神隠しの森
雨が静かに降っていた。
一粒ずつ、屋根を叩く音が、壁を伝って寮室の奥へ滲み込む。
明は窓辺に腰をかけ、濡れた森をじっと見つめていた。
「……また森、見てんのか」
ドアの隙間から顔を出したのは、ルームメイトの悠人だった。
明は小さく笑って肩をすくめる。
「見てるだけだよ」
「見てるだけのやつが、毎晩あんな顔しねえって」
「顔?」
「呼ばれてんだろ、森に」
言葉が胸の奥に刺さる。雷が光り、森の奥が一瞬だけ白く浮かんだ。
その中で、何かが動いた。影か、気配か。
——あの夜も、こんな雨だった。
妹・葵が消えた夜。
明はそっとカーテンを閉めた。
◆
翌朝、雨はやんでいた。
校舎の石畳は濡れた光を跳ね返し、空気の中にはまだ湿り気が残っている。
教室のざわめきの中、誰かが言った。
「また行方不明、だってさ」
「え、誰?」
「三年の紗羅。夜、森の方に行ったらしい」
出席を取る教師が低く呟く。
「紗羅、また休みか」
その瞬間、明の耳に、昨夜の声が蘇る。
——『見つけて、明』
まるで空気の奥から届くような、女の声。
◆
放課後。
裏庭の隅、小さな傘が落ちていた。濡れた土の上に、半分だけ開いて。
持ち上げると、森の匂いがした。
傘の骨に、小さな葉が一枚挟まっている。
「紗羅の……」
名前を呟いた瞬間、背後で誰かが笑ったような気がした。
風が吹き、森が低く唸る。
◆
夜。
門限を破り、明は寮の裏口を抜け出す。
靴底が濡れた地面を踏むたびに、水の音が小さく響いた。
森の入口に、古びた鳥居。苔むした木肌が、月の光を吸い込んでいる。
——くぐった瞬間、空気が変わった。
冷たい。湿った匂いの中に、甘い香りが混ざっている。
遠くで鈴のような音。
「……誰か、いるのか」
木々の間、白い影が立っていた。
長い髪、濡れたワンピース。
ゆっくりと振り返り、彼女は唇を動かした。
「……明」
雷が鳴り、白光が森を裂く。
気づけば、少女の姿は消えていた。
◆
翌朝。
教室に入った明は息をのむ。
そこに紗羅がいた。
何事もなかったように座り、ノートを開いている。
「……おはよう」
振り返った彼女の瞳に、光が宿っていなかった。
首筋には、淡い模様のような痣。
そして、明の机の上には——昨夜見たのと同じ木の葉が、一枚。
悠人がひそひそと囁く。
「な、なあ。紗羅って、昨日いなかったよな?」
「……見間違いかもな」
明は言いながら、指先で木の葉をなぞった。冷たい。
◆
放課後。
保健室の前で霧江先生に呼び止められる。
「君、最近よく森の方を見ているわね」
「……別に、見てるだけです」
「森はね、見てるだけの子を好まないのよ」
「……どういう意味ですか」
「森は、呼ぶ子を選ぶの」
霧江は微笑んだ。その瞳の奥に、何かが揺れた。
明は返事ができなかった。
◆
夕暮れ。雷鳴。
空が一瞬だけ裂け、森の奥が白く光る。
その光の中で、紗羅の姿が見えた。
ワンピースの裾を濡らしながら、森の奥へと歩いていく。
「紗羅!」
叫んでも振り返らない。
雨の匂い。遠くでカラスが鳴く。
明は傘を握りしめ、低く呟いた。
「待ってろ、紗羅」
森の奥から、囁きが返ってきた。
——『ようこそ、明』
雷鳴がすべてを飲み込み、世界が暗転した。




