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19.彼女が気になる

 ある日の昼下がり。

 少し休憩しようと執務机から立ち上がり、ふと窓の外に目を向けたときだった。


「シュネー、こっちよ!」


 賑やかで元気いっぱいな声が聞こえた。イレーネだ。


 俺は無意識に窓辺に近づき、彼女に視線を向けた。


 庭で、イレーネがシュネーと遊んでいる。大きくて白い毛並みのシュネーがイレーネにじゃれつき、彼女は無邪気に笑いながら受け止めている。


 かと思ったら、今度はイレーネがシュネーを追いかけ始めた。彼女は靴を脱ぎ捨て、裸足で芝生の上を駆けている。

 シュネーがくるりと向きを変え、イレーネの足元をすり抜ける。

 彼女は軽やかに身体をひねりながら、「あっ!」と笑った。


 その顔があまりにも楽しそうで――俺は息を呑んだ。


「ふふっ、待って! もう、ずるいわよ!」


 シュネーが勝ち誇ったようにしっぽを振ると、イレーネは膝に手をつき、肩を上下させながら笑っていた。

 額には汗が滲んでいるのに、それを拭いもせず、ただ心から楽しそうに微笑んでいる。


「……本当に、楽しそうに笑うんだな」


 余命わずかな娘。

 子供を産むために、実の父に〝呪われた辺境伯〟に売られた、かわいそうな娘。


 そういう枷が、彼女を縛っているはずなのに――イレーネは、それをものともせず笑っていた。


 屈託のない、無邪気な笑顔。

 あんな表情をする貴族令嬢を、俺は今まで見たことがなかった。


 ――どうしてだ?

 どうして、彼女はあんなにも純粋に笑える?

 俺の屋敷で、俺の領地で……まるで、生まれたときからここにいたかのように。



「――イレーネ様、元気ですね」

「!」


 背後から声がしてハッと振り向くと、アメリアが微笑みながら近づいてきた。


「声はかけたのですが……そんなに夢中になってしまわれるなんて」

「いや……」


 アメリアの呼びかけに気がつかないくらい、俺はイレーネに心を奪われていたらしい。


「今日の午前中も、使用人たちと一緒に花壇の手入れをされていましたよ。楽しそうに泥まみれになって……とてもお育ちのいい貴族令嬢とは思えないくらいでした」


「もちろん、いい意味で」と続けるアメリアの言葉に、俺は庭へと視線を戻す。


 イレーネは、シュネーを抱きしめて芝生に転がり、そのままけらけらと笑っていた。

 風が吹き、彼女のシルバーピンクの美しい髪をそっと揺らす。


 その姿を見ていると――胸の奥が、妙に熱くなった。


 これまで、彼女はどんなに窮屈な人生を送ってきたのだろう。

 そんなに楽しいのなら、気の済むまでそうさせてやりたい。明日も、明後日も、一年後も、十年後も――ずっと。


 しかし、彼女にそんな時間は残っていない。だから、今を目いっぱい楽しんでいるのかもしれない。


「……あまり無茶はさせるな」


 そう言って、俺は執務机に戻る。

 アメリアが「旦那様?」と不思議そうに首を傾げたが、それ以上何も言わなかった。




     *




 屋敷の中にいると、時々イレーネの笑い声が聞こえてくる。

 それが聞こえるたびに、なぜか意識してしまう自分がいる。


 ――おかしいな。

 ただの、恩返しのつもりで結婚した相手のはずなのに。

 どうして、あの笑顔がこんなにも胸に焼きつく?


 この屋敷で、彼女は少しでも幸せを感じているのだろうか――。



 夕食の時間が近づく頃、俺は執務室の椅子に深く腰掛けたまま、しばらく動けずにいた。

 机の上には報告書が山積みになっているが、内容が頭に入ってこない。


 ふと、手を止めて考える。

 ――今日の食事はどうするか。


 俺は普段、食堂ではなく自室で簡単に済ませることが多い。

 誰かと食卓を囲むのは、気を遣うし面倒だった。

 だから、イレーネが屋敷に来てからも、彼女と同じ席で食事をとったことはない。


 ……だが、今日はどうする?


 最近、俺の中で何かが変わり始めていた。


 イレーネが無邪気にシュネーと遊ぶ姿や、俺を気にかけてくれる瞳が、どうも頭から離れない。

 それは、アメリアから「イレーネ様は旦那様のことを気にかけていますよ」と聞かされたせいかもしれない。


 もし、彼女が俺と食事をともにすることを望んでいるのなら、叶えてやるべきでは――。


 これまでも、食堂からイレーネの楽しげな笑い声が聞こえたときは、俺も一緒に食事をしようかと考えたことがある。


 彼女は食べることが好きだ。

 使用人たちからも、彼女が食事をとても楽しんでいると聞いていた。

 おそらくこれまでは、ろくな食事を与えられていなかったのだろうということも。


 ……彼女と食事をともにすれば、何かが変わるだろうか。


 しかし、俺はすぐにその考えを振り払った。


 いや、深入りすべきではない。関われば、もっと彼女のことを知りたくなる。彼女を失ったとき、後悔することになる。


 俺はもう、何度もその苦しみを味わった。

 大切な存在になればなるほど……喪失感が大きくなることはわかっている。



 だから、彼女を大切な存在にする気などなかったのに――。


 俺は静かに立ち上がると、食堂のほうへ足を向けた。



「――わぁ、このスープ、とっても美味しいわね!」

「本当に。さすが、料理長の自信作なだけありますね」

「おかわりしてもいいかしら?」

「もちろんです。たくさん召し上がってくださいね」


 食堂から、イレーネの弾むような声が聞こえる。彼女の楽しそうな様子が、その声から伝わってくる。


 俺が中に入ったら、彼女はどんな顔をするだろうか?

 俺が向かいに座ったら、驚くだろうか?


 ――いや、何を考えている。そんなこと、しないほうがいい。


「……っ」


 拳を握り、なんとか踏みとどまった。



 しかし、俺はどんどん彼女が気になるようになっている。

 木登りをしているところを見たら、落ちて怪我をするのではないかと心配になったし、お菓子もいいが、もっと栄養のあるものを食べたほうがいいと、いらない気を回したこともあった。


 しかし、決まって彼女は「どうせもうすぐ死ぬので、いいのです」と笑って答える。


 その台詞に似つかわしくない眩しい笑顔でそう言われてしまえば、もう俺から返す言葉はなかった。


 そうだな――。好きに生きろと言ったのは俺なのに、何を気にかけているのだろう。


 どんなに怪我をしないよう過ごしても、健康に気を遣っても。

 どうせ、彼女はすぐに死んでしまう。最期のときを少しでも楽しく過ごせるのなら、それでいいはずだったのに。


 いつの間にか俺は、この先もずっと、ずっと……彼女を見ていたいと思うようになっていた。




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― 新着の感想 ―
更新ありがとうございます! 旦那様の優しさがなんだか切なく感じます(´;ω;`) やっぱりとても優しい人ですね…
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