02.今日から好きに生きます
「失礼します――」
扉が重々しく開かれ、私はそっと部屋の中に足を踏み入れる。
そこにいたのは――想像を遥かに超えた、あまりに若々しい男性。
「……イレーネ・ブラフィンでございます」
「アルノルト・シュテフェルドだ」
素っ気なく答えたその顔には、皺一つ刻まれていない。むしろ、滑らかで美しい肌をしている。
艶やかな黒髪はふさふさのサラサラで輝きを放ち、濁りのない紫色の瞳が鋭くこちらを射抜いてくる。
腰が曲がっているどころか、すらりとした長身に、しなやかな筋肉が備わった、若々しい男性。
「……あなたが、アルノルト様?」
「そうだ。かけてくれ」
「……」
まるでまったくの別人を前にしているような気分に陥りながらも、私は彼の向かいにあるソファへと腰を下ろす。
八十を過ぎているのなら子供を作れないかもしれないから、きっともっと若いのだろうとは思っていたけれど……まさかここまで若いとは。
どう見ても、二十代半ばにしか見えない。
「……」
目が合わないのをいいことに、目の前の男性の顔をじっと見つめる。
彼はまるで美術品のような端正な顔立ちをしていた。
高い鼻梁に切れ長の鋭い眼差し、それなのにどこか気品を感じさせる口元。
そして何より――その身体。
黒で統一された衣服の下に隠されてはいるけれど、しなやかに鍛えられた肉体が、布越しでもわかる。
「もしかして、あなたはアルノルト様の……孫ですか?」
「正真正銘、アルノルト・シュテフェルドだ」
間髪入れずに放たれた言葉に、思わず間の抜けた声が漏れる。
「はぁ……」
嘘をついているようには見えない。けれど、世間に伝わるシュテフェルド辺境伯の噂とはあまりにもかけ離れている。
……もしかして、彼には年を取らない呪いがかけられているとか?
それならさぞ羨ましがられる呪いね……。
「……?」
そんなことを考えている私をじっと見つめている視線に気づき顔を上げると、無表情のままさっと逸らされた。
何か意味深な視線に感じたけれど……気のせいかしら?
でも、そんなことより――。
「まさかシュテフェルド辺境伯様がこんなにお若いとは思いませんでした。なぜ私を妻に迎えることにしたのかわかりませんが……正直、おすすめできません」
「……は?」
苦笑いを浮かべながら告げた私に、彼は腕を組んだまま小さく声を上げた。
「老い先短い者同士ならともかく、あなたはこの先まだまだ長生きしますよね? ですが私は、持ってあと二年です」
「……というと?」
「私はもうすぐ死にます。そんな私を妻に迎えても、あなたにとって何のメリットもありませんよ」
できるだけ暗くならないよう、淡々と伝える。
「それに……跡継ぎができたとしても、どうせ私の父に取られてしまうに決まっていますし」
「ああ……そういうことか」
彼はあまり驚いた様子も見せず、静かに目を伏せた。
「あなたのことなら、知っている」
「え?」
「寿命が短いことも承知のうえで、妻に迎えた」
「……そうなんですね」
なぜ?
そう問いたかった。でも、あまりにも淡々とした口調に、つい納得するように頷いてしまう。
「残り短い時間を、好きに生きるといい」
「えっ?」
「金も自由に使っていいし、好きなものを食べていい。何か要望があればこのアメリアに言え」
彼がそう言うと、私をここまで案内してくれた老婦人の侍女が頭を下げた。
「……なぜ、そこまでよくしてくれるのですか?」
もしかして彼は、私の力のことも知っているのだろうか。
父が子供を引き取る代わりに、私が死ぬまでの二年間、彼にこの力を利用させるという取引をしたのかもしれない。
そんな考えがよぎる私に、彼はやはり淡々と答えた。
「短命であるあなたの気持ちはわからないが、長生きする俺の気持ちも、あなたにはわからないだろう」
「…………」
それ、答えになってますか?
もしかして、早死にする私への嫌味?
一瞬そう思ったけれど、彼の瞳がわずかに切なげに輝いているのに気づき、私は言葉を呑み込んだ。
その表情に、ほんの一瞬だけ寂しさの影が差した気がした。
やがて彼は無言のまま立ち上がり、私に背を向ける。
長身の背中が静かに遠ざかり、重厚な扉が閉じられた。
「ああ見えて、優しい方なのですよ」
その背中を見送る私に、アメリアが穏やかに微笑む。
「それに、旦那様にも秘密があるのです」
「……? はぁ」
秘密――?
ますますこの結婚の謎が深まるばかりだけど……好きに生きていいというのなら、お言葉に甘えさせてもらおうと思う。
どうせ私はもうすぐ死ぬのだから。
だったらせめて、私の人生は私のものにする。
今日から私は、自由に生きます。