシアは思う。出会った当初は開いていた距離も、最近は随分と縮んできたと感じていたのに、気のせいだったのだろうか。そうではないと信じたくて、アリシアはどうしても気になっていた事を聞くことにした。
「……リカルド様は、どうして私を選ばれたのですか」
リカルドが顔を顰める。またその話か、と思っているのは一目瞭然で、アリシアは少しムッとした気分になった。自分には聞く権利がある、と思うのは、傲慢だろうか。
「何か不満でもあるのか?」
「いえ。――でも、納得できません」
真剣なのだと目で伝えれば、リカルドは少し居心地悪げに視線を逸らした。
「……お前にも秘密くらいあるだろう」
ある。けれど、その内容を知っているくせに、とアリシアは思う。これでは一方的すぎて狡いと感じれば、もう自分を止められなかった。
「――ありません」
リカルドの目が一瞬驚いたように見開く。けれどそれはすぐに顰められて、アリシアを見つめた。
「そんなわけないだろう」
「どうしてそう、言いきれるのです?」
苛立ちを込めて言えば、その反抗的な態度にリカルドはますます不機嫌になっていく。
「……聞いたぞ。お前が着替えや湯浴みの手伝いを頑なに拒んでいるという話だ」
「そ、んなの。秘密じゃありませんわ」
「っ、なんだと……?」
少し意表をついたようだった。けれど考えてみれば、隠し通すはずだった秘密がなければアリシアに怖い物なんてないのだ。恋人なんて甘い関係になれない事が分かった以上、アリシアはいつもより大胆になれた。
「お疑いになるのなら、侍女達に着替えを手伝うよう命令されればよろしいのです。この家の主人はリカルド様なのですから、私より貴方様の言葉が重いのは承知しております」
「……いや、いい。落ち着け、アリシア」
熱くなるアリシアに対して、あくまで冷静なリカルドの態度だった。彼も苛立っていると感じるのにそうして嗜まれれば、自分ばかり子供だと言われている気がする。それに益々頭に血を上らせれば、アリシアにはもう、自分がリカルドに対して守りたいと思っていた物が何だったのかも分からなくなっていた。
ぎゅっとリカルドのイブニングスーツの裾を掴んで、ごちゃごちゃの頭から言葉を捻り出そうと必死になる。いつもは見せない取り乱した様子のアリシアを、困惑気味なリカルドの瞳が見つめた。それがまるで責められているように感じられて、アリシアは益々指に力を込める。スーツが皺になったが、リカルドは動かなかった。
「全て……憐れみなのですか?」
ポツリ、とアリシアの頬を涙が伝う。高ぶりすぎた感情は、言葉ではなく滴となって溢れだした。言いたいことは沢山あるような気がするのに、上手く言葉にできない。もどかしさと情けなさが襲ってきて、けれどアリシアは負けまいと、ボロボロと涙の溢れる眼でしっかりとリカルドを見つめる。
「――なんの話だ」
「っ、とぼけないでください! 火傷の事、御存知だったのでしょうっ!?」
ハッとした表情を見せたリカルドは、暫し逡巡し、それから一つの事実に突き当たったようだった。
「……聞いていたのか」
「……」
アリシアが無言を貫くと、それをリカルドは肯定と取ったらしい。
「どこから聞いていた」
先程までの下手に出ていた態度は一変し、アリシアを問い詰めるような形になっていた。アリシアももう、はしたないことをしたというやましさは無く、挑むようにリカルドを見つめる。
「初めからです」
「どこまで?」
「……お父様の話、まで」
少し苦々しそうな顔をしたリカルドは、しかしそれからフッと嫌な笑いを漏らした。
「ふん、流石はベルジェ家の娘だな。父や家より、自分の火傷の話が気になるのか」
リカルドが何かと自分を酷い娘として扱いたいらしいというのは、前々から感じていた事だった。だから何処か嬉しそうに見えるのは、多分気のせいではない。けれど彼の言っている事も尤もで、アリシアは少しだけ気まずい思いをした。
「……いけませんか」
生家よりも、貴方の事を考えては。
「別に良いさ。それでこそ、憐れんでやれるというものだ」
ドンっと、突き飛ばされて、アリシアは床に倒れこんだ。
「お前の言う通りだ。結婚話を駄目にしてしまったお前に、少しだけ情を掛けただけの事。大きな欠点を持っていれば、俺に盾突くような面倒にもならないだろうし、そろそろ周囲からの跡継ぎを期待する声にうんざりしていたからな」
冷たい視線が、アリシアを射抜く。けれどまだはぐらかされているような違和感が、アリシアの中からはどうしてだか消えなかった。
「……嘘を、吐いてらっしゃいますね」
根拠も無く思ったまま口にしてみれば、リカルドはアリシアを忌々しそうに見遣った。
「自惚れるのも大概にしろ!! じゃなきゃ、誰がお前みたいな“奴隷の焼印”なんて醜い物を持った女、娶るって言うんだ!」
ぶつけられた言葉に、アリシアの頭は真っ白になった。何も言わなくなったアリシアに、流石に言いすぎたと感じたのか、リカルドは無言で部屋を立ち去ろうとする。けれどそれを止めたのは、アリシアだった。床に座り込んだまま、アリシアは蒼白な顔でリカルドに問いかける。
「……私の秘密は、噂に聞いたのですか」
「だったらどうした」
ドアノブに手を掛けたまま、振り向きもせずにリカルドは答えた。アリシアは彼の背をぼんやりと見つめながら、静かに問う。
「噂では、“焼印”であるという所まで広まっているのですか」
「……ローレンに聞いたんだ。別に、そこまで噂になっているわけではない」
――嘘だ
それは、アリシアが確信を持って言える事だった。そんな訳がない。だって、だって――
ならばどのようにして知ったのか。もしそのような噂が広まっているのであれば、それは何れブラン家への中傷に繋がる恐れのあるものだ。けれどリカルドのような慎重な男が、そんなミスをするわけがない。ならば、何故。どうして、彼は――
そこまで考えて、アリシアはハッとした。
――まさか
けれど思い当たった事象を信じられなくて、動揺を隠しながらアリシアはリカルドの背をじっと見る。自分が考えているのは馬鹿げた事だと思いたくて彼を見れば見る程、しかし全ての疑問の答えがそこにあるようにしか思えなくなっていた。
何も言わなくなったアリシアに、今度こそリカルドは立ち去った。けれどアリシアは暫くそのまま動けずにいた。
「……そう、だったのね」
やがてポツリと呟いた言葉には、自嘲と、そして喜びが入り混じっていた。
なんとも愚かな恋だった。恋人になる以前の問題だった事を、知らなかったとは言え滑稽すぎる程に滑稽で、アリシアの口元には自然と笑みが零れる。自分がリカルドに好意を示す度、きっと彼は馬鹿馬鹿しく思っただろう。
けれど、と思う。けれど、彼は自分を離せない。だって、自分以外に彼の秘密を共有できる人間なんていないのだから。
アリシアはそう確認した瞬間、恋する事を止めた。それは、彼女にとっては新しい一歩だった。パートナーとして、伯爵夫人として、この家を、夫を、支えて行こう。恋なんかじゃない。これは、生涯をかけた罪滅ぼしだ。そうしてそれが、呪われた自分達の関係にはピッタリなのだとそう思えた。
その夜、アリシアはリカルド・ブランという男の最大の秘密を知った。
長くなりましたが、ここまでが、第2章となります。
第3章も引き続きご支援いただけますと幸いです!




