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囁く森


 風が止んでいた。

 朝の空気は重く、湿り気を帯びている。


 校庭の隅に立つ樹木の葉先が、かすかに揺れた。

 その音が、まるで誰かの囁きのように聞こえる。


 「ねえ、明。聞こえる?」

 隣で紗羅が言った。

 振り返ると、彼女は空を見上げたまま、どこか遠くの何かを聴いているようだった。


 「……何を?」

 「森の声」

 淡々とした言葉に、明の喉が鳴った。


 ――また始まった。


 この数日、紗羅は時々おかしなことを口にする。

 誰もいない場所に手を伸ばしたり、校舎の窓から森を眺めて微笑んだり。

 けれど、それを誰も咎めない。

 まるで彼女だけが別の空気をまとっているように、皆、気づかないふりをしていた。


 「紗羅」

 呼びかけても、返事はない。

 彼女の首筋には、薄く浮かぶ模様のような痣――葉脈のように広がっていた。

 その中心が、鼓動のたびに淡く光る気がした。


 ◆


 放課後、図書室。

 明は古い資料をめくっていた。

 『月白学院沿革史』。

 そこには、かつて学院が建つ以前、この地に「祀森まつもり神社」という社があったと書かれている。


 ――神隠しの始まり。


 “森は人を選び、喰らう。選ばれた子は二度と戻らない。”


 ページの隅に、手書きの文字。

 インクがにじんで読めない部分には、誰かの震える筆跡で「さら」と書かれていた。


 明の心臓が跳ねる。

 椅子の軋む音が、図書室全体に響いた。


 「……どうしたの?」

 背後から声。

 振り返ると、霧江先生が立っていた。

 「調べもの?」

 「いえ、ちょっと……」

 「森のこと?」


 その一言で、空気が変わる。

 霧江の瞳の奥、何かが揺らめいた。

 「触れない方がいいわ。森は、思っているより優しくない」

 そう言い残し、彼女は去った。

 その背中から、湿った香が漂っていた――あの森の匂い。


 ◆


 夜。

 明は夢を見た。


 深い霧の中、森の奥に妹の葵が立っている。

 その手を取ろうとすると、葵の顔がゆっくりと紗羅に変わった。

 白い手が明の指先に触れた瞬間、土の冷たさが流れ込む。


 ――『見つけて、明』


 声が、森全体から響く。

 雷鳴。光。

 目を開けると、寮のベッドの上。

 額には冷たい汗。


 窓の外では、雨が降り始めていた。


 ◆


 翌朝。

 校舎の裏手。

 明は、何かに導かれるように森の入口へ向かっていた。


 鳥居の前に立つと、靴の裏が濡れた土を踏む。

 空気が変わる。音が消える。

 森の奥から、無数の“囁き”が聞こえてくる。


 ――“あの子はもう戻れない”

 ――“でも、おまえはまだ間に合う”


 「……誰だ」

 返事はない。

 ただ、葉が揺れ、影が笑う。


 足元を見ると、小さな鈴が落ちていた。

 妹のものだ。

 拾い上げた瞬間、風が吹き抜ける。


 ――“その鈴は“しるし”だ”


 森の声が、明の名を呼ぶ。

 そして、どこかで少女の笑い声が重なった。


 ◆


 夕暮れ。

 森から戻った明は、校舎の廊下を歩いていた。

 手の中の鈴が、かすかに鳴る。


 曲がり角の先で、紗羅が立っていた。

 制服の袖が濡れている。

 「……森に行ってたの?」

 問いかけると、彼女は静かに微笑んだ。


 「森は、寂しいの。だから、呼ぶのよ」

 「呼ぶ?」

 「そう。選ぶために」


 その瞬間、鈴が鳴った。

 澄んだ音が、校舎全体を震わせる。


 明は息を呑んだ。

 紗羅の瞳の奥で、森が揺れていた。

 風もないのに、彼女の髪がふわりと揺れる。


 「紗羅、おまえ――」


 彼女は微笑んだまま、小さく首を振った。

 「聞こえる? 森が、あなたの名前を呼んでる」


 明の心臓が跳ねる。

 次の瞬間、照明がふっと消え、闇が校舎を包んだ。


 ――『ようこそ』


 どこからともなく、その声が響く。


 そして光が戻ったとき、紗羅の姿はもうなかった。

 残っていたのは、彼女の机に置かれた一枚の紙。


 そこには、霧江の筆跡でこう書かれていた。


 『彼女を止めなさい。今なら、まだ間に合う』


 紙の端に、森の葉が一枚、貼りついていた。


 ――冷たい風が吹き抜ける。


 明は拳を握りしめ、保健室の方へ歩き出した。


 次の休み時間、霧江先生は、保健室で“何か”を待っている。

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