蟻の夢
私は1人でパソコン室にいた。
ブラインドの向こうには夜空。パソコンは全て電源が点いているけれど、私の目の前にあるパソコンは画面が真っ白の状態で固まっていて、その画面を小さな赤黒い蟻が這い回っていた。
私は虫が苦手なので、その蟻を排除しようと動く。現実なら逃げ出すだろうに、私は蟻を一片の躊躇もなく人差し指で潰した。無論、蟻は死んだ。
その途端、吐き気と息苦しさに襲われる。苦手なものに触れたことでその感覚を何度も反芻して気持ち悪くなった。
椅子を蹴飛ばすようにして立ち上がりパソコンから距離をとるために後退りした私は、そこでようやく周囲に無数の小さな点が蠢いていることに気が付く。
虫だ。いや、先程潰したものと同じ蟻だ。小さくて赤黒くて動きが素早くて、私の大嫌いな虫だ。
血の気が引いて、更にその黒点が一斉に私を目指して移動してきたことを認識した途端、私は「手を洗おう」と思った。
蟻を潰した手を指を綺麗にしたかった。夢でも現実逃避をしていた。
私は覚束無い足取りで駆け出して、パソコン室から出ようとする。スライドドアの取手に手を掛けて、力任せに押す。
ドアはガタガタと煩く音を立てるのみで、開く気配はなかった。鍵を確認するが、内鍵は当然かかっていない。
ここから出られないと感じた私は、その場で引き攣った笑い声を上げてそのまま胃の中身を吐き出した。
靴の裏に沢山の死骸。自分が殺した。踏みつけた。虫がいっぱいいる。そう思うと胃が痙攣したようになり、吐き気は全て出した後も治まらなかった。
そんな無防備に蹲った私は格好の的となっただろう、黒点は一斉に迫り、私は無数の蟻が足首を登る感覚を知った。
咄嗟に立ち上がろうとして足に力を込めると、踏み潰した蟻の体液か何かで滑り、盛大に転倒する。
体が蟻を押し潰す。赤黒い蟻の赤黒い体液が服に染みをつくる。蟻が登ってくる。
不快で不快で不快で不快で不快で不快で不快で不快で不快で、私は身体を起こすとドアに縋り着いた。体当たりをした。逃げようとした。
それでも無理で、諦めろというように蟻が噛み付いた。痛い。痛みが焦りを加速させる。怖かった。痛いと感じたらもうそれが現実か夢かわからなくなった。
全身を掻き毟った。痛くて痛くて段々感覚が無くなっていって、自分の吐瀉物と血と蟻の死骸と体液にまみれて汚れた私は床でのたうち回り、遂に力尽きて脱力した。
すると、飽きたように蟻たちが去っていく。赤黒い地獄の波が呆気なく引いたことに、私は安堵よりも「またいつやって来るだろうか」という不安と恐怖に支配された。
この時点で、夢だということを半分忘れていた。パソコン室だって、現実で見たことのない場所なのに。
呼吸を整えると、恐怖は薄まる。自分を見ると、赤黒い。
血と蟻の体液が混ざってただただ赤黒く汚れている。汚いと感じた。蟻の死骸は群れと共に消えていた。
私は泣きながら立ち上がると、自分のパソコンに近寄る。白い画面には蟻の死骸がこびりついていた。この死骸だけは消えなかったようだ。
それを見て、私は「電源を落とさなければならない」と謎の使命感に燃えた。
そして、蟻を潰した右手の人差し指で電源ボタンを押し込む。震えはなかった。
パソコンの画面が暗転し、同時に、蟻の死骸が見えなくなる。錯覚でもなく消えたようだった。ふと体を見れば、傷と自分の血だけが残っていた。
ああ、そういえば、これは夢だ。
私はひとつ息を吐いて、最後に人差し指の腹を見た。
そこには赤黒い跡が残っていて、それが蟻のものか自分のものか、判別はつかなかった。
ただ、それを見て汚れていると感じたことだけ、覚えている。
おわり