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いったい何がどうなっているの?
葵は自分に何が起こったのか理解ができずにただ呆然と立ち尽くしていた。
さっきまで春めいた陽気を気持ちよく感じながら、まだ人影もまばらな早朝に一人のんびりとジョギングを楽しんでいた。
そして突然の目眩のようなものを感じ目の前が暗転たと思ったら、気づけば訳もわからず見覚えのない場所に佇んでいる。
「どうやら失敗のようですな」
葵が声のした方を確認すると、薄暗闇の中仄かな明かりを手に持つ人影があった。
気配を探りながら確認すると床も壁も天井も黒く、まるで密閉されているかのようなあまり広くもない空間に、同じように明かりを手にした複数の人の気配がある。八人は居るだろうか。
「女などを召喚するとは、これは責任問題ですな」
「待ってください。今回はかなり条件を絞り込むことには成功しています」
「しかし結果が伴わなくては全くもって意味はありませんよ」
「そうですぞ。私も彼の意見に同感です」
「仕方ありません。また新たな召喚の準備を始めるしかないでしょう」
部屋の中に静かに反響している声を聞きながら、葵は夢でも見ているのだろうかと考えていた。
「それでこやつはどういたしましょう?」
「次の儀式での生け贄には使えるのだろう。それまではどうとでも好きに使うがいい。間違っても殺すなよ」
「ではそのように」
会話の内容から不穏な空気を感じ、葵は我に返り咄嗟に声の主を探しその方向を睨み付けた。
パシン!!
激しい音とともに左頬に熱いものを感じた瞬間衝撃で体勢を崩し葵はその場に倒れ込んだ。素早く近づいてきた者からいきなり頬を打たれたのだと気づき呆気にとられる。
「レスタド様に視線を向けるなど失礼な。死罪にされないだけありがたいと思え!!」
ジンジンと痛み始めた頬に手を当て、葵はただただショックで体を硬くした。
十九年間生きてきて今まで自身の身が暴力にさらされた経験など一度もなく、実際に目にしたこともなかった。
暴力だとか体罰だとかDVだとかそれはみんな物語の中の出来事かもしくはまったくの他人事で、現実では自分とは一切関係がないものだと思っていた。
なのに理由すらよく分からないいきなりの暴力。葵はなぜか急に腹の底から今まで抱いたことのない怒りが込み上げるのを感じた。
「許せない」
暴力で人を抑えつけようとか問題を解決しようというその思考が許せない。
それに会話の内容からどう考えても男尊女卑の古くさい風習がまかり通っているらしいことも許せない。
そして何よりきっとこれは多分間違いなく異世界に召喚されたのだろう。だとしたら、今まで平和な国で平穏に暮らしていた生活のすべてをここにいるこいつらに突然奪われたのだ。
もしかしなくても父や母といった家族や友達とももう二度と会えないし、大好きだったあれもこれももう食べられないだろうし、お気に入りだったあれやこれやももうできない。考えれば考えるほどに悔しさが沸々と湧き上がり腹立たしい思いが込み上げる。
「女ごときが我らに声を発するなど不愉快だ」
倒れ込んでいた体を思い切り蹴り上げられ、腹部に感じた鈍痛に思わず蹲るようにして身を守りながら葵は唇を噛んだ。
「許せない!」
地球でも女だという理由で虐げられる国があると葵の中にも薄い知識としてあった。
女だという理由で学校に行かせてもらえないだとか、幼いうちから結婚させられるなんて風習がいまだにあることも知っているし、過去にはもっと酷い風習があったと聞いたこともある。
「まだ逆らうか!!」
蹲っていた体をさらに蹴り上げられた。
何なの何なの何なの。私に簡単に暴力を振るうコイツが許せない。だいたい男尊女卑なんてカビくさい考えがはびこるこの国の風習が許せない。それに召喚なんて考え出したヤツが許せない。そして何より召喚なんて横暴を許しているこの世界が許せない。この世界に神様がいるのなら絶対に許せない! みんなみんな滅びればいい!! こんな世界ごと滅んでしまえばいい!!!
