18.情を交わすべきではない
旦那様視点始めましたm(*_ _)m
イレーネがこの屋敷に嫁いできて、ひと月ほどが経った。
俺は彼女と必要最低限の会話しかしていない。妻に迎えても、彼女とは最初から深く関わるつもりなどなかった。
彼女が背負うものを考えれば、いずれ失うことになる存在に情を寄せるべきではないからだ。
彼女の曾祖母に借りがあるから、せめてその子孫であるイレーネが最期の時間を健やかに過ごせる手助けをするのが、俺の務め。
俺は恩を返し、彼女は最期の時間を自由に暮らす。
互いに必要最低限の関わりだけを持ち、穏やかに日々を過ごす。
それが俺にとっても、彼女にとっても最善のはずだった。
はず、だった。
しかし、彼女の存在は、確実に俺に一筋の光をもたらせていた――。
「旦那様、おはようございます」
朝の廊下でばったりと鉢合わせたとき、イレーネは何の迷いもなく俺にそう声をかけた。
やわらかく微笑み、まるで長年の夫婦であるかのように、自然に。
……妙な女だ。
もうすぐ死ぬというのに、彼女は一切悲観的な態度を見せない。
毎日本当に好きなことをして過ごし、楽しそうに笑っている。
「……おはよう」
俺はただ短く言葉を返し、そのまま通り過ぎようとした。
だが、イレーネはふっと表情を緩め、俺の顔を覗き込んできた。
彼女のシルバーピンクの長い髪が、さらりと揺れる。
「よく眠れましたか?」
そして、まるで本当に俺を気遣うような言葉に、思わず足を止めて彼女を見つめた。
イレーネは何の含みもなく、ただ純粋に俺の体調を気にしているようだった。
これは白い結婚なのだから、俺がどう過ごそうと関係ないはずだ。それなのに、どうしてそんなふうに聞く?
「……問題ない」
それだけを答え、歩き出す。
イレーネは「それならよかった」と微笑み、何事もなかったように使用人たちと談笑しながら去っていった。
気のせいだろうか。胸の奥に、妙な感覚が残っている。
彼女の微笑みが、なぜか脳裏に焼き付いて離れない。
――思っていたのと、違う。
イレーネは、もっと暗く沈んでいると思っていた。
まだ十八年しか生きていないというのに死を宣告され、呪われた辺境伯に嫁ぐなど、本来なら耐え難いことのはずだ。
なのに、どうしてあんなにも自然に笑えるのか。しかも俺のことまで気遣うなど――。
俺はその理由を考えるのをやめ、歩みを速めた。
深入りするつもりはない。これは一瞬の気の迷いだ。
その夜、アメリアが俺の執務室にお茶を運んできたとき、不意に言った。
「――旦那様、ご存じですか? イレーネ様はとても素敵な方ですよ」
アメリアも、初めて会ったときは幼い子供だった。彼女の母親がうちで働いてくれており、子供だった彼女と遊んでやった記憶が俺の中にまだ残っている。
しかし、今では彼女のほうが俺の何倍も歳を取ってしまった。
他の使用人もそうだ。うちで働いている者は皆、俺の呪いを知る者。
親の代からうちで働いている者だけだ。
「街に出たとき、焼き立ての串焼きを頬張って、それはもう幸せそうにしていらして……見ているこちらまで笑顔になるほどでした」
食事を楽しむ彼女の姿は、俺の記憶にもある。たまたま食事中の彼女を目にしたことがあるからだ。
素直に「美味しい」と微笑みながら、アメリアたちと食事をする姿に、目を奪われた。
「それだけじゃないんですよ。道で転んだり、怪我をしてしまった子供を見つけたら、イレーネ様はすぐに駆け寄って助けていました。迷わずに力を使って……」
イレーネが誰かのために力を使うことは、想像に難しくない。
彼女がこれまで父親にどのように扱われていたのかは、調べがついている。
本当に酷い父親だ。子供を道具のように扱うなど――。
ふと、数十年も前に亡くなった俺の父を思い出す。
あの男も、息子を道具としか見ていなかったな。
当たり前のように人々を癒してきたイレーネ。
彼女の境遇を考えれば、その行為がどれほど自然なものなのかを思い知る。
「かわいそうな女だ」
アメリアの前で、あえて彼女を冷たく突き放すようにそう口にした。
しかし、アメリアはそんな俺に少しだけ目を見開くと、「あらぁ」と大袈裟に驚いたような声を出す。
「イレーネ様は、旦那様のこともよく気にかけていますよ」
「……俺を?」
その言葉に、俺は手にしていた書類から思わず顔を上げた。
「旦那様がいつもお一人でいらっしゃるのを、心配していました。イレーネ様には、旦那様がとても寂しそうに見えるようですよ?」
「…………」
アメリアと街に行く際も、彼女は俺に「旦那様もご一緒にいかがですか?」と声をかけに来る。俺が一緒に出かけたことはないが、外に出た彼女を窓から眺めてみたことがあった。
俺が用意させた淡いピンクのドレスを身にまとい、髪に花飾りをつけた彼女は、とても愛らしいと思った。
しかし、俺は彼女と一緒に出かける気はない。
「今日も、旦那様がきちんとお食事をとられたか、私にこっそり尋ねてきました」
「イレーネが、俺の食事を?」
思わず眉を寄せると、アメリアがくすりと笑った。
「ええ。本当に優しいお方です。食事の準備をするたびに、『旦那様はどんなお料理がお好きか』と聞いてくださるんですよ」
ふふっと楽しそうに笑うアメリアから、俺は反射的に目を逸らした。
……なぜ、彼女は俺に興味を持つのだろう。
彼女は好きなことをしていながら、誰かを傷つけることはなく、アメリアや他の使用人に無理な願いや我儘を言うこともない。
むしろ使用人たちも、イレーネが来てから、明るく、楽しそうな表情を見せることが増えた。
イレーネは使用人たちに、ただ素直に、ともに楽しみたいと、そういう要望をしているらしい。
そんな彼女が、どうして俺など気にかけるのか。
「あんなに素敵な方が旦那様の奥様になられて……私は嬉しいです。寿命が短いなんて、嘘みたいに元気で――」
心の声をこぼすように言って、アメリアはぴたりと言葉を止めた。
「失礼いたしました」
「……いや」
慌てて頭を下げたアメリアだが、その瞳がうっすらと潤んでいることには気がついた。
彼女は俺の未来を誰よりも心配してくれている。
おそらく、イレーネと、普通の夫婦のような生活ができればいいと……望んでくれているのだろう。
しかし、決してそれを口にしないのは、これまで俺がどんな思いで生きてきたのか。それも誰よりもわかっているからだ。
「報告ありがとう。今日はもう休んでくれ」
「はい。おやすみなさいませ、旦那様」
静かに部屋を出ていくアメリアを見送って、俺は息をつく。
「……」
情を交わすべきではない――と、何度も思った。
「……短命である彼女の気持ちは、俺には本当にわからないのかもしれないな」
それ以上何も言わず、手元の書類に視線を戻した。
これ以上考えても、無意味だ。
しかしその夜。ベッドに入ってからもイレーネの姿が脳裏に浮かんで、離れなかった。