第五章 樹海(2)
それからしばらくして、彼女は不意に足を止めた。
「……サーシャ? どうかした?」
背中から呼びかけると、彼女ははっとした様子で辺りを見渡す。
「いえ……アーネスト様の匂いが、思っていたより近くからしたものですから」
「アーネストが近くに? それなら合流しましょう」
仲間が近くにいるなら合流するに越した事はない。
そう思って指示を出した、その直後だった。
サーシャが突然手で鼻を覆った。
「サーシャ?」
「……この、匂い……やっぱり……」
「どうしたの? 何の匂いがするの?」
「レリア様、申し訳ございません、私はこれより先には……」
言いかけて、サーシャは言葉を切った。息が、徐々に荒くなっていく。
「サーシャ? どうしたの?」
様子がおかしいサーシャに恐る恐る声を掛けると、彼女は震える声を絞り出した。
「……も、訳……ありま、せん……抑えが、効か、な……」
「抑え?」
どういう事かと眉を寄せた直後、サーシャは急に駆け出した。
私は咄嗟に彼女に首にしがみ付く。
と、少し走った彼女は、目の前に現れた魔物を蹴り飛ばし、そのまま何かに向かって飛びついた。
吹っ飛んだ魔物は木の幹に激突し、そのまま動かなくなる。ただの蹴りがなんて威力だ。
「うわっ!」
飛びつかれたのは真っ赤な髪の青年だった。
「アーネスト!」
彼は突然飛び掛かって来たサーシャを支えきれず、そのまま私諸共倒れ込む。
「っだ!」
「いった……」
一番上に乗る形になった私がまず起き上がって退き、サーシャを見て絶句した。
彼女はアーネストを押し倒し、その頬をぺろりと舐め、恍惚の表情を浮かべたのだ。
よくよく見たら、アーネストの頬には魔物との戦いで切ったのか僅かに血が滲んでいる。
「サーシャっ? ちょっと、どうしたのよ!」
声を掛けて肩を揺するが、微動だにしない。
「サーシャ殿、一体どうしたんです……?」
頬擦りされながら、アーネストも戸惑いの声を上げる。
「わからないわ……こんなの初めて見る……まるで猫がマタタビにやられたみたい……」
そこまで呟いて、はっとする。
確か、サーシャの祖母はジャガーの獣人だ。つまり猫科である。
以前、サーシャがアーネストと初めて顔を合わせた時、「いい匂いがした」と言っていた。
もしかして、彼の血の匂いが、獣人にとってマタタビのような性質を持つのではないか。
「アーネスト、すぐ血を拭いて、サーシャから離れて。治癒魔術が使えれば早かったんだけど、この世界では攻撃と防御以外の魔術は使えないのよ……」
私の指示に従ってアーネストが頬の傷を拭い、なんとかサーシャを引っ剥がして距離を取る。
しばらくしてサーシャがはっと目を瞠った。
「……我を失っておりました……アーネスト様には大変失礼を働き、申し開きの余地もございません」
素早く居住まいを正して深々と頭を下げるサーシャに、アーネストは苦笑した。
「いや、よくわからないけど、俺は気にしてないよ。女の子に抱き付かれるのは嫌いじゃないしな」
流石チャラ男だ。
爽やかにそんな事を言ってのける彼に、サーシャがすんとした顔になる。
「……サーシャ、もしかしてアーネストの血が?」
「ええ……アーネスト様の血は、私との相性がある意味では最悪のようです」
最悪、真顔でそう言い放つサーシャに、目を瞬く。
「……肉食獣の獣人は、特定の人間の血に酔うんです……その本能にだけは抗えません。ちなみに、私の父も、母にとってそうだったようです」
不本意そうに答えると、サーシャはついとある方を指差した。
「……この空間の創り主はすぐ近くです。参りましょう」
そう言った直後、何か気づいたようにアーネストを見る。
「アーネスト様、失礼ですが、もしや足を……」
言いかけると、彼は苦虫を噛み潰したような顔をした。
「あー、バレたか……」
彼がそれ以上何も言わなかった事で、サーシャが傷ついたような顔をする。
そんな二人を見て、私は彼の怪我がサーシャに押し倒されたことで捻挫したものだと悟った。
「サーシャ、オウガの居場所が近いなら私一人で行くわ。ここでアーネストと待機してきて」
「しかし……」
専属メイドとして、私を一人で行かせられない、しかし、アーネストは自分のせいで怪我をした、それで葛藤しているのがわかる。
「怪我をしたアーネストを連れて歩く方が危険でしょう?」
私の言葉に納得したらしいサーシャは、渋々といった風情で頷いた。
「申し訳ありません、レリア嬢、俺がヘマをしたせいで」
「ううん、その怪我は私がサーシャを止められなかったせいもあるし、気にしないで。元の世界に戻ったらすぐ治癒魔術を掛けるわね」
そう言って踵を返し、私は駆け出した。
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