第1話 パン屋の息子
夜明け前の冷たい空気が、頬を撫でる。
空は薄暗く町は静寂に包まれているが、フィルバラード城の高い塔はどんなに遠くからでもはっきりと見える。
しかし、その距離は単に物理的なものだけではないように感じる。
窓から下を見下ろすと、一階の窓から仄かな灯りが漏れていた。
父が火を入れた窯の灯りだ。
【フール・ベーカリー】
このパン屋の名前。
「おーいルーカス、まだ寝てるのか?」
父の声が二階の自室に届き、我に返る。
ルーカスとは、オレの名前だ。
急いで階段を下りて工房へ向かう。
工房に入ると、窯の前でパン生地をこねる父の背中があった。
大きく頼りがいのある背中だ。
「ごめん父さん」
手を洗い、父と共に焼き上げる為のパン生地をこね始める。
無心で作業していると、心が目の前の景色とは別の場所を映す。
騎士。
それは幼い頃から憧れていたもの。
光り輝く鎧をまとい、剣を振るい、王国を守る英雄たち。
彼らが凱旋するたびに、その堂々とした姿に心を奪われてきた。
だが、自分がパン屋の子であるという現実がいつもその夢を遠ざけるのだ。
生地をこねながら、時折窓の外に視線を投げ考える。
騎士たちの世界は、栄誉、名声、勇敢さで満たされたもの。
自分の手は生地と粉に塗れ、剣を握るための手ではない。
父もまた、自分の生き方に誇りを持っている。
パンを焼き、町の人々に笑顔を届けること。それが一番の幸せだと教えられてきた。
父のことは尊敬しているし、この仕事を誇りにも思っている。
いつも来てくれる町の人たちも大好きだ。
だからオレの心の中には、いつも葛藤があった。
外が明るくなり、朝一の鐘が鳴る。
店を開けて、父を手伝う。
そうしていつも通りの一日が過ぎて夜になると、疲れが蓄積した体をベッドに放る。
別に不満はないけど、まあ、退屈だ。
今年で十五歳になる。
入団試験の受験資格が得られる年齢だ。
そして試験は明日。
葛藤があるとは言いつつも、正直心は決まっている。
*
翌朝、店を開く準備をしていると町の広場から朝一の鐘とは別の、鐘の音が響いた。
入団試験の公募が始まったんだ。
「父さん、見に行ってもいい?」
父は優しい顔で頷いた。
「早く戻れよ」
オレはエプロンを外して外に出た。
自宅兼パン屋を出て右へ向かい、大通りに出る。
王都フィルバラードは、今日も賑やかだ。
どこからか聴こえてくる陽気な音楽が、道行く人の足取りを軽くしてくれている。
手前右の角にある果物屋のおばちゃんが、色とりどり果物をフルーツスタンドに並べ、
晴れた空を見上げて歩く女の子が、母親に手を引かれてオレの前を横切っていく。
その微笑ましい光景を見送ってから、幅約二十メートルほどの大通りを渡る。
通りを渡って、そこから更に真っ直ぐ進んで数分。
丸く開かれ、円周に沿ってベンチが並ぶ広場。
恋人達の待ち合わせ場所として定番の場所と言われている。
その広場へ着くと、すでに多くの人が集まっていた。
中心には台が置かれ、上に立っていたのは一人の騎士だった。
遠征でもないのにわざわざ鎧を着ているのは、入団試験の公募だと分かり易くするためだろう。
台の周りにも数人の騎士がいる。
「このフィルバラード王国を守るため、我々は新たな英雄を求めている!」
台に立つ騎士がそう言うと、周りの騎士達が紙を配り始める。
オレもそれを受け取って読むと、受験資格を持つ年齢や持ち物、住所と名前の記入欄がある。
周囲にいるオレと同じ年頃の奴らもそれを受け取って目を輝かせてる。
店に戻り、開店の準備をする父に話し掛ける。
「父さん、オレ入団試験受けてくるよ」
「そうか、やるからには本気でやれよ!」
「ありがとう」
試験は三日間に及ぶと言う。
必要なものは向こうで用意してくれるというから、簡単な着替えだけ持って行こう。
自室に戻り、広場で貰った紙に必要事項を記入する。
そして適当な服を布袋に詰めて階段を駆け下りる。
「行ってきます!!」
そうしてオレは店を飛び出した。
向かう先は試験会場。
憧れに近づく、第一歩だ。
ちまちま投稿していきます。よろしくお願い申し上げます。