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カレー小説 臆病者、カレーを食べる

三者凡退 ~臆病者、カレーを食べる~

作者: 侍 崗

似たものを比較する際、比較項目・比較する基準を決めておかないと、何をもって優劣なのか分からなくなりますよね。傍から見たら同じものでも、一方を主張する者にとって、それは替えの効かない位の意味を持っている事など、当たり前のようにあります。

間に立って判定する立場にあっては、本当に苦労する場合だってあります。

もしかしたら、関係ない自分自身を犠牲にすることだってあるかもしれません。



※この物語はフィクションです。登場する人物、店名、団体、地名などは架空のものであり、実在するものとの関係はありません。

 俺、横手ヒカリは、またかと玄関の前で最早通算何度目か分からないため息をついた。

 外まで漏れ聞こえている賑やかな声は、ドアを開けると、よりクリアにこちらへ届く。

 キッチン&ダイニング、洗面、風呂場をつなぐ、白い壁紙の貼られた廊下の向こう。声の発生源は、白いドアを開けっ放しにしたその先から届いている。キッチンに持ち帰ったコンビニ袋ごと置き、ドアの向こうへと入ると()()は正体を現した。

 13畳ほどのリビングでは1組の男女がいずれも胡坐をかき、小さなサークルテーブルを挟んで、けたたましい声をあげて罵りあっている。それも同じ体勢、同じ目つきで。


「おーい、外まで丸聞こえだぞ。何時だと思ってんだ」


 俺は2人に言いながら男の後ろを通り過ぎ上着を脱ぐと、部屋の対面に位置する衣文掛けにそれを下げた。男と女はその声でやっと気づいたのか、罵詈雑言の応酬を中断すると、こちらを向いた。

「おう」と男が返す。

 女の方はなにも言わず、見つめているだけで吸い込まれそうな大きく黒い瞳を、こちらへ向けている。

 その2つの顔は、本当によく似ていた。気持ち悪い位に似ていた。

 ――俺に。


 俺と彼らは兄妹ではない。そもそも血縁者ではない。

 男の方は名前をヒカルと言い、こっちは顔のパーツから俺と年齢、身長、体重、声まで同じだ。職業と経歴、それに服の趣味が若干異なる位で、同じものを身に着けたなら、きっと俺の両親だって見分けがつかない。

 ヒカルは俺が選択しなかった、もう1つの可能性。この世界に流れている時間のすぐ隣に流れている河というか、そういう流れの向こうにいる存在なのだそうだ。よくわからん。

 可もなく不可もない地方の大学を何の考えもなく出て、あまり世間的に認知されない小さな会社の隅で、日々の業務をこなしている俺に対し、ヒカルは高校を出てすぐに海外を放浪した後、小さな町工場の職人に師事し、日々その腕を磨いている。

 俺の何倍も行動力と決断力に優れ、見た目以上の運動能力を有する、一見すると完璧に見えるヒカルだが、哀しいかな、ステータスを筋力に殆ど割り振ってしまったらしい。似ているのに、俺よりもオツムの状態が残念なのだ。加えて俺と同じで、お人よしなものだから、世界を滅ぼそうとする生命体に絆され、つい手を貸してしまったりもする。

 それも選択によってあったであろう世界線だ。そう説明してくれたのは、ヒカルではない。彼の向かいに座る、これまた俺そっくりに目つきの悪い女……いや、少女の方だ。少女の成りをしているが、存在としては俺やヒカルと同じらしい。


 彼女は名前をコウという。顔のパーツは、ほぼヒカルや俺と同じだ。

 最初に彼女が俺たちの前に姿を見せた時、ヒカル……いや、俺自身がそれに気づかなければ、危うく「お、かわいい」なんて思ってしまうところだった。体型は俺やヒカルと比べて小柄だし、髪型や服装は、その辺を歩いている女の子と遜色はない。俺たちより幼く見えるが、本当のことは分からない。最初に「女子に年齢と体重を聞くなんて」と憤慨されて以来、未だに教えてもらえていない。

