20.心配で仕方ない
「そういえばここ数日、彼女は庭で遊んでいないのか?」
イレーネが嫁いできてから、数ヶ月が経ったある日。
日が暮れてきた静かな執務室で、窓の外を眺めながらふと浮かんだ疑問を、お茶を持ってきたアメリアに問いかけた。
天気のいい日は決まって、イレーネとシュネーが庭で遊んでいるはずなのに、ここ数日は彼女の笑い声を耳にしていない。
「彼女は、どうした?」
「……実は、イレーネ様は少し体調を崩されて――」
「なんだと!?」
その一言を聞いた瞬間、俺はすべての思考を吹き飛ばされていた。
「あ、旦那様……!」
アメリアがまだ何か言おうとしていたが、気づけば身体が勝手に動いていた。
執務室を飛び出し、長い廊下を迷うことなく駆け抜ける。
何をそんなに焦っているのか、自分でもわからなかった。
ただ、気づけばイレーネの部屋の前に立ち、迷うことなく、ノックすらせずに扉を押し開けていた。
「イレーネ――!」
ベッドの上で、彼女は大きな目を見開き、驚いた顔で俺を見つめた。
「旦那様……?」
「大丈夫なのか? 体調を崩したと、アメリアが……!」
「ふふ、大丈夫ですよ。ただの風邪ですから」
何事もなかったかのように微笑む彼女に、なぜか強烈に苛立ちが込み上げた。
「ただの風邪……だと?」
誰に対しての苛立ちなのかはわからない。
赤い顔で、無理をして平気なふりをする彼女にか、彼女のため何もできない自分にか。
……やはり、これまで彼女を気にかけてこなかった、俺自身にだ――。
「シュネーと水遊びをして、しばらく濡れたままいたせいです」
「……もう少し、自分を大切にしろ」
笑いながら答えた彼女に、俺は低く、心の声を漏らすように呟いた。
「え?」
もしかしたら、予定より早く彼女の寿命が尽きてしまう可能性だってあるのに。
俺はなぜそれを、忘れていたのだろう。
彼女はもう誰かのために自分を犠牲にする必要もなければ、痛みや苦しみを押し隠して笑う必要もない。
彼女は自由に生きていい。
それなのに、今でも街の子供たちの小さな怪我を治しているという。
自分の寿命を削って、どうしてそんなことをするのだろうか。
「もっと我儘を言えばいい。苦しい、辛いと言えばいい。他人に気を遣わず、自分のことだけを考えて生きればいいものを――」
「……」
イレーネが驚いたように俺の顔を見つめている。しかし、言葉を止められなかった。
胸の奥に押し込めていたはずの感情が、溢れ出してしまった。
「……ありがとうございます。ですが、私はちっとも無理なんてしていませんよ。本当に、ただの軽い風邪です」
そう言ってまた微笑む彼女の表情が穏やかで、ようやくほっと胸を撫で下ろす。
どうやら、本当に大したことはなさそうだ。
「でも、旦那様がそんなに慌てて駆けつけてくださるなんて、嬉しいです」
「……っ!」
彼女の言葉に、心臓が跳ねた。無意識に息を呑む。
――もう、誤魔化せない。
この胸の痛みも、焦燥も、不安も、すべてが彼女に向けられたものだ。
俺は、彼女のことが――。
「まぁまぁ、旦那様」
そこに、パタパタと急いだ様子でアメリアがやってきた。
「旦那様の長い脚についていくのは大変ですよ」
「アメリア……」
「心配なさるお気持ちはわかりますが、最後まで聞いてください? イレーネ様の風邪は大したことはございません。ほんの数日安静にしていただいているだけです」
おほん、と軽く咳払いをするアメリアに、俺はなんともばつの悪い表情を浮かべた。
「それに、いくら奥様でも、女性の寝室に許可なく踏み込むのは、さすがによろしくありませんよ?」
…………しまった。
冷静になって初めて、自分がどれだけ取り乱していたかを自覚する。
きょとんとしているイレーネは、寝衣姿で上半身だけを起こし、ベッドの中にいる。
「……失礼」
今更恥ずかしくなって目を伏せ、俺は静かに部屋をあとにした。
背後から、イレーネとアメリアが小さく笑う声が聞こえてきて、余計に顔が熱くなる。
しかし――。
俺は、もう認めるしかなかった。
彼女がいなくなることを、俺は心の底から嫌なのだ。