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天舟篇

作者: 伊平 爐中火

 男は聾唖(ろうあ)だった。未だ己が足で立つも(まま)ならぬ頃、高熱を出した。爾来、耳が聞こえなくなった。勿論、文字などの文化の片鱗すら未だ見せぬ時代のこと。精々が収穫したものを数えるに、ようやく木の棒に傷を書き付けるに至った頃のこと。だから、男の耳が聞こえぬこと、言葉の発せぬこと、その因果を知る者などいなかったのだが。

 草のうちに食える実のなすものがあること。その実を土に植えれば、より沢山の実が得られること。それは知られていた。そして、それは幾世代か繰り返されていた。野獣を狩るよりは、森に草原に(まれ)にある実を啄むよりは、大分安定した暮らしが得られる。それは厳然たる事実となっていた。だが、文字も無ければ数世代も前のことなどわかるはずも無い。だから、彼らはただ親より教わったやり方をただ繰り返していた。人の伝聞など不確かなこと。世代毎に曲がりくねって伝わった教えは、時に正しいものもあれば、時に間違ったものもあった。それを墨守することで、村は成り立っていた。


 彼の住んでいた村は河の傍にあった。河が肥沃な土を運んでくれる。それを彼の住む村の人々が知っていたかどうかを知る術はない。しかし、幾世代かによる経験により、河の傍が最も実りが良いことを知っていた。ただし、あまり河に近いと偶にある氾濫によって畑が荒らされる。だから、程よい距離を保った位置が最も良いことも知られていた。

 いや、知っていたというよりも、淘汰されたというのが正しいかもしれない。

 氾濫によって流された人々は許より、河を離れるほど実りは少なくなる。己が耕した畑から得られたものが全て。多少の互助こそあったが、それこそが価値観を担う全て。とすれば、致し方あるまい。実りを得られなかったものから、その家の者から死んでいく。それは緩慢であったかもしれない。だがしかし、河の傍を離れるほどに人の数は減っていき、やがて人の住まぬ土地となる。それは事実だった。


 勿論、そんなことでは得られる(かて)は限られていた。幾人食わせることが出来るか、それは決まっていた。

 そうとなれば、不具の男を養う余裕などあるはずがない。そんな状況で、彼が彼の母と変わらない背となるまで育つことが出来たのは、(ひとえ)に両親の愛があったからに他ならない。そこに、彼以外の子が病で死んだこと、そういう打算こそあったかもしれないが。

 彼の父は村で最も強い男であった。それも彼が、当時で言うところの成年、そんな齢まで生き残ることが出来た理由の一つであった。

 腕っ節の強さはわかりやすい基準であった。別に争うまでも無く、田力の有る無しはわかりやすい価値観であったのだ。そうとなれば、彼の父に逆らうは村の人々にとって、そう簡単ではなかったのだ。


 そんな彼は幼少の頃より形というものにこだわった。それは抽象的な意味での「形」ではなく、もっと具体的な意味の形であった。文字もない時代である。すれば、何かしらの形というものでしか、彼は意思を汲み取ることも、意思を伝えることも出来なかったのだ。畑の形、農具の形、家の形。人の表情一つとってもそうである。家族が、集落の人々が、彼の聞こえぬ言葉を発する時、何か口の形を変えている。その形の時系列を追った変化。それぞれが意味することを考えた。

 考えると言っても彼には言葉は無かった。人間が考える際に言葉を用いることは今更論ずるまでもないだろう。しかし、彼には言葉が無かったのだ。だから、彼は彼の中でのみ通じる言葉を作った。作らざるを得なかったとも言える。その言葉を使って世の形相を掴むことを学んだ。


 そんなわけで彼は育った。彼は自身が男であることを自覚することが出来る程度の齢まで生きることが出来た。それが幸であった不幸であったかは、わからない。

 人の情動として、本能として、彼は想う人がいた。彼より幾分か生まれが早い、既に女の身体の出来ている女だった。

 人の言葉を話せぬ彼は、叶わぬ想いを抱かねばならねばならなかった。人の言葉を話せぬ彼は、それをどうするかなど、話せる相手はいなかった。

 となれば、彼自身が見たようになす、そうするしかなかった。彼自身が暗がりで見たように、そこで男が女になしていたように、なすしかなかった。元々人間と獣との、その境も曖昧な時代である。彼は父親譲りの大柄な身体を使ってしまった。