 しかしなんだ……彼女と俺が同じ存在だとして、俺が女になると、その……こんなにも真っ平なのか。コウを見る度、毎回残念に思う。

 コウは俺のいる世界とは違う角度で進んでいる世界線から来ているそうだ。その世界じゃ、こっちでいう魔法みたいなものが使えて、モンスターっぽい生物が闊歩しているという……そう、所謂『異世界』から来た。

 いや、来たという表現はおかしいか。

 今、俺達のいるこの部屋は、俺が35年ローンで買ったマンションの一室である。しかし同時に、彼女の住まう寄宿舎の一室であり、ヒカルの借りている部屋でもある。

 コウが言うことを俺なりに解釈すると、コウが通っている学校の実習で、たまたま起こった失敗が引き金となり、たまたま座標と間取りがそっくりだったこの部屋と、時間的空間的に世界がつながってしまった、らしい。俺とヒカルは、たまたまそれに巻き込まれたとの事だ。

 実に様々なたまたまが重なった産物であるので、誰もこの空間の連結を解除できず仕舞。それに元々自分の部屋であるわけだし、俺も含め全員が「自分が出ていくのは不本意である」と考えているので、3人とも仕方なくここで暮らしている。

 3人が仏のように穏やかで寛容な心を以て平等を貫けばいいのだが、そうはいかない。何しろ全員が俺だ。寛容になんてできる筈もなく、1年以上経った今でもこの部屋の居住権を主張しながら、3人で仲良くケンカして暮らしている。

 1年で色々あった。死神と間違われたり、異星から来たこれまた俺とそっくりな存在と宇宙規模で争いもした。この世界線とやらが消えるのを防ぐという貴重な経験もしたが、今はそんなことどうでもいい。目の前の諍いを収めるのが先決だ。


「毎回言うが、もうちょっとボリュームを抑えてやれんのか。で、今日はなんだ」


 俺はそう言いながら、テーブルの空いたスペースへ2人同様に胡坐をかく。


「お前が言うな」


 ヒカルがいう。


「この中じゃ、アンタが一番声がでけぇじゃねーか」


 コウもそれに続いた。


「うるさい。言い争ってる回数にしたら、お前ら2人が多いんだ。今日はなんだ。ヒカルがまた、異星人を匿いでもしてたのか」


「違う」


「……カレー」


 2人が俺の問いに即答する。


「カレー?」


「そうだ」


 ヒカルが頷いた。


「今日の晩飯?」


「違う。そもそも、今日の飯の当番はお前だろヒカリ。何時だと思っているんだ」


 コウが返してきたので、俺はそれにつられ、背面にかかっている壁掛け時計を見た。その針は19時過ぎを指している。


「そうだっけ。じゃあカレーだな、今夜は」


「そういう話じゃないんだ。まぁ落ち着いて聞け」


 ヒカルが言った途端、全員の腹が同時になった。

 同じ顔じゃ飽き足らず、腹が減るタイミングも同じだとは。


「いや、違うな。ヒカリは晩飯の支度をしながら聞け」


 ヒカルはそう付け加えた。俺はため息をつきながら、立ち上がるとキッチンへ向かった。


「半年前、ヒカリの世界へ行った事があったろ。別々に行動していた時に食べた、カレーライスの話をしていたんだ」


「そしたらヒカルの奴がさ、うまいのはボンディだ。なんて言うんだ」


「そうだろ。あれはオレの世界にはない店だが、あれが一番だ」


「何を言う。あの世界線でうまいのはガヴィアルだと、アタシがさっきから言ってるだろ」


「お前、ちゃんと食ったのか? 食いもしないで言うもんじゃねぇよ」


「アタシの世界にあるボンディは、食べたことある。けど、ガヴィアルの方が良いって言っただけじゃん。ヒカルこそ、食べもしないで言ってんじゃねーっての」


「お前もそれ、名前の似た店じゃねぇか。偉そうに言ってんじゃねぇやい」


 段々と2人の温度と音量が上がっていくのがわかる。

 というか、半年前に3人で俺の住む世界に出かけたのって、異星存在によって、この宇宙全体が崩壊するかしないかって大騒ぎしていた時期だ。あの緊迫した中で、しかも俺がピンチになっている状況で、こいつら呑気にカレー食ってやがったのか。

