第33話 「朝ごはん事件/エプロンと袖と距離ゼロ」
朝の台所には、静かな音が重なっていた。
湯が沸く音。
包丁がまな板に触れる音。
そして……ふたり分の、ぎこちない気配。
(……さっきのこと……まだ……心臓に残ってる……)
みるくはエプロンを身につけながら、そっと息を整えた。
「……朝ごはん……簡単なものでいいですよね……?」
「はい。むしろ……何か手伝います」
リオンは少し距離を取ろうとしている……ようで、取れていない。
台所が、思った以上に狭いから。
みるくが振り向いた瞬間、リオンの袖がふわっと揺れた。
……ひっかかる。
「あっ……!」
「えっ……?」
エプロンの紐と、リオンの袖が絡まっていた。
ほんの些細な事故。
でも……。
(……近い……)
ほどこうと同時に身を寄せてしまい、距離は一気に縮まる。
肩と肩が触れた。
指先が、袖越しに当たる。
息が、かかる。
「……す、すみません……」
ほぼ同時に、同じ言葉。
顔を上げた、その瞬間……また、目が合う。
朝の光の中で見るリオンは、昨日よりもずっと柔らかい。
(……朝の顔……ずるい……)
リオンの喉が、こくりと鳴った。
「……みるくさん……」
「……は、はい……」
声が近すぎて、逃げ場がない。
絡まった紐をほどこうとして、みるくの指が震える。
「あの……こう……」
「……こう、ですね……」
ふたりの手が、同じ場所に伸びて……指先が、触れた。
「――っ」
小さく、息を呑む音。
触れたのは、ほんの一瞬。
でも、体温がはっきり分かる。
みるくの頭が、また真っ白になる。
(……無理……朝から……情報量……多すぎ……)
ラテの声が、当然のように入る。
「ふたりとも〜、距離ゼロだよ〜?」
「ラテ!!」
棚の上から、ラテがごろごろ転がる。
「ねぇねぇ、エプロンってね〜“どきどき加速装置”なんでしょ〜?」
「違う!!」
ノアは、床で丸くなりながら、しっぽだけぱたぱた。
ようやく紐がほどけて、みるくは一歩下がろうとする。
……が。
無意識に、リオンの袖を掴んでしまった。
「……あ……」
掴んだまま、固まる。
(……離せ……!離して……!)
でも指が、言うことを聞かない。
リオンは、そっと視線を落とし、優しく言った。
「……そのままで、大丈夫ですよ」
「え……?」
「……無理に離れなくても……」
声が、静かで、近い。
みるくの心臓が、また跳ねる。
(……やさしすぎる……)
なんとか朝ごはんが完成する。
湯気の立つスープ。
焼きたてのパン。
ふたりは向かい合って座った。
……が。
目を合わせるたび、さっきの距離が蘇る。
「……いただきます……」
「……いただきます……」
同時に言って、また赤くなる。
スープを一口飲んだ、リオンがぽつり。
「……みるくさん」
「……?」
「……一緒にごはん、食べるの……思ってた以上に……嬉しいです」
みるくは、スプーンを持ったまま固まった。
「……っ……」
言葉が、出ない。
ラテが、満足そうに尻尾をふりふり。
「うんうん〜。これね……“日常に溶け込む特別”ってやつだよ〜」
みるくは、そっと笑った。
照れくさくて、でも嬉しくて。
同じ屋根の下。
同じ朝ごはん。
近すぎる距離。
……恋は、もう事故みたいに、始まっているのかもしれなかった。




