第39話 「朝ごはん事件」
台所から、かすかな音が聞こえてくる。
包丁がまな板に当たる音。
鍋のふたが、ことん、と置かれる音。
(……起きなきゃ……)
みるくは布団の中で、小さく深呼吸した。
昨日のことは、忘れてない。
忘れられるわけがない。
(……普通に……しよう……)
そう自分に言い聞かせて、布団から出る。
居間へ出ると、リオンが台所に立っていた。
エプロン姿。
袖を少しまくって、真剣な横顔。
(……似合ってる……)
思った瞬間、みるくは首を振る。
(ちがうちがう、見るとこそこじゃない……)
「……お、おはようございます……」
声が、昨日より一段高い。
リオンは振り返って、柔らかく微笑んだ。
「……おはようございます」
――沈黙。
ふたりとも、何か言おうとして言えない。
代わりに増える、生活音。
湯気の音。
器を置く音。
木の床が、きし、と鳴る音。
(……音だけで……いっぱい……)
みるくは、そっとテーブルにつく。
視線を下げたまま、湯のみを持つ。
……と。
ふと顔を上げた瞬間――
リオンと目が合った。
……一秒。
二秒。
みるくの頬が、じわっと熱くなる。
「……っ」
慌てて視線を逸らす。
その拍子に――
昨夜の布団。
近かった声。
ぬくもり。
(思い出さないで!!)
「……あの」
リオンが、箸を置きながら言う。
「……味、どうですか……?」
「……え? あ、あっ……!」
みるくは、慌てて味噌汁を一口。
「……お、おいしい……です……」
正直な感想。
リオンは、ほっとしたように笑う。
「よかった……」
その笑顔に――
(……あ……)
胸が、ぎゅっとなる。
そのとき。
ノアが、テーブルの下から顔を出す。
「にゃ」
「ノア、おはよう」
リオンが、自然に声をかける。
ノアはリオンの足元にすりっと寄る。
(……この光景……)
みるくは、少しだけ視線を落とす。
(……嫉妬じゃない……はず……)
天井から、ふわっとラテが降りてきた。
「おはよ〜。ふたりとも……なんか……静かすぎない〜?」
「……」
「……」
ふたり同時に、黙る。
「……あ、これね」
ラテは、にこにこ。
「“思い出し赤面期”だね〜。朝ごはんが一番つらいやつ〜」
「ラテ!!」
「説明いらない!!」
ラテの言葉で、さらに空気が甘くなる。
気まずさから逃げるように、みるくは立ち上がる。
「……あ、あの……片付け……」
「……あ、僕も……」
同時に動いて――
距離、ゼロ。
エプロンの紐が、みるくの袖に軽く触れた。
びくっ。
「……す、すみません……!」
「い、いえ……!」
二人同時に、一歩下がる。
顔を上げると――
リオンの耳まで、赤い。
(……リオンさんも……)
それだけで、少し安心する。
朝ごはんは、無事に終わった。
味は、ちゃんと覚えている。
でも、それ以上に――
視線と沈黙の記憶が、強すぎた。
食器を洗いながら、みるくは思う。
(……これは……しばらく……続くやつだ……)
ラテが、満足そうに尻尾を揺らした。
「うんうん〜。いい朝だね〜。進んでないけど、ちゃんと近づいてるよ〜」
みるくは、ため息と一緒に小さく笑った。
静かな朝ごはん事件。
それは、確実に心に残る一食だった。




