雨の中の少女
夢を見ていた。
雨の音。白い霧。森の奥で、少女がこちらを見ている。
その瞳は深く、どこまでも静かだった。
明が一歩踏み出すと、少女は微笑んだ。
——その瞬間、世界が水に沈むように、音が消えた。
目を覚ますと、朝の光が差していた。
時計の針は八時を指している。
寝坊だ。
慌てて制服に袖を通しながら、夢の残滓がまだ胸に残っていた。
あの少女——誰だったのだろう。
校舎へ向かう坂道。
雨はもう止んでいるのに、道の端にだけ水たまりが残っている。
通りすがりの生徒たちは楽しげに話している。
けれど、明の耳には、その笑い声がどこか遠く感じられた。
教室の扉を開けた瞬間、空気が止まった。
「おはよう」
そこにいたのは——紗羅。
昨日まで姿を消していたはずの少女が、何事もなかったように席に座っていた。
微笑み、手を振る。
周囲の生徒たちは驚くこともなく、自然に彼女と話している。
まるで“いなくなっていた”ことなど、最初からなかったかのように。
明だけが、言葉を失って立ち尽くしていた。
◇
昼休み。
屋上のフェンスにもたれ、風を受けながら考える。
「どういうことだ……」
葵がいなくなった時も、同じだった。
翌日、誰もその名を口にしなくなった。記録からも、存在ごと消えたように。
——まさか、また。
ふいに背後で靴音がした。
振り向くと、紗羅が立っていた。
薄い光を透かした髪が、風に揺れている。
「探してたの、明くん」
その声は、夢の中で聞いたものと同じだった。
明は息を呑んだ。
「君、昨日……どこにいた?」
「昨日?」
紗羅は首をかしげた。
「ここにいたよ。ずっと」
笑う。その笑顔が、どこか違って見えた。
生きているのに、生気がない。
瞳の奥に、森の影が見えた気がした。
◇
放課後、保健室。
霧江先生がカーテンの向こうから現れた。
「どうしたの、明くん。顔色が悪いわ」
明は小さく首を振った。
けれど、先生の机の上に置かれた小瓶が目に入る。
——中には、乾いた苔のようなものと、古い木の葉。
それが微かに脈打つように見えた。
「……先生、紗羅さんのこと、知ってますか」
霧江は一瞬だけ表情を止めた。
「何を?」
「昨日、いなかったのに、今日は——」
「その子は毎日登校しているわよ」
言葉が氷のように冷たく、何かを拒むようだった。
「森の話はしないほうがいい」
そう言って、霧江はカーテンを閉じた。
◇
夜。
寮の廊下を歩くと、窓の外で雨がまた降り始めていた。
明はため息をつき、ポケットからハンカチを取り出す。
——その中に、小さな木の葉が挟まっていた。
朝、机の上に置かれていたものだ。
触れた瞬間、指先がひやりと冷たくなった。
「……紗羅?」
外を見る。
森の方で、白いワンピースの影が揺れている。
傘もささずに立ち尽くし、こちらを見ていた。
稲光が一瞬、彼女の姿を照らす。
その首筋に、黒い痣が浮かび上がった。
模様のような、まるで“根”のような形。
——そして、次の瞬間、姿は消えた。
◇
翌朝。
校舎の前の花壇に、足跡が残っていた。
小さくて裸足。
水たまりの縁に、赤い花びらが一枚浮かんでいる。
紗羅はいつも通り教室にいた。
「昨日、どこか行った?」
「え?」
彼女は笑った。
「行ってないよ。どうしたの?」
言葉を失う明の目の前で、彼女の髪から一滴の水が落ちた。
その水は机の上で光り、すぐに消えた。
——雨の匂いだけが、残っていた。




