第七章 媚薬(2)
中庭に降り立つと、サーシャがすんとした顔でアーネストに一礼し、それから私を振り返った。
「おはようございます、レリア様。お目覚めのお手伝いができず申し訳ございません」
「それは良いんだけど……どういう状況?」
当事者からも話を聞こうと思って尋ねると、サーシャは少々嫌そうに眉を顰めてアーネストを一瞥した。
「アーネスト様がどうしてもと仰るので、お手合わせをしておりました」
「……アーネストは、どうしてサーシャ相手に手合わせを? サーシャはメイドであって騎士ではないのよ?」
「それは……サーシャ殿が、自分より弱い男は男として見られないと、言うので……」
アーネストは今まで見た事がない程、わかりやすくしょげている。
「……サーシャがアーネストの血を舐めた事で、サーシャからアーネストに対してフェロモンが出ている状態……つまり今のアーネストはサーシャに猛烈に惹かれている状態らしいわ。獣人にはそういう特性があるらしいの……知っていた?」
私がサーシャに耳打ちすると、彼女は「いえ」と否定仕掛けて、何かを思い出したように口元に手を当てた。
「……そういえば、父もそんな様子だった気がします……」
サーシャの父は、メルクリア家専属の庭師だ。
ちょっと変わり者で、植物にしか興味を示さない寡黙な男だが、そんな彼がシャトーの前だと変わるのだろうか。あまり二人が共にいるところを見た事がなく、想像がつかない。
「……なるほど、母は定期的に父の血を摂取していたと……」
ふむ、と頷いて、サーシャはアーネストを見た。
「……この症状は時間の経過で戻るのでしょうか?」
「さぁ、この特性を知っていたミュナも、そこまでは知らないみたい。その可能性が高いだろうとは言っていたけど」
「そうですか」
サーシャが意味深に目を伏せる。
私はサーシャにこそこそと囁いた。
「……サーシャはアーネストをどう思っているの?」
「別にどうとも」
「どうともって……」
「……強いて言うなれば、やたらといい匂いがするだけの軽薄な貴族令息、ですかね」
おお、それは何とも的は得ているが酷い言い草だ。
ばっさりと切り捨てたサーシャに、私の背後からぶっと吹き出す声がした。
いつの間にか、私の後を追って来たジークが立っていた。
「アーネストを捕まえて軽薄な貴族令息なんて言うのは、サーシャくらいだろうな」
ジークはツボにはまったのか、まだおかしそうに笑っている。
獣人であるサーシャにとって、酔う血の持ち主であるアーネスト。
こんなの、少女漫画ならば鉄板の設定だ。漫画ならこの後の展開は紆余曲折を経ての両想いに決まっている。
「……まぁ、アーネストはまだ婚約者も決まっていないし、バーティア侯爵家は家柄で相手を選ばないからな。アーネストが強く望むのなら、ありえない話ではないな」
こほん、と咳払いをしてから、ジークは少し揶揄うような口調でそう言った。
そう言えば、アーネストの生家であるバーティア侯爵家は騎士としての功績でのし上がってきたからか、あまり権力に固執していない家柄だったな。
だから、アーネストも二十歳にしてまだ婚約者が決まっていない、という設定だった。
この世界での貴族の令息、令嬢は、十代の内に婚約者が決まる事が一般的だ。
というのも、貴族にとっては、家の権力保持や増強のための政略結婚が当たり前で、生まれた瞬間から親が相手を選び始めるからだ。
逆に言うと、権力に固執しない家柄の者はなかなか婚約者が決まらないのである。私の兄ディアスもその一人だ。
まぁ、ディアスの場合は性格と性癖に難があり過ぎ、かつ本人が結婚の意思を全く示さなかったというのも大きいのだけど。
「……私からアーネスト様との結婚を望むことはありません。失礼します」
サーシャはそれだけ言ってジークに一礼すると、城の中に戻っていってしまった。
ばっさりと断られたアーネストが、ショックの余りその場に凍り付いてしまう。
