涙も出なかった夢
人々が異能力に目覚めた現代。
私は普通に、幸せに暮らしていた。
ご近所付き合いも程々に、しかし互いに料理や野菜をおすそ分けし合うような関係にあり、良好な関係を築けていた。
その日、滅多に外に出ているのを見ないお隣さん……隣の部屋に住まう男が廊下にいた。
お隣さんは見た目に気を使っていないのか、脂でベタベタの髪には寝癖のようなものが目立ち、爬虫類を連想させる細く鋭い目を縁取る眼鏡は傾いていて、レンズには指紋が大量に付着していた。
心の中で少し引きながらも、見た目で態度を変えてはならないと常々気にして生きていた私は、なるべく自然に彼を見た。
顔だけは知っている……そう思って挨拶をして、私は階段を降りようとする。
すると階段に差し掛かったとき、視界が一瞬だけ黒く染まり、私は思わず足をつく位置を誤り、その体は大きく階段側に傾いた。
しかし、落ちると思ったとき、背後から腕を掴まれ怪我を免れる。
私はお隣さんが助けてくれたのだと理解したが、恐怖と安堵の落差で力が抜けてしまったため、その場にへたりこんだ。
彼は私が立てるようになるまでその場にいてくれて、見た目で人を判断してはならないという思いは一層強まった。
ある程度落ち着きを取り戻した私が感謝を告げると、お隣さんは動揺して忙しなく身体を動かしていたが、私がそんな彼を不快に思うことはなかった。
後日、私はお礼の品を持ってお隣さんのチャイムを鳴らしていた。
流石に命を救われたようなものなので、顔見知りならば礼をするのが常識だろうと思ってやって来たが、心の中では彼が外に出るのを嫌っている可能性も考えていた。
あと10秒待って反応がなければ袋ごと置いて帰ろうと思ったとき、彼が先日と何ら変わりのない姿で現れる。
お礼の品……少し高いお菓子を受け取った彼はどもりながらも小さく頭を下げ、礼を言う。
お礼にお礼を言われたら無限ループになっちゃうよ。私は眉尻を下げて微笑みながらその場を後にした。
その日から、私は度々視界を遮るようにお隣さんの幻覚を見るようになっていた。
初めは恋かとも考えたが、頻度もおかしいし、何より絵面が恐ろしかった。
暗くなった視界に唯一見えるのは、鼻と鼻の距離が十センチほどしかない距離に浮かぶお隣さんの顔……そして、彼は細い目にギラついた光を浮かべ、此方を凝視しているのだ。
幻覚。
それでも、あまりにもリアル。
私はそれによって事故に遭ったり驚いた反応で周りにおかしな目で見られたりすることが恐ろしくて、外に出る頻度が減った。
幸い、仕事はリモートワークにすぐに切り替えられる仕様になっていて、私は部屋でカタカタとパソコンを弄る日々を過ごした。
そんなとき。
私は玄関で……買い出しからの帰宅直後に例の幻覚を見たせいで、気が動転してドアの鍵を閉め忘れていたらしい。
ガチャ
荷物を置いてひと息ついたばかりの私は、背後の玄関から響く音に動きを止めた。
そこでようやく鍵の閉め忘れに思い至り、同時に誰かが入って来たと確信する。
床板を踏みしめる音がひとつ。それからふたつ。間をおいてみっつ。段々と近付いてきている事実に狼狽え、私は喉をひくつかせた。
その後のことは、鮮明には覚えていない。
ただ、私はお隣さんに襲われそうになって、必死に抵抗して、異能を使ってまで彼を拒絶して、どうにか自身を守りきった。
そんな私を助けに来た……のではなく、指定異能力の使用を検知した警官が駆けつけたことで事態が発覚し、私は一時的に保護。そしてお隣さんは現行犯逮捕というはこびになる。
しかし、それでは終われなかった。
私の異能は指定異能力となっていて、いわゆる日常生活ではどう考えても使用することのない、危険な力と認識されていた。
といっても、私の異能は出力が小さく、実害を及ぼす可能性はほとんどないが……そのため抵抗してもギリギリだったのだが、使用が検知されなければ助けも来なかったはずだと思えば、指定異能力で良かったとも思う。
そして正当防衛が認められた私は、幻覚を見ていたことや精神が不安定になっていたことによる一定の保護期間を経てから部屋に帰ってきた。
……私を襲った男の隣の部屋に。
そう、結論から言えば、お隣さんは釈放されていた。
彼は、私にはどのような異能力かは知らされなかったが、特別で強力な異能力を持っていたらしく、警察組織での活用が義務付けられたものの、その代わりに一定の自由を得た。
私は恐れを感じていたが、彼の能力も指定異能力ではないが危険な使用が認められたようで検知対象にしたとのこと。
無意識のうちに浅くなった呼吸を整えて、私は帰宅した。
そんな私を待っていたのは、平和な日常なわけもなく。
引越しをしようと決意していた私が畳まれたダンボールを抱えて部屋に入ると、あの幻覚が再発する。
この頃にはもう、お隣さんの異能が関係しているのではないかと思い始めていた。
スマホを弄っていても、寝ていても。不意に視界を占領する、闇と、至近距離から熱視線を注ぐ恐怖の権化の顔面。
早く、早く引越さなきゃ、私はきっと狂う。
帰宅して2日目、私は廊下でお隣さんに話しかけられた。
冷たくあしらい、部屋に向かうが……彼は意味深な笑みを浮かべて私を引き止める。
自身の異能を知りたくないか、と。
正直、知りたかった。
知らなければ、ゆっくりと狂うだけで、でも、知れば更に狂うかもしれない。
混乱した私は「結構です」と強く拒絶して部屋に逃げた。
しかし、鍵をかけた途端、あの幻覚。いつもは一瞬だけ見えるソレが、何秒も……しばらく、視界を占拠した。
声は出せる。触覚も正常で、目の前に彼がいるわけではないとはっきりわかる。それでも、これは、おかしい。
私は半狂乱になって、扉の向こうにまだいるはずのお隣さんに向かって何度も問いかけた。何をしているのか、と。
私が叫び疲れ、泣き疲れてその場にへたり込むと、それを待っていたかのようにようやく消えた幻覚。
瞳を閉じても消えない幻覚から解放された私は、びくりと動きを止める。
同時に扉の向こうから足音が聞こえて、声をかけられる。
「見えてるよ」
正直、死んだほうがマシだと思ってしまった。
「君の視界を、覗いているんだけど、どう?」
つまりは、
「SNSアカウントも知ってるし、下着の色も、胸のサイズも、交友関係も、仕事も……守秘義務あるのに、知られてるね?」
逃げ場なんて、無いのだろう。
私は真っ青になる。引っ越し先も知られているはずだから。
さらに言えば、私の異能も対処法がもうわかっているはずで、もう怯えて暮らすしかないのかもしれないと、絶望する。
では何故、警官が来ないのか。
「俺って実力を隠しててね、実は異能が2つあるんだ。だから視界を借りるのは、検知されないよ」
後に、彼から聞いた。
視界を借りる条件は、相手の体に触れたことがあること。
条件を満たしていない場合は、視界を闇に閉ざすのみ。
助けられたと思っていたあの出来事も全て彼が仕組んだことだったのだと説明された。
私は今、何も見えない。