 嫌気のさした俺は、調理にかかろうとした手を止め、冷蔵庫から出した肉と野菜を戻すと、代わりに冷凍庫から、3食100円の冷凍うどんを取り出した。奴らには素うどんで充分だ。   

 鍋に入れた水が沸騰を始めても、2人の話は終わらない。


「お前がお子ちゃまだから分からんのだろうが、あの味が至高だ」


「了見の狭いオッサンには分からないだろうけど、あっちのが美味しいから」


 どっちかが譲ればいいのに。そう思いながら俺はうどんを3つ茹で、笊にあけて洗った。最早、素うどんのつゆを作るのさえ面倒になったので、うどんを丼に盛ると、生姜チューブを絞り、上から醤油を回しがけした。


「そんなに言うなら、互いに食べ比べてみればいいだろ」


 俺は完成した「偽しょうゆうどん」をテーブルに置いた。

 2人の会話は止まり、丼の中身と俺の顔を見返した。


「なるほどな……つか、手ぇ抜きすぎだろこれ。」


「アタシ、今日はラザニアの気分だった」


「いやなら食うな」


 俺は文句を言う2人を振り払うように言うと、食事を開始した。2人も間を置いて、それに続いた。


「食べ比べか。そうか、そうすりゃいいのか。オレ明日は休みだから、行ける」


「アタシもかまわない。試験休みだし、今日、実家から仕送り入ったし」


「よぉし、決定だな!どちらがうまいか、分からせてやる」


「フン。吠え面かくなよ、脳筋莫迦。バーカバーカ!」


 なんとなく2人の話がまとまったようで、よかったよかった安心した。食事の時くらい、もう少し静かにして欲しいが、言っても無駄だろう。


「じゃ、そういう事だから。よろしく」


 コウが俺の肩に手をかけて言う。


「は?」


「なに間抜けな返事してんだ」


 ヒカルが鼻で笑った。


「いや、2人で出かけるんだろ? 俺も明日休みだけど、たまにはひとりで自分のことをしたいんだけど」


「お前、ちゃんと話を聞いてた? 明日は()()()()()()()()()()()()()()()って話をしてたんじゃねぇか。誰が連れて行ってくれるんだよ」


「そっちの世界でこんな言葉があるらしいな『アンタ、バカァ?』という、最適な言葉が」


 コウがそう言いながら、うどんをすする。


「お前らが勝手に盛り上がってるだけだろ。なんで俺が……」


「アンタが連れて行かないと、アタシたちは、そっちに行けないだろうが!」


 そう、この部屋の出入口は1つ。そこから全員が毎日、それぞれの世界へ出かける。原理はよくわからん。コウが説明するに、玄関ドアの外と内に歪みが発生しており、外出時はドアを開けて外に出た人物の世界が広がる。説明されても、分からんものは分からん。

 この部屋の隣にある寝室も同様で、ドアを開けた本人の自室へ繋がる。だからプライバシーが、とかそういうのはないし、逆に言えば、忘れ物を届けて貰ったり等はできない。そんな「どこでもドア」の如き便利な機能付きであるにも関わらず、何故かこのリビングとして使っている部屋と、玄関からこの部屋へ繋がるキッチン、洗面、脱衣所に風呂、トイレは共同で使わなければならなくなっている。

 というわけで、俺の世界にある2つのカレー屋に彼らが赴くには、俺がドアを開けて外へ行かなければならない。ならばドアを開けて、彼らを出すだけ出せば、と思うのだが、そうもいかない。まずドアは1度出ると、そんな機能がない筈なのに、自動で施錠される。俺の鍵を貸して出かけさせたことがあったが、彼らが手にした途端、彼らの世界の部屋鍵に変形してしまい、こちらの世界のドアには合わなくなってしまう。

