21.彼女のためにできること
昼下がりの庭園。
やわらかな日差しが葉を透かして降り注ぎ、木漏れ日となって地面に模様を描いていた。
咲き誇る花々は風に吹かれてそっと揺れ、どこか夢の中のように、静かで穏やかな時間が流れている。
(気持ちがいい――)
こうしていると、自分が呪われている存在だということを忘れてしまいそうになる。
空も風も草木も日の光も。それらだけは、昔と変わらない。
書類仕事の合間。俺は久しぶりに庭を歩いていた。
イレーネが好きだと言っていた、あの白い花の苗がうまく根付いたか、それを確かめたくなったのだ。
だがそのとき、ふと植え込みの陰に人影を見つけた。
イレーネとアメリアだった。
声をかけることができずに立ち止まった次の瞬間、俺は気づいた。
イレーネが……泣いている。
陽を受けてきらりと光る涙。
肩を震わせながら、それでも笑おうとしているように見える横顔に、胸の奥が締めつけられた。
「ごめんなさい、アメリア……」
「いいんですよ……イレーネ様」
いつもあんなに明るい声で笑っている彼女が、一体どうしたんだ。初めて見る彼女の表情に、一瞬混乱してしまう。
誰かに酷いことを言われたのか? それとも……俺が、彼女を傷つけてしまったのか?
胸の内がざわめき、足が無意識に前へ出そうになる。
しかし、そっとイレーネに寄り添うアメリアの背中と、そのあたたかな空気を壊してしまう気がして躊躇う。すると、イレーネの口から意外な理由が語られた。
「私……今が本当に幸せで……」
「ええ……」
――幸せ?
そんな言葉と、涙がどうしてともにあるのか。
幸せなのに、泣いているというのか?
「毎日が、本当に楽しくて……。こんな思い、初めてで……」
イレーネの震える声が、風に乗って俺の耳に届く。途切れがちな言葉の一つ一つが、胸の中に落ちてくる。
アメリアは優しく彼女の背中をさすりながら、「ええ、ええ」と聞いてやっていた。
「不思議ね。今までは……別に、死ぬのは怖くなかったの。それなのに……この幸せがなくなってしまうのかと思うと……私……」
「……イレーネ様」
その言葉を聞いて、俺はようやく理解した。
彼女が流している涙の意味。
それは、俺にも理解できるものだ。
大切な存在になればなるほど、失うのが辛いのと同じように。
彼女もまた、今の生活を大切に思い、失うのが怖いのだ。
かつては死を受け入れていた彼女が、今は生きたいと願っている――。
「でもね、私……旦那様には本当に感謝しているの」
「ええ、わかっていますよ、イレーネ様」
〝旦那様〟その言葉に、俺はごくりと息を呑む。
イレーネの声は、どこか遠くを見つめるように、静かだった。
「旦那様のおかげで……私は死にたくないと思うようになってしまうくらい、幸せなの」
彼女の声には、深く澄んだ感情が宿っていた。
俺がここにいることは、気づいていないはずの言葉。
「こんなにも失うのが怖いと思えるものがあるなんて……私は贅沢なくらい幸せね」
「イレーネ様……」
アメリアの涙ぐむ声が聞こえる。
「ふふ、こんなことを言えるのは、アメリアだけよ」
「このアメリアが、なんでも聞いて差し上げますからね」
「ありがとう。大好きよ、アメリア」
「私も大好きです……、イレーネ様」
二人は微笑み合い、そっと抱き合った。
あたたかな陽だまりの中で寄り添うその姿は、まるで本当の祖母と孫のようで――けれど、それ以上に深い絆が見えた気がした。
……ああ、そうか。
イレーネにとってアメリアは、血の繋がりなど関係ない、かけがえのない家族なのだ。
彼女には、母も祖母もいない。
甘えることを知らず、誰にも弱さを見せられずに、ただ静かに日々を耐えてきたのだろう。
子供の頃に与えられるべき、無償の愛も、あたたかな抱擁も――きっと、知らなかったのだ。
「……っ」
俺の心が、ぎり、と音を立てた気がした。
イレーネが、そんなことを思いながら――俺の前では笑ってくれていたのか。
……何も気づかなかった。
〝楽しそうにしているから、大丈夫〟と、自分に都合のいい幻想を抱いていた。
彼女は、なんて強い人なのだろう。
俺は、呪われた自分の運命を恨み、遠ざけるだけだった。誰も傷つけぬようにと口実をつけて、向き合うことすらしてこなかった。
