第44話 「揺れる決意/言えない言葉」
朝食のあと、家の中は静かだった。
食器を洗う水音。
窓の外で揺れる木の葉。
ノアの、すうすうという小さな寝息。
――いつもと同じはずなのに。
みるくは、胸の奥に残った言葉を抱えたまま、布巾を握っていた。
(……元の世界……)
聞いた瞬間、心がきゅっと縮んだ。
でも、それを顔に出してはいけない気がして、笑った。
……いつもの、控えめな笑顔で。
背後で、椅子がきしりと鳴る。
「……みるくさん」
リオンの声だった。
少し低くて、迷いを含んだ声。
「はい……?」
振り返ると、リオンは立ち上がりかけて、また座り直す。
何か言いたくて、でも言葉が見つからない――そんな仕草。
その間に、ラテが棚の上からひょいっと顔を出した。
「ふたりとも〜、いまね、空気が“もやもや”してる〜」
「ラテ……」
「だいじょぶだよ〜。こわい話じゃないもん。ただね……言いたいことが、胸で渋滞してるだけ〜」
リオンは、苦笑した。
「……本当に、その通りですね」
みるくは、布巾を置いて、そっと向き直る。
「……リオンさん。さっきの話……気にしなくていいですから」
それは、嘘だった。
でも、優しさから出た嘘。
リオンは、ゆっくり首を振る。
「……気にしない、というのは……できません」
みるくの指先が、きゅっと縮む。
「僕……ずっと、帰るつもりで旅をしていました。この世界に来た理由も、ノアを探すためで……」
そこで一度、言葉が止まる。
「……でも」
みるくは、黙って聞いていた。
逃げずに、視線を逸らさずに。
「この家で、みるくさんと朝を迎えるたびに……“帰る”って言葉が、少しずつ……重くなっていくんです」
空気が、やわらかく揺れた。
ラテが、ぽふっと床に降りる。
「りおんね〜、ほんとはもう分かってるよ。ただ……言葉にするのが、こわいだけ」
「ラテ……」
リオンは、困ったように眉を下げた。
「……みるくさん」
「……はい」
「もし……もしもです。僕が、ここにいたいと思ったら……」
そこで、声が震えた。
「……それは、みるくさんにとって……迷惑でしょうか」
その問いは、とても静かで。
とても、臆病だった。
みるくの胸が、どくん、と強く鳴る。
(……そんなふうに……考えてたんだ……)
嬉しい。
でも同時に、怖い。
だって、それは――
“選ばれるかもしれない”という希望で、“失うかもしれない”という恐れだから。
みるくは、少しだけ目を伏せてから、顔を上げた。
「……迷惑、じゃないです」
リオンの目が、わずかに見開かれる。
「……ただ……」
みるくは、指先をぎゅっと握った。
「……わたし、あんまり……自信がなくて……」
声が、小さくなる。
「リオンさんみたいな人が……ここに、縛られるみたいになるの……それが……」
言葉が、続かない。
すると、ノアが目を覚ました。
のそのそと起き上がり、みるくとリオンの間に座る。
そして――
みるくの手と、リオンの手に、同時に前足を乗せた。
「……ノア……」
ラテが、にこっと笑う。
「ね〜。ノアちゃん、言ってるよ〜。“どっちも、ここだよ”って」
その一言で、張りつめていた空気が、ふっとほどけた。
リオンは、小さく息を吐いて、微笑む。
「……ありがとうございます。答えを急がせてしまって……」
「……ううん」
みるくは、首を振った。
「……まだ、ちゃんと……言葉にできないだけ……」
ふたりは、同時に少し照れて、視線を逸らす。
ラテは、満足そうに尻尾をゆらゆら。
「うんうん〜。これね、“大事なとこ”に来てる証拠だよ〜」
窓の外では、雲がゆっくり流れていた。
答えは、まだ出ない。
でも――
逃げずに、向き合っている。
それだけで、確かに距離は、また一歩縮んでいた。




