第43話 「帰る理由が、ひとつずつ消えていく」
朝の光が、障子のすき間からやわらかく差し込んでいた。
台所からは、ことことと鍋が鳴る音。
パンが焼ける、少しだけ甘い匂い。
――いつの間にか、それが「当たり前」になっていた。
リオンは居間で荷物を整理しながら、ふと手を止める。
(……また、増えてる)
棚の端に並ぶ、木彫りの小さな飾り。
みるくが村で買ってきた、素朴なマグカップ。
ノア用の、毛糸で編まれた小さな敷物。
どれも、旅人だった頃の自分には必要なかったもの。
なのに――
今は、どれも置いていきたくない。
そこへ、足元からちょん、と軽い感触。
「りおん〜、またむずかしい顔してる〜?」
ラテが、ふわっと現れて首をかしげた。
しっぽは相変わらず、ゆるゆる。
「……してましたか?」
「してたよ〜。“どこにも行きたくない顔”」
リオンは、小さく苦笑した。
「ラテは……なんでも分かるんですね」
「えへへ〜。だってね、りおんの心、さいきんずっと
『ここ』って言ってるんだもん」
ラテは、床をぽんぽん、と叩く。
その瞬間、リオンの胸がきゅっと締まった。
(……ここ、か)
台所から、声がする。
「リオンさーん! お味噌汁、もうすぐですよー」
みるくの声。
少しだけ寝起きで、少しだけ弾んでいる声。
「はい、今行きます」
返事をしながら、リオンは立ち上がる。
台所に入ると、みるくがエプロン姿で鍋を見ていた。
髪は少しだけ寝癖が残っていて、無防備で。
――それだけで、胸が温かくなる。
「……どうかしました?」
みるくが振り返る。
「いえ。ただ……いい朝だなって」
「え……?」
みるくはきょとんとして、それからふふっと笑った。
「変なの。でも……うん、いい朝だね」
その会話を、ノアが足元から見上げていた。
そして、みるくの足にすり、と体を寄せる。
「……あ」
みるくが少し驚いて、しゃがみ込む。
「ノアちゃん、どうしたの?」
ノアは何も言わず、ただみるくに身を預けた。
ラテが、リオンの肩の上で小さく囁く。
「ねぇ、りおん。ノアちゃんね……もう、さがしてないよ」
「……え?」
「“帰る場所”は、もう見つけたから」
その言葉に、リオンは息をのむ。
ノアは、みるくの膝の上で目を細めていた。
まるで、ずっと前からここにいたみたいに。
みるくが、そっとノアを撫でながら言う。
「……この家、静かだけど……さみしくなくなったよね」
「……はい」
リオンの声は、少しだけ低くなった。
「前は……旅の途中で、通り過ぎるだけの場所でした。でも今は……」
言葉を探して、少しだけ黙る。
みるくは何も言わず、ただ待っていた。
「……帰る理由が、ひとつずつ……なくなっていく感じがします」
その言葉に、みるくの指が、ぴくりと止まった。
「……帰る、って……?」
問いは、静かだった。
でも、胸の奥に小さな波が立つ。
リオンは、少し迷ってから――正直に答えた。
「……元の世界に、です」
一瞬、空気が止まる。
ラテが、そっと尻尾を揺らした。
「みるく……いま、心が“きゅ”って言ったよ……」
「ラテ……」
みるくは小さく息を吸って、笑顔を作った。
「……そっか。リオンさん、旅人だもんね」
「……はい」
それ以上、何も言えなかった。
朝ごはんの匂いは、変わらずそこにある。
ノアは、安心しきった顔で眠り始めている。
なのに――
ふたりの間には、見えない“選択”の影が、そっと落ちていた。
ラテは、ふたりを交互に見て、やさしく呟く。
「だいじょうぶだよ〜。まだね、えらぶじかん、ちゃんとあるから」
その言葉が、救いなのか。
それとも、試練の始まりなのか。
誰にも、まだ分からなかった。
ただひとつだけ――
この朝が、もう戻らない一歩目であることだけは、確かだった。