葵はキツく唇を噛みながら湧き上がる怒りにだんだんと我を忘れていった。
「エコエコアザラク、エコエコザメラク。エコエコアザラク、エコエコザメラクエコエコアザラク、エコエコザメラク・・・」
ここが誰かを召喚できる場所だというのならどうかお願いこんなくだらない国を滅ぼせる悪魔を呼んで! 平和な世界で平和に過ごす人たちがもう二度と召喚されないように、こんなくだらない世界を壊してしまえる力をどうか私に与えて。
葵は昔読んだ漫画の一小節呪いの言葉を思い出し、口の中で何度も繰り返しながら一心に願った。
葵の体がさらに蹴られた瞬間に堅く噛んだ唇から一滴の血が床へと滴り落ちた。瞬間床に描かれていただろう紋章が光り始め、葵の口から滴り落ちた一滴の血がその紋章をなぞるように広がっていく。その様子に辺りに居た人々がざわめき出す。
「何が起こった!?」
「これは何事ですか?」
「私にも訳が分かりません」
「しかし確かに召喚の紋章が反応しているではないか。おまえでなくて誰にこのようなことが事ができるというのだ」
「もしかしたらそこの彼女が・・・」
恐る恐る口からでたその言葉に反応したのかその場に居た全員の視線が葵に集まった。
「「「・・・・・・」」」
一際まがまがしく床の紋章が光る。
『我を呼ぶのはそなたか。望みを叶えるには生け贄を捧げよ』
突然頭に響くバリトンボイスに葵はおもいっきり怒りをぶつけるように応える。
「ここに居る人たち全員が生け贄よ。それで足りなければこの世界の人たちを気が済むまで好きなだけ好きにすればいいわ」
どうせこの世界を滅ぼすんだから。葵はそんな思いを強く抱いていた。
『気に入った。では好きにさせてもらおう』
薄暗闇の中不気味な血の色に光る紋章の中から徐々に姿を現したのは、黒い翼を持ち山羊のような角を携えた人型の葵の持つイメージのままの悪魔だった。
その悪魔が小さく人差し指を振るとその場に居た人々がバタバタと倒れ出し、気づけば床にはミイラのように痩せ細っている人の姿もあった。多分葵を召喚するときに生け贄にされた人なのだろう。葵も次の召喚で生け贄にされああなっていたのかと思うとさらにぞっとした。
体を守るように蹲った体に力を入れ葵は覚悟を決める。しかしてっきりここに居る全員と同じように悪魔の生け贄にされると考えていたのに、目の前の悪魔は葵に何かをすることはなく両手を広げ何かを始めた。
「ちょっと待った!!」
部屋に居た葵以外の姿が黒い霧となって消えた瞬間突然現れた人影があった。
「どうかどうかこの世界を滅ぼすのだけはお許しください!」
土下座せんばかりの勢いでいまだに床に倒れ蹲る葵の目の前に現れたのは、頭には天使の輪を持ち背中には白い羽を広げている見るからにイメージ通りの天使だった。
「邪魔をするでない」
「そこをどうかお願いします。この世界が滅んでしまっては彼女も生きてはいけませんよ!」
「・・・」
「どうかあなたからも言ってください。願いを聞いていただけるのなら私もあなたの願いを叶えましょう」
天使は必死の形相で葵に縋るように訴える。
「願いを叶えてくれるのなら今すぐ元の世界に帰して」
「・・・それはできません」
「何でも叶えてくれるんじゃないの?」
「えっと、そのぉ。その願いはですね、無理なんです」
「だから何でよ!」
「私にはそこまでの力がないので・・・」
なによそれと葵は呆れ果て言葉もなく体を起こす。さっきまで痛んでいたはずの体はなぜかどこにも異常がなく、痛みなどすっかりと消えていて何事も無かったかのようだった。
「続けてもいいのか?」
悪魔が葵に確認するように聞いてくる。
「だからどうかそれだけは!」
堂々巡りの問答に葵はさっきまでの毒気は抜かれていた。
しかし元の世界に戻れないのならもうどうでもいいという気持ちもどこかにあり、かといってそれが自分自身の消滅を願っているものではないのも確かだった。
うん、やっぱりまだ死にたくは無いわ。
「契約違反にならない程度にしてくれる?」
葵は悪魔に向けてそう提案してみる。
「では、そのように」
悪魔がそう呟くとどうしたことか葵の体から何かが抜けていくのを感じる。けして苦しくも痛くもないが何かとてつもない不安を覚えていた。
「このままではいけません。私にお任せを!」
今度は天使が葵の体に何かを流し込んでくるのを感じた。
悪魔から吸い出される何かと天使から流し込まれる何かが体を巡るのがとても気持ち悪く、葵はまたもや床へと倒れ込んだ。
「なんと旨い。これほど甘美な魔力を味わったことがない」
いったいどのくらいの時間が経ったのか、一時間だったのか一日だったのか、すごくすごく長く感じていたその時間もやっと終わりを告げる。
ぐったりとする葵とは裏腹に満足げに腕を組み恍惚の表情を浮かべる悪魔。
「世界は守られました。ありがとうございます!」
涙ぐみひたすら頭を下げる天使を目の前にしてゆっくりと起き上がった葵は、自分の視線の高さが低いことに気づき慌てて自分の姿を確認する。
「何よこれ!」
発した声も何気に少し高くなっている。どうしたことか葵の姿は幼女となっていて、どう見ても幼稚園生か小学校低学年生かといった雰囲気だ。
ショック!!
まさかここへ来て見た目は子供中身は大人を体験することになるとは思ってもいなかった。いや、中身が大人かと問われればそれほど大人でもないのだけれど・・・。
しかしまさかの出来事の連続に葵の心はすっかりと疲弊し、体から力が抜けるままに座り込んで呆然としするしか無かった。