第六章 危機(2)
ぽた、と何かが滴り落ちた。
鉄の臭いが鼻を衝く。
ジークの腹部を貫いたそれに、真っ赤な液体が付いているのを見ても、何が起きたのか理解するのに数秒かかった。
「ジークっ!」
魔物だ。
馬ほどの大きさで、鋭く長い角が額から伸びている。
その角が、ジークの腹部を貫通していた。
「攻撃魔術……風、刃!」
私が我に返るより早く、ジークが途切れながらに詠唱を成功させる。
刹那、風が刃となって魔物に襲い掛かり、一瞬で魔獣を斬り刻んでしまった。
魔物は塵となって崩れ落ち、同時に、角が消失したことで支えを失ったジークもその場に膝を衝く。
「ジークっ!」
地面に倒れ込む前になんとか受け止め、ゆっくりと地面に寝かせる。
傷は相当深く、血が止まらない。紙のように白くなった肌が、状況の悪さを物語っている。
治癒魔術を施そうとして、この《闇樹海》では発動しないことを思い出す。
「ジーク、しっかりして! オウガ……オウガを呼ばなきゃ!」
慌てふためく私の腕を、ジークが弱々しく掴む。
「っ、行くな……」
「そんなこと言ってる場合じゃないでしょう! ここは治癒魔術も回復魔術も使えないのよ! 早く傷を塞がないと、ジークが死んじゃう!」
言いながら、涙がボロボロと零れ出した。
自分がもっと素早く魔物の気配に気付いて、攻撃を躱していれば、ジークが私を庇って深手を負うこともなかったのに。
悔しい。
暗殺者になるために、辛い訓練を受けて来た私の身体には、あらゆるスキルが備わっている。
しかし、暗殺対象になるのは人間。それも基本的には貴族ばかりだ。
対魔物の戦闘は、本で読んだことはあるものの実践経験などない。
魔物が気配を絶って近付いて来た場合についても、実践練習を積んでおけば良かった。
「私を庇ったせいで……ジーク……ごめんなさい」
いや、その前に、ミュナと手を繋いでいるのを目撃しても、ジークを信じてそのまま合流していれば良かったのだ。
そうすれば、オウガと友達になったところを見られて誤解されるようなこともなかった。
もっと、自分に素直になっておけば良かった。
王太子妃になる覚悟がなくても、好きだという気持ちくらい、ちゃんと伝えておけば良かった。
「嫌だよ、ジーク、死んじゃ、嫌……」
涙が止まらない。
ジークはそんな私の顔を見て少しだけ驚いたように目を瞠り、何を思ったか私の項に手を回すと、ぐいと引き寄せた。
「……っ」
体勢を崩した私の唇が、ジークのそれと重なる。
ほんのり、血の味がした。
軽く触れて離れた唇で、ジークが笑う。
「そんな顔、するな。俺は、死なない」
いつもの自信満々の笑みにも、力が入っていないのがわかる。
そのまま、ジークは意識を失ってぱたりと倒れた。息はしているが、浅く速い。
「ジーク……」
やはりオウガを呼んで来よう、そう思って振り返った瞬間、私は固まった。
いつの間にか、背後に全員が勢ぞろいしていたのだ。
「え、なっ……」
言葉を失う私に、ミュナが駆け寄り、ジークを見て息を呑んだ。
「オウガ殿が急に、レリア殿が危ないって言って……一体何が……ジーク殿! 傷が深い……! すぐに治癒を!」
治癒魔術は使えない、と口を挟む間もなく、ミュナは懐から何かを取り出してジークの腹部に掲げた。
手の形をした金色の何かだ。
それが眩い光を放ったかと思うと、ジークの腹部の傷がみるみる塞がっていった。
「……『神の手』……」
セインが驚いた様子で呟く。
世界三大魔具の一つ、『神の手』。それはあらゆる病気や怪我を治癒させる魔具である。
『魔王の眼』と同格の伝説のアイテムであるが、実在するのかどうかさえ怪しい代物と言われていた。
『魔王の眼』が存在していた以上、『神の手』も実在すると考えるのが自然だが、まさかミュナが所持していたとは驚きだ。
と、程なくしてジークの瞼が震えた。
「……っ!」
『神の手』から放たれていた光が消え、ジークが目を開け、徐に身を起こす。
私の頬に伝う涙を、ジークが愛おしそうに指で拭ってくれた。
「死なないって言っただろ?」
勝ち誇った顔で笑うジークに、安堵と同じくらいの怒りが湧いてくる。
「っ……ミュナが『神の手』を持っていること、知ってたのね!」
「さっき合流した時に聞いてな。竜人族が管理してきたそうだ」
「じゃあ最初からそう言ってよ!」
私の涙を返せ、そう言いながらぽかぽかジークの胸を叩くと、彼は悪い悪いと軽く笑って、その手をぎゅっと握った。
ぐっ。
その笑顔に何も言えなくなる。
代わりに、無言でその手を握り返した。
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