「……一筋縄ではいかなさそうだな」
彼女の後姿を見送りつつ、ジークが嘆息する。
「いや……サーシャはアーネストの事を、少なくとも嫌ってはないんじゃないかしら」
「何故そう思う? たった今、自分からはアーネストとの結婚は望まないって言い切っただろう」
「そうよ、「自分からは望まない」って言っただけで、「絶対嫌です」とは言わなかったでしょう? サーシャの性格なら、嫌なら食い気味に「お断りします」って即答するはずなのに。それに、普段なら私を残して先に出ていくなんて絶対ないのに、そうしたって事は少なからず動揺しているんだと思うのよね」
私がそう答えると、ジークが意外そうに目を瞬いた。
「それに、「自分から望むことはない」って、言葉の裏を返せば、「相手から望まれるなら結婚しても構わない」って意味にも捉えられると思うの」
私の言葉を聞いたアーネストがばっと顔を上げる。
「それは本当ですか!」
「保証はできないけどね……それより、アーネストはサーシャのどこが良いと思ったの?」
「俺はそもそも強い女性が好きなんですよ……あの強靭な脚力と俺を抱き上げられる程の力強さ、一目見て心を奪われました」
「脚力と力強さ……?」
サーシャの強さを目の当たりにして惚れ込んでいるのだとしたら、サーシャが血を舐めた事でアーネストに対してのみ効くフェロモンが出ていて、それに充てられたアーネストがサーシャを口説き始めた、っていう仮説は何処に飛んで行ってしまったのだろう。
というか、力強さに一目惚れしたのだとしたら、そもそも旅に出るよりも前からサーシャを好きだったということにならないか。
「……レリア、もしかしたら、アーネストがサーシャに惚れたというのは血を舐められたこととは関係のない事実で、本当なら隠しておくつもりだったところを、フェロモンに充てられて抑えきれなくなっている可能性はないか?」
「あー……なるほど、その可能性もありそうね……そもそも、アーネストが強い女性が好きだって言うのは本当なの?」
「いや、俺も初耳だが……アーネストは昔から『来るもの拒まず』って感じで、令嬢に言い寄られる事は多かったし、そう仕向けるような言動は多かったが、自分から積極的に口説いているのは見た事がないんだよな」
ジークが唸りながら呟く。
なるほど、強い女性が好きと言うのが本当ならば、貴族令嬢にアーネストが思う強い女なんてそういないだろうから、彼が自ら追いかけて口説くという機会はこれまでなかったのだろう。
「でも、強い女性が好きだなんて意外ね。騎士だから、逆に守りたくなるようなか弱い女性が好きなのかと思ったけど」
何の気なしにそう言うと、アーネストは満面の笑みを浮かべた。
「ええ、強い女性を屈服させるのが至上の喜びですから!」
うん? 屈服?
不穏な単語に、思わず聞き間違いかと思って目を瞬くと、アーネストは失言に気付いた様子で慌てて首を横に振った。
「いえ! えっと、その! そう、き、気の強い女性が、甘えてくるのが可愛いと思うのでっ!」
なんか誤魔化したが、今の一言で完全に理解した。
チャラ男に性格が変わっていたと思っていたが、どうやらアーネストはドSキャラ属性まで持っているらしい。
ドSは本来セインのキャラだったはずなのに。そんな入れ替わりみたいなことが起きるなんて。
「……サーシャを本気で好きなら止めはしないけど、私のメイドに酷い事したら、絶対に許さないわよ」
それだけは念を押しておこうと、アーネストに凄む。
彼は笑顔で頷いた。
「勿論です! 相手が真に嫌がる事はやらないのが紳士というものですから!」
うーん、大丈夫だろうか。
でもまぁ、サーシャなら自分が嫌な事は絶対屈しないだろうし、最悪アーネストをぶちのめす事もできるだろうから、その点は心配不要か。
そう思い直して、私は二人の今後に思いを馳せるのだった。




