表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
21/25

21.彼女のためにできること

 昼下がりの庭園。

 やわらかな日差しが葉を透かして降り注ぎ、木漏れ日となって地面に模様を描いていた。

 咲き誇る花々は風に吹かれてそっと揺れ、どこか夢の中のように、静かで穏やかな時間が流れている。


(気持ちがいい――)


 こうしていると、自分が呪われている存在だということを忘れてしまいそうになる。

 空も風も草木も日の光も。それらだけは、昔と変わらない。


 書類仕事の合間。俺は久しぶりに庭を歩いていた。

 イレーネが好きだと言っていた、あの白い花の苗がうまく根付いたか、それを確かめたくなったのだ。


 だがそのとき、ふと植え込みの陰に人影を見つけた。

 イレーネとアメリアだった。

 声をかけることができずに立ち止まった次の瞬間、俺は気づいた。


 イレーネが……泣いている。


 陽を受けてきらりと光る涙。

 肩を震わせながら、それでも笑おうとしているように見える横顔に、胸の奥が締めつけられた。


「ごめんなさい、アメリア……」

「いいんですよ……イレーネ様」


 いつもあんなに明るい声で笑っている彼女が、一体どうしたんだ。初めて見る彼女の表情に、一瞬混乱してしまう。


 誰かに酷いことを言われたのか? それとも……俺が、彼女を傷つけてしまったのか?


 胸の内がざわめき、足が無意識に前へ出そうになる。

 しかし、そっとイレーネに寄り添うアメリアの背中と、そのあたたかな空気を壊してしまう気がして躊躇う。すると、イレーネの口から意外な理由が語られた。


「私……今が本当に幸せで……」

「ええ……」


 ――幸せ?

 そんな言葉と、涙がどうしてともにあるのか。

 幸せなのに、泣いているというのか?