 むべなるかな。むべなるかな。

 それが、もたらした結果は、少なくとも現代の価値観に合わせてみれば、あまり快いものではなかった。獣欲に任せた者は裁かれず、その被害者は追放される。彼に襲われた娘は泣いた。そして、村の片隅に追いやられた。所謂、村八分というものに近い。

 しかし、彼にはその喧噪を知る術など無かった。年嵩の男どもが何やら深刻な顔付きで話しているのこそ見たが、許より他者との意思疎通の叶わぬ彼である。だが、彼の思った女は彼からは目の届かぬところへ行ってしまった。それはわかった。

 彼は泣いた。女の姿を見つけることが出来なくなって、しばらくして気付いたのだ。己がなしたことに端を発していると。その懊悩故に寝付けず、夜外に出た。空を眺めた。勿論、明かりなど無い満天の星空である。その絶景を絶景と解するは、むしろ、それが貴重なものと成り果てた現代の人々の感覚かもしれない。だが、彼にとっても人生において重大な一幕であった、暖かなその一日のその景色は彼の心へ傷とともに刻み込まれた。


 気落ちした彼は畑仕事に精を出した。畑仕事をしている間は色々と考える必要はなかったのだ。形に拘る彼の造った畑は矩の整った見事なものであった。

(これで、口が利くことが出来れば。)

 それが周囲の彼の評価であった。彼が嘗て起こした騒動は差して重要ではなかった。食料をより良く得られることこそが価値であった。

 そんな彼が妻を娶ることが出来なかったのは、彼が口が利けぬ故だった。子が親の形質を継ぐことは既に良く知られていた。彼の大柄の身体もその証左と言えた。ただ、彼が口を利けぬのは現代医学の観点からはむしろ後天的なものであることは明らかであるのだが、その違いを弁別出来る者はいなかった。


 彼は孤独だった。同年代は既に一家をなして子もいる。それを見て、自分は彼らとは何か別のものであるのだと彼は思った。だから、彼らと同じようにすることは許されない。ただ、畑を耕し糧を得ることは許されているのだと。嘗て、手を出した彼の女と結ばれなかったのも、自分が異物であることが原因であると考えた。

 夜暗くなり人の表情が読みづらくなると、声の聴けぬ彼は尚更孤独であった。だから、外で空を見上げるのが常となった。無作為に並べられ星々。河の流れのさざ波のように行きてかつ元の形に戻らぬ。そのように見える、見えていた星々。

 やがて、彼は気付いた。寒い日々が続いた後しばらくすると、彼の泣いたあの夜の日と同じ星々が見えることに。同じ「形」に星々が並ぶことに。そして、そこから徐々に暖かくなることに。彼の人生で最も苦痛であった出来事を思い出される、その「形」が実りを予感させるものであるということは彼にとって皮肉であった。


 寒い日々がしばらく続いた後に徐々に暖かくなることは、良く知られていた。だがしかし、それが決まった周期で来るということは理解されていなかった。ただ、単につらい寒い期間を耐えれば、やがて楽な日々が来ることもあるとだけ考えられていた。未だ、文字すら無い時代のことである。自然、三百六十五などという膨大な数を数える手法など無かったのだ。すれば、何も不自然なことではない。人々は太陽が高くあることを常に望んでおり、低くなる時は運が無い日なのだと思っていた。月の満ち欠けすら満足に数えられなかった時代である。


 彼は最初、暖かくなる頃、星々の配置が彼の心に深く刻み込まれた記憶と一致するのは偶然であると思っていた。だが、時間を掛けて徐々に気付いていく。

 彼の母親の死んだ、その日の星空。

 彼に対して未だまともに接してくれていた隣の家の彼よりやや若い男。その男に最初の子が産まれ、嬉しそうな顔とともに彼にも見せてくれた、その日の星空。

 その男のその最初の子が、糧が十分に得られなかった時節、死んでしまった。悲嘆に打ちひしがれる、若い男の横でただ立っていることしか出来なかった、その日の星空。

 嵐が来て、河際の家々を流して行ってしまって、それが嘘であったかのように晴れた、その日の星空。

 それらの事件の起きた時期の寒暖、天候と星々の配置とに何等かの関連があること。

 最初彼はそれらを記憶するのみであった。だが、いずれそれが追いつかないことに気付いた。最早、彼の家にいるのは老いて働けなくなった父親と、彼のみしかいなかった。嘗て、村一番の大男であった彼の父はもう瘦せ細り、糧も碌に採れない有様であった。彼の真面目な働きは、一人の男と食の細い老人を食わせるには十々分であった。だから、彼は余暇でその星々を記録することにした。