しかし彼女は、しっかりと自分の運命を受け入れ、毎日を精一杯生きている。
誰かを癒し、誰かを救い、こんなにも輝いている。
――俺は、情けないほどに未熟だ。
彼女よりずっと長生きしているというのに、歳だけを重ねて、肝心なことに気づけなかった。
これ以上、彼女を泣かせたくない。
彼女の素晴らしいはずの未来を、繋いでやりたい。
どんな形であれ……たとえこの命を使ってでも……俺が彼女の〝呪い〟を解きたい。
その想いが、胸の奥で燃え上がった。
心が張り裂けそうになるほど、痛いくらいに、ひたすらに――強く、強く。
*
蠟燭の火が、ぼんやりと揺れている。
静まり返った書庫の奥で、俺は埃の積もった古い魔導書を何冊もめくっていた。
ページの隅は黒ずみ、かすれたインクは時折読み取りづらい。
それでも、目を凝らし、わずかな可能性にすがるように、この数ヶ月、毎日言葉を拾い続けていた。
〝命を削る癒しの力〟
〝呪いに似た代償〟
〝聖なる力の祝福〟
イレーネの力に、少しだけ似ている記述はあるが、それを止める方法はどれだけ探しても載っていない。
いくつかの文献には、こうあった。
〝呪いは、真実の強い愛によって打ち消すことができる〟
〝ただし、偽りの愛では反動が起き、呪いがより深く根を張る〟
〝女神の祝福により、聖なる力を得た者だけはその限りではない――〟
女神など、実在するのかもわからない存在には頼れない。とても現実的ではない。
そして真実の愛――それが条件なら、意味がない。
……俺にはきっと、無理なのだから。
「はぁ……」
ページを閉じた音が、書庫の中に乾いたような反響を残す。
目頭を押さえ、俯き、考える。
イレーネが嫁いできて、もうすぐ一年になる。
その間、俺は彼女を避け続けてきた。
食事に誘ってくれた日も、庭に咲いた花を見せてくれた日も、優しい笑顔で話しかけてくれた日も……そのすべてを、俺は素っ気なく拒んできた。
情を持ってはいけないと、心に言い聞かせて。
彼女の優しさに触れてしまえば、深く沈んで戻れなくなると思った。
だから、心を塞いだ。愛さないように、愛されないように――逃げてきてしまったのだ。
「……なのに、今更」
彼女の涙を見たあの日から、俺の中で何かが壊れた。
本当は苦しく、辛いに決まっているのだ。
それでも笑おうとしていたイレーネが、あまりに愛おしかった。
俺が彼女のためにしてやれることは、ただ〝好きなことをさせる〟だけなのか?
……あのとき俺は、彼女の身体に手を伸ばし、抱きしめたいと願ってしまった。
誰からも愛されてこなかった彼女を、深く愛したいと思ってしまった。
たとえ彼女を失った後、俺が立ち直れないほど深い傷を負うとしても――俺はとっくに、彼女を愛してしまっていると、認めざるを得ない。
だが、それで何ができる?
俺が彼女を愛したとしても、彼女はどうだ?
こんな冷たい俺を、彼女が真実の愛で想ってくれるとでも?
「あり得ないな……」
今更向き合ったところで、彼女が俺を同じように愛してくれるとは思えない。
俺の命を彼女に分けようなどと考えて、もし失敗すれば――。
――怖い。
俺が死ぬのは構わない。だが、彼女にその代償がいってしまうのが、たまらなく怖い。
俺は彼女を救いたいのに、触ることさえできない。
愛しているのに、愛しているからこそ、近づけない。
……そもそも俺は、本物の愛など知らない。
実の親に、呪いの代償として差し出されたこの身。
真実の愛など、見たことがないのだ。
イレーネへのこの想いが、本当に〝真実の愛〟なのかも、俺にはわからない。
だが、どうしたらいい――?
イレーネの灯火が、確実に、日に日に小さくなっている。
笑っていても、目の奥ではだんだんと光を失っていく彼女を、見過ごすわけにはいかない。
震える指で、もう一度魔導書を開いた。
どこかに、何か……見落としはないか?
ほんのわずかな、小さな希望でも構わない。
彼女の命の灯火を消さずに済む方法が……どうか、あってくれ。
祈るような気持ちで、俺は今日もページをめくった。
蝋燭の火は揺れながら、俺の影を床に長く伸ばしていた。




