12.最初で最後のダンス
その手の動きがあまりにも自然で、まるで風が吹き払うような、機械的な冷たさすら感じられた。
たちまち、セリーナの表情が凍りつく。
唇が震え、目を瞬かせる彼女の姿は、まるで想定外の出来事に遭遇した子供のようだった。
「行こう、イレーネ。ダンスを踊りたいのだろう?」
「はい……!」
アルノルト様は私の手を取り、優しく微笑んだ。
その微笑みは、いつもの無機質なものではない。
彼の大きな手の温もりが、私の胸の奥までじんわりと広がる。
私は安心するように、その手をぎゅっと握り返した。
――その時、背後から小さく、けれど確かに聞こえた声。
「何よ……呪われた辺境伯のくせに」
セリーナの呟きに、アルノルト様の身体がほんの一瞬、固くなるのを感じた。まるで鋼の刃が胸をかすめたかのような、冷えた緊張が指先に伝わる。
けれど、私は迷わず彼の手を強く握った。
「旦那様は呪われてなどいないわ!」
くるりと振り返り、セリーナに向かってはっきりと言い放つ。
私の声は、会場のざわめきの中にあっても、はっきりと響き渡った。
私はもう、誰にも遠慮はしない。
我慢も、妹に譲ることも、もうしない。
――私はアルノルト様の妻なのだから。
「……っ、何よ! お姉様なんかもうじき死んじゃうくせに!」
セリーナは顔をくしゃくしゃにして叫び、そのままドレスの裾を翻して走り去っていった。
悲鳴のような足音が遠ざかるにつれ、会場に微かなざわめきが広がる中、私はそっと息を吐き、アルノルト様の顔を見上げた。
「申し訳ございません、アルノルト様。妹が失礼を……」
「いや、君が謝る必要はない。俺は何も気にしていない……ただ――」
アルノルト様は私の手をぎゅっと包み込み、そのままそっと私の耳に顔を寄せる。
「君が傷ついていないか、それだけが心配だ」
彼の低く優しい声が、胸の奥に染み渡る。
――私はもう、傷つかない。だって、こうしてアルノルト様がそばにいてくれるから。
「大丈夫です。私は……もう、弱くありません」
そう告げると、アルノルト様の唇がふっと緩み、静かに微笑んだ。
そして、優しく私の手を引いて、フロアの中央へと導いてくれる。
――これは、きっと最初で最後のダンス。
アルノルト様の腕が私の腰に添えられ、音楽がゆっくりと流れ出す。
彼の温もりに包まれと、まるで時間が止まったように感じた。
彼のリードに身を委ねると足取りは軽く、心まで舞い上がるようだった。
まるで空を舞っているかのように軽やかで。彼と一緒なら、どもまでだって行ける――そんな気がした。
くるりと回るたび、私のドレスの裾がふわりと舞い、会場の人々の視線を惹きつける。
『美しい……』
誰かが、感嘆の声を漏らした。
シャンデリアの光が細やかに揺れ、きらめきが私たちを包み込む。
けれど、私の世界にはアルノルト様しかいなかった。
彼の紫色の瞳が私を見つめ、どこまでも深く引き込まれていく。
「イレーネ」
「はい……」
心地よく耳に響く声で、アルノルト様が私の名を呼ぶ。
思えば、彼にこうして名前を呼ばれたのは初めてかもしれない。
それだけで胸がじんわりとあたたかくなって、甘やかな想いが広がっていく。
「君と踊るのは、とても気持ちがいい」
ふと、彼の瞳にほんのりとした微笑みが浮かぶ。
彼の言葉に、鼓動が跳ねるのを感じた。
「私も……旦那様と踊れて、とても幸せです」
嫌がるアルノルト様を無理やり舞踏会に連れ出してしまったけれど、今こうして彼が楽しそうにしている姿を見ると、誘い出してよかったと思える。
私は少し恥ずかしそうに微笑む彼の肩に、そっと額を預けた。
こんなに素敵な方だもの……きっと私がいなくなっても、もっと相応しい相手が現れるはず。
それでも――今だけは、この瞬間だけは、寿命のことも、妹のことも、すべて忘れていたい。
ただ、愛する人の腕の中にいる。
それだけで、私は十分だった。