「毎日が、本当に楽しくて……。こんな思い、初めてで……」


 イレーネの震える声が、風に乗って俺の耳に届く。途切れがちな言葉の一つ一つが、胸の中に落ちてくる。

 アメリアは優しく彼女の背中をさすりながら、「ええ、ええ」と聞いてやっていた。


「不思議ね。今までは……別に、死ぬのは怖くなかったの。それなのに……この幸せがなくなってしまうのかと思うと……私……」

「……イレーネ様」


 その言葉を聞いて、俺はようやく理解した。

 彼女が流している涙の意味。

 それは、俺にも理解できるものだ。

 大切な存在になればなるほど、失うのが辛いのと同じように。

 彼女もまた、今の生活を大切に思い、失うのが怖いのだ。

 かつては死を受け入れていた彼女が、今は生きたいと願っている――。


「でもね、私……旦那様には本当に感謝しているの」

「ええ、わかっていますよ、イレーネ様」


〝旦那様〟その言葉に、俺はごくりと息を呑む。

 イレーネの声は、どこか遠くを見つめるように、静かだった。


「旦那様のおかげで……私は死にたくないと思うようになってしまうくらい、幸せなの」


 彼女の声には、深く澄んだ感情が宿っていた。

 俺がここにいることは、気づいていないはずの言葉。


「こんなにも失うのが怖いと思えるものがあるなんて……私は贅沢なくらい幸せね」

「イレーネ様……」


 アメリアの涙ぐむ声が聞こえる。


「ふふ、こんなことを言えるのは、アメリアだけよ」

「このアメリアが、なんでも聞いて差し上げますからね」

「ありがとう。大好きよ、アメリア」

「私も大好きです……、イレーネ様」


 二人は微笑み合い、そっと抱き合った。

 あたたかな陽だまりの中で寄り添うその姿は、まるで本当の祖母と孫のようで――けれど、それ以上に深い絆が見えた気がした。


 ……ああ、そうか。

 イレーネにとってアメリアは、血の繋がりなど関係ない、かけがえのない家族なのだ。

 彼女には、母も祖母もいない。

 甘えることを知らず、誰にも弱さを見せられずに、ただ静かに日々を耐えてきたのだろう。

 子供の頃に与えられるべき、無償の愛も、あたたかな抱擁も――きっと、知らなかったのだ。


「……っ」


 俺の心が、ぎり、と音を立てた気がした。

 イレーネが、そんなことを思いながら――俺の前では笑ってくれていたのか。


 ……何も気づかなかった。

〝楽しそうにしているから、大丈夫〟と、自分に都合のいい幻想を抱いていた。


 彼女は、なんて強い人なのだろう。

 俺は、呪われた自分の運命を恨み、遠ざけるだけだった。誰も傷つけぬようにと口実をつけて、向き合うことすらしてこなかった。


 しかし彼女は、しっかりと自分の運命を受け入れ、毎日を精一杯生きている。

 誰かを癒し、誰かを救い、こんなにも輝いている。


 ――俺は、情けないほどに未熟だ。

 彼女よりずっと長生きしているというのに、歳だけを重ねて、肝心なことに気づけなかった。


 これ以上、彼女を泣かせたくない。

 彼女の素晴らしいはずの未来を、繋いでやりたい。


 どんな形であれ……たとえこの命を使ってでも……俺が彼女の〝呪い〟を解きたい。


 その想いが、胸の奥で燃え上がった。

 心が張り裂けそうになるほど、痛いくらいに、ひたすらに――強く、強く。




     *




 蠟燭の火が、ぼんやりと揺れている。

 静まり返った書庫の奥で、俺は埃の積もった古い魔導書を何冊もめくっていた。

 ページの隅は黒ずみ、かすれたインクは時折読み取りづらい。

 それでも、目を凝らし、わずかな可能性にすがるように、この数ヶ月、毎日言葉を拾い続けていた。


〝命を削る癒しの力〟

〝呪いに似た代償〟

〝聖なる力の祝福〟


 イレーネの力に、少しだけ似ている記述はあるが、それを止める方法はどれだけ探しても載っていない。

 いくつかの文献には、こうあった。


〝呪いは、真実の強い愛によって打ち消すことができる〟

〝ただし、偽りの愛では反動が起き、呪いがより深く根を張る〟

〝女神の祝福により、聖なる力を得た者だけはその限りではない――〟


 女神など、実在するのかもわからない存在には頼れない。とても現実的ではない。

 そして真実の愛――それが条件なら、意味がない。

 ……俺にはきっと、無理なのだから。


「はぁ……」


 ページを閉じた音が、書庫の中に乾いたような反響を残す。

 目頭を押さえ、俯き、考える。


 イレーネが嫁いできて、もうすぐ一年になる。

 その間、俺は彼女を避け続けてきた。

 食事に誘ってくれた日も、庭に咲いた花を見せてくれた日も、優しい笑顔で話しかけてくれた日も……そのすべてを、俺は素っ気なく拒んできた。

 情を持ってはいけないと、心に言い聞かせて。

 彼女の優しさに触れてしまえば、深く沈んで戻れなくなると思った。


 だから、心を塞いだ。愛さないように、愛されないように――逃げてきてしまったのだ。


「……なのに、今更」


 彼女の涙を見たあの日から、俺の中で何かが壊れた。

 本当は苦しく、辛いに決まっているのだ。

 それでも笑おうとしていたイレーネが、あまりに愛おしかった。

 俺が彼女のためにしてやれることは、ただ〝好きなことをさせる〟だけなのか?


 ……あのとき俺は、彼女の身体に手を伸ばし、抱きしめたいと願ってしまった。

 誰からも愛されてこなかった彼女を、深く愛したいと思ってしまった。


 たとえ彼女を失った後、俺が立ち直れないほど深い傷を負うとしても――俺はとっくに、彼女を愛してしまっていると、認めざるを得ない。


 だが、それで何ができる?

 俺が彼女を愛したとしても、彼女はどうだ?

 こんな冷たい俺を、彼女が真実の愛で想ってくれるとでも?


「あり得ないな……」


 今更向き合ったところで、彼女が俺を同じように愛してくれるとは思えない。

 俺の命を彼女に分けようなどと考えて、もし失敗すれば――。


 ――怖い。

 俺が死ぬのは構わない。だが、彼女にその代償がいってしまうのが、たまらなく怖い。


 俺は彼女を救いたいのに、触ることさえできない。

 愛しているのに、愛しているからこそ、近づけない。


 ……そもそも俺は、本物の愛など知らない。


 実の親に、呪いの代償として差し出されたこの身。

 真実の愛など、見たことがないのだ。

 イレーネへのこの想いが、本当に〝真実の愛〟なのかも、俺にはわからない。


 だが、どうしたらいい――?


 イレーネの灯火が、確実に、日に日に小さくなっている。

 笑っていても、目の奥ではだんだんと光を失っていく彼女を、見過ごすわけにはいかない。


 震える指で、もう一度魔導書を開いた。

 どこかに、何か……見落としはないか?

 ほんのわずかな、小さな希望でも構わない。


 彼女の命の灯火(レーベンスフラム)を消さずに済む方法が……どうか、あってくれ。


 祈るような気持ちで、俺は今日もページをめくった。

 蝋燭の火は揺れながら、俺の影を床に長く伸ばしていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
更新ありがとうございます! 旦那様、それが愛なんです(´;ω;`)自分の想いと向き合おうとする旦那様が好きです(*˘︶˘*).。*♡旦那様はイレーネのことをそういう風にみてたんですね(;∀;) 旦那様…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