 そんな理不尽な設計を、誰が考え付いたかは知らん。なってしまったものは仕方ない。

 しかし、どんな事情があれ、明日はグウタラしたいのだ。


「いいか、今回ばかりはダメだ。お前らの勝手などうでもいい事に、なんで俺が付き合わにゃならんのだ」


「そう言わずに協力しろよ。また飲みに連れて行ってやるからよぉ」


 嫌だね。またヒカルが先に酔いつぶれて、俺が担いで帰るのが見えてる。しかも飲み代は今のところ全部俺しか払ってないぞ、金返せ。


「頼むよぉ。アタイ達とイイコトしようよぉー。食事当番も代わったげるよぉー」


 コウ、猫なで声でスカートをチラチラ捲るな。腹立つ。大体、食事当番を変わっても、よくわからないマズい物体を出してきて、毎回俺とヒカルが作り直してるじゃないか。


「いいか。俺は連れて行かないからな! 俺は明日、自分の時間を満喫したいんだよ!!」


 俺は憤りに任せてテーブルを叩く。空になった丼がそれに合わせ、小さく振動しながら動いた。



     *



 ……何やってんだ、俺。


 そう落ち込んだのは、列に並んで少し後だった。

 あの後、ヒカルとコウの様々なアプローチに押され、俺はこうして神保町まで連れ出された。

 最悪なことに、昨日までの涼しさはどこへやら、例年にない位の猛暑で、汗は拭いても噴き出る。そんな中俺は、アホ2人と並んでいる。ボンディはこのビルの2階。靖国通り沿いに入口はない。裏通りの「南口」から入るのだが、今日は祝日。人気店であるが故、こうして並んでいるのだ。正直、俺は並ぶのが好きじゃない。カレーは好きだが、飯ごときで並ぶのは、何だか違う気がするのだ。


「みろ、この並び様。この待ってる時間も楽しいもんだろ」


 ヒカルは嬉しそうに俺たちに言う。


「行列ができてるからって、勝負には入りませんー」


 コウが携帯端末のような何かを弄りながら、冷たく返した。


「っていうか、ヒカル。これに並ぶ必要があったのか? 隣の店でも同じの出すって、書いてあったぞ」


「はぁ? お前分かってねぇなぁ。こうやって並んで、待って、席について食うまでが1セットなんだよ! いいから待ってろ」


 分からなくてもいい。早く食べて帰りたい。

 列は順調に進む。ビル内の通路に差し掛かったところで、階段を下りてきた店員にメニューを手渡された。ヒカルは決まっているらしく、メニューも見ないで返した。俺とコウはじっくりメニューを目で追う。しかし注文を取りに店員が戻ってきた時、答えは全員「ビーフカレー辛口」だった。

 そこから十数分経過して2階にたどり着き、店内に通されたのも、そのすぐ後だった。

 4人掛けのテーブルに座ったところで、店員が水、そしてやや大きめのじゃがいもが2つずつ入った白い小皿をそれぞれの前に置いた。

 店内は満員。BGMも聴こえにくい程、賑わっている。


「ああ、ここも芋を出すんだ」


 コウが自分の皿から芋を1つ手に取り、齧り付いた。


「おいおい、分かってねぇなぁ。これはカレーが出てきてから食べた方が良いんだよ」


 ヒカルが言う。しかし俺は小さなプレートを見つけていた。


「なぁ、ジャガイモは前菜でも、カレーと同時でもいいって書いてあるぞ」


「え……いいや、オレは認めないね」


 あ、知らなかったなこいつ。

 しかし、ジャガイモは2つある。先に1つ食べてもいいだろう。俺も1つ手にすると、小皿の隅に添えられたバターを半分乗せて齧った。ジャガイモの柔らかさと、芋特有の甘味、それを強調するバターの塩味がケンカせず口の中で広がっていく。もうこれだけで充分、主食ではないだろうか。