 時は廻った。彼は既に村の働ける男の中でも、上から数えるに両の手の要らぬ齢になっていた。彼は思った。彼のような異物の生きることを許してくれた村の人々に恩返しがしたいと。むしろ、現代の感覚からすれば彼は迫害されていたと考えるのが妥当なのであるが、しかし、不具とあればそれだけで口減らしの目に合ってもおかしくはない時代である。とすれば、恩を感じるというのも殊更(ことさら)おかしいわけではないのだが。

 いずれにせよ、彼は少なくとも恩を感じていたのは事実である。()()、亡くなった父も丁寧に葬られた。だから、彼は恩を返したかった。最早、彼も自分の死が見える年齢になっていた。年齢で言えば三十を少し過ぎたところと言ったところであるが、平均寿命が四十そこらと言った時代のことである。自分の死を徐々に予感してもおかしくはない。年齢という概念などなくとも、先に生まれた、後に生まれたぐらいは大雑把に把握していた。自身より年上の人間の数が両の手で数えられるようになれば、死を意識してもおかしくはないだろう。


 彼が着目したのは、河辺の土地である。良く肥えているのはわかっているが、不意の氾濫で全てを木阿弥に帰される。そんな土地。失敗しても、孤独な男が一人死ぬだけである。

 彼は、数少ない仲良くしてくれた隣の家の彼より若い男、その男の子の一人に、彼の育てた良く整えられた畑を譲ることにした。手の身振りだけであるが、それを彼は伝えた。そして、河の方を指差し、自分がそこに向かうことを伝えた。

 彼より若い男は驚いた。そして、留めようとした。河の傍を耕すことは、河の魔物を呼び起こすこと。彼より若い男は、彼は死にに行くのだと思った。だから、泣いて留めた。言葉の通じぬことがわかって、なお万の言葉を費やした。だが、彼を翻意させることは出来なかった。

 そして、彼の家と河辺を往復するという、彼の生活は始まった。最初は自分で家を作った。粗末な、勿論現代の価値観からすればどの家も粗末なものなのであるが、それにしても当時の価値観からしても粗末な家を建てた。そして、使い慣れた幾らかの農具と種籾を持って行き耕す。往復するたびに、最初の実りが得られるまでの糧も運び込んだ。

 そして、愈々(いよいよ)彼が生まれ育った家を離れる日が来た。

 彼はにこやかな笑みを浮かべて去った。隣の若い男はまた泣いて見送った。その妻は、得体の知れぬ男が隣家から去って、しかも良い畑が自分の子供に分け与えられるということで、ほくほくとした笑顔であったが。

 村の人々は奇異な物を見る目を向けたが、特に気にもしなかった。老境に差し掛かった男が一人死にに行く。それには、未だ少し若いとは思うが、元々彼と仲の良い者などほとんどいなかったし、そもそも話したことのある者は一人もいなかったのだ。


 村の人々は彼の前に死しかないと思っていた。だが、彼には勝算があったのだ。

 ()()掛けて知った星の運行。それさえ、あれば河の氾濫を予想するのも容易い。それを彼は知っていた。だが、それを伝える手段は彼には無かったし、死の危険もあるその戦いを他人に挑ませる気も無かった。だから、自分でやると。そして勝って、恩返しをすると。


 ()()経った。彼は肥沃な河の傍で多くの糧を得た。そして、自分で食べる分と翌年の種籾を残して、すべて村に贈った。人々は気持ち悪がったが、糧を得て自分達は損をするわけではないので受け取った。彼はにこやかな笑みを浮かべてまた河辺に去った。

 ()()経った。彼は氾濫を実に正確に予測し、その時期は高台に造った彼の家を離れなかった。その期間は星々の記録を整理し直すのに使った。木の板に掘り付けれられた、それらを粘土板に書き写して、火で固めるなどした。そしてやはり得た糧は、自分の分と翌年の種籾を残してすべて村に贈った。

 ()()経った。村の人々は彼が未だ河の魔物に呑まれていないを流石に訝しがるようになった。彼が村を育った頃に生まれた子供は既に自分の足で走り回るようになっていた。そのぐらいしか村の人々には時間を測る方法は無かったが、そんな長期間彼は河の魔物と戦っているのかと。彼は村の子供数が幾分増えたのを見て満足気にまた河辺に去った。

