22.彼女となら
その日、俺はイレーネとともに、王宮で開かれた舞踏会に参加した。
人の多い場所に行くなど、本来なら絶対にあり得ないことだ。だから最初は、さすがに無理だと断ったのだが――。
「一生のお願い」と言われてしまえば、もうどうしようもない。その言葉は反則だ。叶えてやらないわけにはいかないではないか。
しかし、呪われた辺境伯である俺が人前に姿を見せれば、また奇妙な噂が立つだろう。
以前は、確か「生き血を啜って若さを保っている」だとか、「父親を殺して辺境伯のふりをしている」だとか……。そう言われていたはずだ。
今更俺は何を言われても構わないが、一緒にいるイレーネにまで不快な思いをさせるのは避けたいところ。
だからどうしても舞踏会に行きたいのなら、アメリアと行くといいと言ったのだが――彼女は俺と行きたいらしい。
いっそ、いつかイレーネに言われたように、「実は孫だ」とでも言ったほうが皆に納得してもらえるかもしれないとさえ思った。
それでも、馬車に揺られて王宮に向かう間、俺は何も言えなかった。
というのも――ドレスアップしたイレーネが、あまりにも美しすぎたからだ。
馬車の中で、彼女と何を話したか、あまり記憶がない。
喉の奥が詰まったように、うまく言葉が出せず、目の前にいる彼女を直視することもできなかった。
――この世に、これほど美しい人がいるのか。
淡いピンクから紫へと移ろうドレスが、まるで彼女そのもののように、やわらかく、優しく、そして凛としていた。
華やかにセットをされた髪も、瞳の奥にきらめく光も、すべてが輝いていた。
そんな彼女は、俺を見て微笑んでいた。くすくすと楽しそうに、まるで陽だまりのような笑顔で。
その笑顔を見るたび、どうしようもなく胸が締めつけられる。
俺のような冷たい人間に、神はどうしてこのようなあたたかい存在を与えたのか――未だにわからない。
*
会場に足を踏み入れた瞬間、肌にまとわりつくような視線が押し寄せてきた。
そのほとんどが俺に向けられていることは、痛いほどわかっている。
こういう場所は、どうにも落ち着かない。
流れる音楽と甲高い笑い声、きつい香水の香りと煌びやかな装飾が空気を満たし、喧噪が肌を刺すように感じる。
こんな空気は何年ぶりだろうか。王都の舞踏会など、もう何十年も避けてきた。
……やはり、来るべきではなかったかもしれない。
そんな考えが頭をよぎったとき、ふと横に目を向けると、そこにいるイレーネが俺と目を合わせてにこりと微笑んだ。
「行きましょう、旦那様」
「……ああ」
そうだ――。俺は、イレーネの夫だ。
彼女に恥をかかせるわけにはいかない。堂々と振る舞わなければ。
誰にどう言われても構わない。俺にはイレーネがいる。彼女がすべてで、彼女が笑っているのなら、それでいい。
会場内に進んでいくと、やがて別の視線も感じるようになった。
貴族の男どもが、賞賛と羨望を隠そうともせずにイレーネを見つめているのだ。
……当然だ。彼女は誰よりも美しいのだから。
その美しさは、容姿だけではない。笑顔も、声も、仕草も、そして――あまりに優しすぎるその心までもが、彼女をひときわ輝かせている。
彼女はずっと、父親によって隠されてきたのだろう。
しかし、イレーネは本来、生まれながらにして愛されるべき存在だ。
誰からも慕われ、愛され、そして幸せになるべき人だと……今日、改めて思い知らされた。
そんな彼女を、俺は……もうすぐ失ってしまうのか。
それでも、今だけは。
そんなことは考えないようにして、ただ彼女だけを見つめた。
イレーネの手を取り、ゆっくりとダンスフロアに立つ。
生まれて初めて、自分から誰かと踊りたいと思った。
彼女の腰に手を添えると、イレーネの小さな手が俺の肩に乗った。
その温もりが、まるで優しい炎のように胸の奥に染み込んでくる。
くるりと彼女が回るたびに、ドレスの裾がふわりと舞い上がり、煌めく光が彼女を照らした。
それはまさに、夢のような時間だった。
この瞬間だけでいい。彼女の幸せそうな顔を見ていたい。
できるなら、このまま時間が止まってしまえばいい。
……彼女となら、俺は永遠にも感じる時間をともに過ごしたいと――そう思った。