 コウがあっという間に1つ目のジャガイモを平らげたところで、カレーは運ばれてきた。

 茶色より少し明るいキャラメルのような色をしたそれは、カレーポットに収まっており、角丸形の白く深めの皿には白く光るライス。そしてその上には、細切れの溶けるチーズがちりばめられている。皿の隅には胡瓜の漬物と梅干。欧風カレーではあるはずなのに、付け合わせが和風だ。


「来た来た。さぁ食って驚け」


 ヒカルは、さも自分で作ったかのように威張りながらポットを傾け、その中にあるカレーを一気に皿へと注ぎ込んだ。カレーは皿の淵ギリギリまで注がれた。


「うわ……アンタ何やってんの……」


 コウが顔をしかめた。


「何って、カレーはこうやってかけるだろ。普通」


「いや、シルバーの入った籠に、カレー用のレードルあるし。それで少しずつかけないと、皿からこぼれたりするだろ。ったく、ガサツなんだよ」


「んだとコラ。チマチマかけなくったって大丈夫な皿なんだよ。あと、普段からお前のがガサツだからな」


「ふ、普段は……関係ないだろ」


「おい、店の中で喧嘩すんなよ」


 俺は周囲を気にしながら、2人をなだめる。


「お前は黙ってろ」


「そうだよ。アンタ、今日は中立な審判なんだからね」


 2人は互いに向けた敵意の余剰を俺にぶつけたいのか、熱くなっている。

 ならいいさ、勝手にやってろ。俺は俺で勝手に食べる。

 コウに倣ってレードルを使い、少しだけライスにかけ、その部分をスプーンで掬って口に入れた。

 まろやかな舌触りのルーに続いて、口から鼻へスパイスの香りが抜ける。カレーをかけたことで早く溶けたチーズもしつこくなく、カレーとライスの橋渡しとなっていた。欧風カレーと油断してはいけない。これは辛口。その辛味は直球でやってくる。しかし激辛ではなく、その辛さも水を一口含めば、消えてなくなる。次へ、また次へとスプーンを進めたくなる辛味と舌ざわりだ。

 ポットの中に沈む、やや大きめにカットされた肉は、歯を立てればほぐれる程柔らかい。


「カレーの単調さを変えるのには、こうだ」


 ヒカルがジャガイモを半分に割り、カレーの中へ投入した。コウが眉間にしわを寄せる。

 そういやヒカルはカレーの具が大きな事にこだわっていた。肉以外はほとんど見えないこの中に、ジャガイモを入れることにより、彼にとってそれは、さらなるご馳走になるのだろう。俺は真似しないけれども。

 単調さを変えると言えば、隅に鎮座する漬物2種類。辛味があるとはいえ、ややこってりとしたカレーだ。テーブルに辣韭ラッキョウ、福神漬けがあるが、ここはこの緑と赤、塩気を感じる2つが活躍することによって、口の中を一息つかせて更に食が進む。

 最初の一口からすべてのバランスが整っている最強の布陣だ。


「どうよ。うまいだろ?」


 食べ終わったヒカルが俺たちに言う。


「確かにうまいが、まぁまぁだな」


 コウは口元を拭きながら返した。


「今日はどうやらアタシの勝ちになりそうだ」


「な、なにを言ってやがる」


「ガヴィアルは、もっとすごいぞ。ビビるぞー」


 忘れていた。今日はもう1軒行くんだった。残念ながら、この1杯で、割と腹は満たされている。幸い今日の払いは2人がやってくれることだし、ここは先手を打って、退散することにしよう。そう思い、提案しようとした時だった。