 ()()経った。彼の頭髪も髭も白いものの方が多くなった。だが、頑健な身体は未だ働くのに十分耐える。徐々に村の人々も彼を異物として見る目を変える者も出て来た。いや、未だ異物ではあるが、蔑視ではなく尊崇を込めるよう者も出て来たのだ。

 ()()経った。遂に村の人々は認めるようになった。彼は河の魔物を打倒した英雄であると。彼に対して元々好意的であった隣家の彼より若い男も既に村の長である。彼は、毎年の通りに糧を届けると歓待を受けた。戸惑いはあったが、向けられる笑顔に悪い気はしなかった。人との交わりを断って、もう長い彼は、その笑顔に媚び諂いが大分混ざっていることに気付きはしなかったが。


 やがて彼には幾人かの女が貢がれた。河の魔物を打倒したその勲しが遺伝するものと考えられたからだ。加えて、神に捧ぐ贄のような意味合いも持っていた。彼は既に亜神となっていたのだ。

 貢がれた女の、その中には彼にとって初恋の(そう言うには些か獣欲的な思いであったが)、その女の娘もいた。村の端に追いやられた女もいつの頃か、いずこより流れてきた男と一緒になっていたのだ。そして、子を得るに至っていたのだ。彼に貢がれたのは、その末の娘であった。

 彼の粗末な庵に現れた幾人かの女を彼は持て余した。だが、彼は、その女の中に嘗て彼が襲った女に似た女がいることに気付いた。つまり、彼女はその娘である。彼がふと見上げた天に浮かぶ星々が、あの春の日、彼の泣いた日と同じ位置にあった。これによって想起してしまったのだ。

 彼は再び間違いを犯すまいと、己に言い聞かせた。だが、彼の女の娘は彼の気配の変じたを聡く感じ取った。許より、神に貢がれた贄として自覚があった。母より彼の話を聞かされたことは無かった。だが、彼の亜神が男であることを、男として女を求めることがあるを知った。

 片や孤独に生きて来た男。ほとんど女を知らない男。一方で、彼にとって子と言っても良い年代ではあるが、人波に揉まれてきた女。彼が手玉に取られたとしても、誰が責められようか。時を措かずして、彼と、彼の女の娘は、男と女の関係となった。なし崩しに、他の女とも彼は関係を持ってしまった。時代を考えると、彼はもう既に何時死んでもおかしくはない年齢であったが、生まれ持った頑健な身体は未だそういう行為に十二分に耐えた。


 やがて、彼の子供が生まれるようになった。だが、変わらず彼は村に糧を()()贈ることを止めなかった。幾人かの女も増え、耕す人も増えたことで贈る量を保つことも出来た。子らを養って、(なお)糧は余るほどに採れたのだ。

 だが、彼も流石に後()()生きられるかわからない。だから、彼は女どもと、その子らにも星読みを教えることにした。女どもの修得は遅々としたものであったが、吸収の早い子らは瞬く間に彼の術を学んでいった。

 言葉の使えぬ彼は、木板や土器に種々の文様を描き、実際の星々と一致させることで、教えた。伝わらねば、星々の配置を何かに例えるようにして教えた。例えるにも、一々絵を描いていては手間である。彼の頑健である身体も徐々に弱ってきており、手も昔のように器用には動かなくなってきていた。だから、絵と文様を対応させ、時に文様のみを()()こととした。


 また()()か経った。最早、彼は耕すことは許より、寝床から起き上がるのにも一苦労するようになっていた。彼は嘗ての彼の父のように痩せ衰えていた。彼より星を読める子は未だいない、そう子らは主張するが、もうほとんどのことは教え切っていた。だが、夜になると子らに請われ、外に出て星読みを教える。星の座する位置を教える。そんな生活がしばらく続いた。また、文様を使って、子ら女らが色々と語ってくれる。それを、彼は眩しく見つめた。この齢になって、彼は漸く人との意思疎通というものが出来るようになってきたのだ。


 ある日、自分の死期を悟った彼は、もう一度最期に彼のいた村を見たいと伝えた。次の日には、子らが村の男どもを連れて来た。そして、木で作った御輿を指差した。遂に、意思疎通が出来るようになった彼であるが、子らが何を意味しているのかがわからなかった。子らは、彼を無理やり御輿に載せた。すると、男どもが御輿を担ぎ、彼を運んだ。女どももそれに付き従った。

