第14話 「見えるはずのない存在」
みるくさんが回復して三日ほど経った頃。
子ども教室の準備で村の広場に向かうと、みるくさんはいつもどおり控えめに微笑んだ。
「リオンさん……先日は本当にありがとう。あのスープ、おいしかったよ」
その言葉だけで胸が熱くなる。
(……やっぱり僕は、この人の笑顔が好きだ)
しかしその瞬間、足元に気配が走った。
“やれやれ、ようやく自覚したようだね”
……え?
聞こえたのは、小さな声。
子犬がしゃべったような……いや、そんなはずは。
頭を振って聞き間違いだと思おうとしたが、次の瞬間、視界の端で何かが動いた。
小さな……チワワ?
みるくさんの足元をちょろちょろしているそれは、
青みがかった光に包まれ、まるで透明な膜の中にいるように見える。
(……え? なにこれ……?)
思わず目をこすったが、やっぱり見える。
“やっと気づいたみたいだね。僕のこと”
え、ほんとに……しゃべってる?
しかも……こちらを見てる?
口を開きかけた瞬間……。
「……り、リオンさん?」
みるくさんが不思議そうに首をかしげた。
僕は慌てて笑顔を作る。
「な、なんでもないよ!」
(まずい……普通じゃないものが見えてる……)
教室が始まっても、僕の視線は足元に吸い寄せられ続けた。
ラテ(とみるくさんが呼んでいた気がする)は、
ときおりこちらをじっと見上げてくる。
そして子どもたちの背後を妖精のような軽さで走り回っては、時々、頷くように首を振っていた。
“見えてるんだろ? 気づかないふりは無理だよ”
(えええ……聞こえてるの、完全に僕だけじゃん……!?)
どう考えても、これは何かの“力”だ。
みるくさんがラテに話しかけている間、子どもたちは固まって動かなくなる。
……時が止まっているのか?
……見えない存在に話しかけるみるくさんが不自然に思われないように……。
なのに僕には、見える。
(どういうことだ……? 僕には特別な力なんて……)
そこまで考えたとき、ラテがちょこんと目の前に座った。
“理由、知りたい?”
(え……?)
“簡単なことだよ、リオン。みるくがあなたに心を開き始めたから。みるくの“世界”の扉が、ちょっとだけ開いたのさ”
胸が強く脈打った。
(……みるくさんが……? 僕を信じて……?)
驚きが込み上げた瞬間……。
みるくさんが心配そうに駆け寄ってきた。
「リ、リオンさん!? 顔が真っ赤だけど……大丈夫?」
(ああ、もうダメだ……意識してしまう……)
みるくさんは屈んで僕の顔を覗き込み、子どもにするように額に手を当ててくる。
「ほんとに熱いよ!? 今日無理しないほうが……」
その距離。
その声。
その優しさ。
全部が胸に刺さる。
“ね、リオン。あなた……みるくのこと、好きなんでしょ?”
(ラテ……黙って……!!)
心の中で叫んでも、ラテは満足そうに尻尾を振った。
“なら……みるくを、もっと幸せにしてあげてよね”
そう言って、ラテはみるくさんの足元へ戻っていった。
見えていいのか悪いのか、まだ分からない。
でも一つだけはっきりしている。
……僕は、彼女の世界の“特別な領域”に足を踏み入れてしまった。
それはきっと、もう後戻りできないという合図だった。