「ヒカリ、次へ行くぞ」


 コウが俺の手を取ると、立ち上がって出口へと向かう。。


「え、ちょ……」


「ああ、ヒカル。ここの払いはするんだぞ」


 そう言いながらコウは俺を連れ、店を後にした。

 ヒカルが後ろから追うように声をかけてきたが、コウの足は止まらなかった。


 白山通りを渡った先にその店はあった。1人分が通れる階段を2階へ上がると、先程よりは少ないものの、ここも列が形成されていた。


「なんだよ。待つのかよ」


 追いついたヒカルが呟く。


「おい、ヒカル。さっきと言ってることが違うぞ。待つったって、すぐだよ、すぐ」


 コウが呟くように言った。ランチタイムのも折り返したからか、列はスムーズに流れ、コウの言う通り、すぐに4人掛けのテーブルに通された。


「さぁ食え。そして、アタシにひれ伏せ……!」


 コウが自慢げに言う。ひれ伏せと来たか。


「コウ、お前が作るわけじゃないんだから……」


「おっと、判定は食ってから出してもらおうか、審判殿! まぁ、アタシの勝ちだけどね」


 調子に乗ったコウが、オーバーアクションで俺の言葉を遮る。それだけで減点にしてやりたいくらいムカつくのは、きっとこいつの一挙一動が、中学時代を思い出させて、痛々しいからに違いない。コウの向かいに座ったヒカルは「笑止」と踏ん反りかえる。こちらも既に勝った気でいる様だ。

 なんだこれ。もうこいつらを置いて、家に帰りたい。

 そうこうしているうちに店員が運んできたのは、水と2段に重ねた黒い小鉢。それと手書きのメニューだった。小鉢上段には茶色の福神漬け、下段には小さな辣韭が詰っている。


「で、お前たち、何を食べるんだ?」


 念のため俺は確認をした。2人は得意げにこちらを向きながら言った。


「決まっているだろう」


「確認するまでもないさ」


 3人の前に運ばれてきたのは、ビーフカレー辛口だった。

 正直、勝負に関係のない俺は、ビーフカレーよりシーフードミックスを食べたい気分だったが、つい彼らと同じ選択をしてしまっていた。

 盛り付けは先と同様にセパレート。先ほどのカレーより若干濃い色合いのカレーから、食べやすい大きさに切られた牛肉が、いくつか顔を覗かせている。付け合わせのジャガイモはやや小ぶりのものが2つ。こちらも白いライスの上にチーズが光っている。その鎮座する皿は円形の平皿だった。


「ふふ、さぁ食うがいい。おっとヒカル。さっきみたいにダバーっとかけると、大惨事だ。こぼすなよー。気を付けるんだぞー」


 早速ジャガイモをモグモグと頬張りながら、コウがニヤつく。スプーンを片手にためらっていたヒカルだが、膠着は刹那であり、その右手はついに行動を開始した。


「俺は! 自分を! 曲げない!」


 そういうとスプーンをライスの中央に刺し、そこから放射状にライスを避け始めた。そのスペースは広がり、いつしかライスは丘から環に変貌した。そこへカレーを注ぎ込むヒカル。そうまでして食べ方にこだわる理由は、本当に理解できない。そして、まさかという顔をしているコウの気持ちもわからないし、分かりたくもない。

 カレーをかけると、その香りが俺に近くなった。離れていれば同様に感じるそのソースだが、近くによれば、別物だと感じられる。こちらの方がやや香ばしい。

 では味はどうなのか。俺は1口分を掬って食べる。欧風カレーらしい舌ざわりがあるが、先ほどより直接的な辛さはない。クリームのような感覚さえ覚える。本当に辛口なのかと疑惑を抱くほどだ。しかし2口、3口と進めば辛さは顔を出す。それは刺激的なものではなく、じわり、じわりと迫ってくるようだ。

 こういう場合には福神漬けだろう。そう思い、傍らにある小鉢からカレーよりも茶色を纏ったその漬物を数切れ、カレーの中に落として食べる。塩辛そうなその数切れは、カレーの辛さに勝とうとせず、その力を利用して甘味を舌の上に広げた。

 大きな塊の肉も良かったが、こちらの一口に収まるサイズの牛肉も良い。カレーを食べに来ているのだ、この牛肉は、カレーを楽しませるためにアシストするという、重要な役割を忠実に果たしている。