 村に至るが、もう見知った顔ももうほとんどいない。隣家の彼より若い男も、彼が嘗て襲った女も、既に亡いのだ。それに、最近は余った糧を届けるのも、子らに任せていたのだ。子らも年長のものは既に一人前に働けるまでになっている。任せても問題ない。

 御輿に乗ったまま、彼は村を見て回った。家々、畑々の配置はほとんど変わらなかった。だが、人の態度は大分と変化してしまったのを、彼は見てとった。村の人々は随所で平伏して彼を迎えた。彼の前を歩く子らは胸を張って、それに対応した。彼の輿の隣を歩く女どもも、それを見て鷹揚に頷くだけであった。

 一体、ここは何処だ。彼はそう思った。彼は自分の最期にこのような光景を見るとは思わなかった。元、彼の家であった、彼の育った場所は一種の神殿のようなものになっていた。彼に取って良く分からない装飾が施されていた。それを見た彼は少し不愉快になった。彼が家を譲った、隣家の彼より若い男の息子はどうなったのかが、気掛かりであった。子の一人に文様を用いて尋ねたところ、今は別の家に住んでいるとのことであった。

 彼が嘗て耕した、彼の父より受け継いだ畑を見た。そこも、何か大げさな装飾が施されていた。あまり、広い土地ではないが、彼が丹精込めて耕した土地が、今や畑でなくなっている。それが彼をは、何か父に対して申し訳ないことをした、という気持ちにさせた。だが、それを誇らしげに見える自分の子らに対して、何か言うことは出来なかった。意思疎通はある程度出来るようになったとは言え、そのような複雑な気持ちを伝えることは出来なかった。

 最期に見た自分の育った村の光景。そして、村人と子らの織り成す光景。それは、彼に取って必ずしも納得の行くものとはならなかった。どこか、割り切れない思いを抱えたまま彼は河の畔に戻った。


 村へ行って数日後、彼は静かに息を引き取った。彼の子らによって、そして彼の住んでいた村の人々によって彼は盛大に葬られた。彼の事業は彼の子らによって引き継がれることとなった。許より、河の魔物と戦えるのは彼の血を引いた、自分らだけ云々。

 その中で、最も星読みに長け、年嵩な子が長となった。嘗て彼が襲った女の、その末の娘が産んだ子である。子らは、畑で採れた糧を村に提供する代わりに、女と狩猟で得たものを要求するようになった。そして、そういう関係を他の近くの幾らかの別の村とも持つに至った。

 星読みの術は秘匿された。それこそが、彼らの既得権益であることに早々に気付いたからだ。外に漏らそうとした彼の子のうちの何人かは、他の子らによって殺された。

 そして、数世代のうちに彼の子孫の、ある一族だけ生き残り、近隣を治める王となった。生き残った一族は、嘗て彼が襲った女の血を引く一族である。他の一族は星読みの術の秘匿のため殺された。彼らは星読みの術を持って、河を治めた。そして、その頃には星読みの一族の仕事は星読みだけになり、最早自分で耕すことはなくなっていた。文様を使った記録法は、一部の層にのみ公開された。これは、農作物の管理のためであった。

 そして、王となった彼の子孫の一族は、彼を神とした。そして、神の子である自分達の正当性を担保するのに使ったのだ。元々、彼の生前から亜神として扱われていたのだから、認知も早かった。こうして、彼の生きた土地の周辺では、時を操る神は聾唖であるということとなった。


 この聾唖の時の神の像は今でも博物館などに行けば見ることが出来る。勿論、彼の生前の姿を象っているわけであるはずもないが。だが、彼の測った時の巡り、地球が太陽の周りを一周回る時間は、今も()()()()変わっていない。我々は今そのことを知ることが出来ている。

不具の神というのは割といまして、つまりは何かしらの障碍を持った人が切り開いた道というものが古代にはあったのではないかというのが私の考えです。

例えば、足の悪いヘパイストスは鍛冶の神ですし、中国の神話時代に漢字を作った王は聾唖だったそうです。

そんなことを考えながら息抜きに書いた短編です。

お気に入りいただけたら評価・ブクマなどもらえたら幸いです。

また、長編連載もしていますので、そちらもよろしくお願いします。

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