 途中に齧るジャガイモはそのままでもいいが、ちょっとカレーソースをつけると、クリーミーな辛味がほくほくとしたジャガイモを包み、これもまた楽しい発見となった。

 カレー、チーズライス。そして牛肉、ジャガイモとボンディ同様のコースだが、負けず劣らずの美味さだ。


 そもそもこの諍いに、甲乙つけようなんて奴がいるのが信じられない。これはもうこの至福の状態で解散という事でいいのではないだろうか。適当に判定を濁せば、丸く収まりそうな気もした。

 何よりもう俺は満腹で、今日の晩飯は抜いてもいい状態だった。


「さぁどうだヒカリ。どっちが美味かった?」


 支払いを終えたコウが合流したところで、ヒカルは俺に聞いた。


「いや、どうって……俺はどっちも……」


「両方美味かったってのは、無しだよ! こういうのはちゃんと決めておかないと、後々噴き出すわだかまりになる」


 コウが遮った。しかし、俺はそれどころではない。

 今ちょっと喋りたくないし、ここから動きたくない。

 それくらい限界だ。


「さぁヒカリ!」


「どっちだ!」


「いや、その……」


 俺はどうでもよかった。しかし目の前の2人は奥に沸々と感情を滾らせた目を輝かせ、こちらの判定を今か今かと待っている様子だ。ダメだ……帰りたい。


「いやちょっともう、満腹すぎて……というか、甲乙つけがたいし……」


 俺が路肩に座り込んで呟くと、2人が顔を見合わせた。


「なるほど、これは困った。微妙な部分でヒカリは判定に迷っているようだ」


「これは、もう一度食べ比べに入るしかないようだねー」


 冷や汗をかくと同時に、悪寒が走った。胃の内容物も充分重くなっており、これ以上何かが侵入することを拒む様に、シクシクと痛みを滲ませていた。ヒカルは大丈夫かと俺に言い、両腕を組んで考え込んだ。


「しかし、ヒカリの言う通り、さすがに腹は膨れている。往復する度に腹が膨れるから、判定精度が鈍くなっていくな。ここはやはり、仕切り直しか」


「いいや、アタシに任せろ」


 コウが自信たっぷりに言った。というか、なんで2人とも同じ量を食べても、変わらぬテンションでいられるのだろうか。コツかなにかあるのか、俺が弱いのか。或いは……。


「任せる?」


「そうさ、アタシが何者か、忘れてやしないだろうな!」


 コウが言葉の端々で、いちいちポーズをつける。だめだ、満腹の限界達したからだろうか、その痛々しさが逆に笑えてきた。


「あー、異世界の魔女っ娘だっけ」


 ヒカルは特になにも思っていないのか、鼻をほじりながらコウに答えた。


「違う、美少女魔導士! 間違えんな。このコウ=コーテヨ様に秘策あり!」


 そういうとコウは両手をユラユラと回し、ボソボソと何かを呟きだした。はたから見ると、これは恥ずかしい。他人のふりをしたい。しかも、今までの経験上、こいつのいう策・秘策は、碌でもない事ばかり。これだって、何をやらかすか判ったもんじゃ――。

 次の瞬間、俺は腹部に強烈な衝撃と痛みを覚えた。

 ユラユラ腕を回していたコウが、その両手の拳を固めて俺に放ったのだ。痛みより、腹のものがこみ上げないかと気にした俺は、腹より口を押えて倒れこんだ。次に聞こえたのは、重たい音と、目の前にいたヒカルの呻きだった。コウの奴、ついに本当のアホになってしまったのか。

 咄嗟の一撃で生まれた激痛と、腹に2食分つまった苦しさで反撃どころか、身動き……。

 ……身動き、できる。

 俺は立ち上がった。痛みどころか今まで圧迫していた腹の中は、すっきりしている。


「何をやった?」


 ヒカルも立ち上がり、コウに聞いた。コウは得意気に言った。


「空間制御魔導術の応用さ。胃の中を別の空間へと変換して圧縮。今、アンタたちの胃は、通常の何倍もの容積を有している。これで、いくらでもカレーを食べられる!」


「お前……それ……」


 大丈夫なのか? 何倍もの容積を有するっていうけど、他の器官とか……。


「うぉおお! すげーなコウ! お前やっぱ天才だな!」


 ヒカルがコウに抱き着き、頭を撫でている。


「うわっちょ……キモイ。やめろ! つか今、鼻ほじった手だろそれ!」


 コウは必死にヒカルを引きはがした。


「ともかく、これで、いくらでも食べられるようになったんだ。アタシとヒカル。どっちの勧めるカレーが美味いか、はっきりしてもらおうか」


 コウは腕を組むと、不敵な笑みを浮かべた。


 ここからはもうダイジェストで話してもいいと思う。

 何しろ道を挟んだ2つの店を行ったり来たり。食べるものは同じだった。3往復目からは店員も驚愕と畏怖、それに哀れみをたたえた眼差しを送ってくるようになった。しかし俺は2人のアホ……否、プライドを賭けた戦いを見守らねばと心の中に義務感を抱くまでになり、いつしか人目もはばからず、審判たろうと奮闘した。


 ――並んでは食べ、道を渡って並ぶ――


 終わりの見えないそのデスレースも、既に9往復目だ。

 時計の指す時刻は17時を過ぎていた。さすがに2人の潤沢であった財布の中身も尽きかけている。


「さ、さぁ……どうだ、ヒカリ」


「どっちが美味いか……決めてもらおうか」


「それは……」


「どうした、もう1往復いくか?」


「今日は決めるまで帰ら……」


 そこまで言うと、急にヒカルが腹を抑えて倒れこんだ。呼吸が荒く、酷く発汗している。


「おい、どうした。大丈……」


 次の瞬間、俺はヒカルが倒れた理由を理解した。先ほどまで何ともなかった胃の中が、渦巻く嵐のように騒ぎ始めたのだ。そのうねりは内側から外へ膨張をはじめ、俺は耐えきれず、その場に崩れ落ちた。


「何が……何だこれ。おい、コウ……」


 コウは俺を見降ろした後、肩から下げていたトートバッグから携帯端末のような何かを、取り出して眺めた。


「ああ、やっぱりそうか」


「やっぱりってなんだ……」


「この魔導術、効果時間3時間なんだよ。それまでに決着がつくと思ったから、あとは考えてなかった」


「え、何。これこのままだとどうなるの?」


「えーっと、空間が元の容積に戻るわけだから、許容量をオーバーしたら、破裂?」


 くそ、やはり碌なもんじゃなかった。っていうかなんでお前は術をかけてないのに、そんな平気でいられるんだ。

 胃の圧迫は少しずつ大きくなっていき、今は膝をついた体勢から立ち上がることはおろか、呼吸すらままならない。そんな中、呻いていたヒカルが、蚊の鳴くような声を発した。


「負けたよ……お前、コウ……お前がナンバーワン・フードファイターだ……」


 震える右手を突き出し、サムズアップと笑顔を決めたヒカルは、燃え尽きた灰のようにその場へと崩れ落ちた。


「やったー、アタシの勝ちぃ!」


 コウが嬉しそうに両手を上げる。

 そんな勝負だったか? まぁいいや、それよりもう何とかしてくれ。本当にヤバイ……。

 あきれてもため息一つつけない俺の視界は霞み、果たして意識は訪れた闇の中に吸い込まれていった。



     *



 気付いた時にはリビングの床だった。

 コウによると、彼女が俺とヒカリを連れ帰り、()()を行ったとのこと。俺はシャツを捲って自分の腹部を確認した。腹は破裂もせず、逆に微かな空腹感さえ感じている。


「間一髪だったよ。アンタたち、アタシに感謝しなよ」


 コウは俺と、俺の隣に横たわるヒカルにそう言った。

 俺は目の前で勝ち誇るこの女に、感謝を抱くこと等できなかった。

 過ぎたるはナンチャラ。

 もうこいつらの起こす食べ物の争いには、絶対に関わらない。関わってたまるか。

 その教訓だけが、貴重な休日を潰され、何も考えたくない俺の頭の中をぐるぐると回っていた。




〈終〉


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