「主人と使用人のまぐわいは禁止されていません」 61.8 kg
午前7時、かけておいた時計のアラームで目が覚める。結局、昨夜はハニートーストを1枚平らげてから眠りについた。一緒に出されたホットココアのおかげだろうか少し短めの睡眠時間にしては目がよく冴えている。
さて、このまま葵の策略に嵌められたままだと、体重は増加する一方だ。軽く運動でもしようか。庭を何周か走れば多少は消費できるだろう。
寝間着を脱ぎ、ジャージに着替える。その場で、軽く2, 3回跳ねてやる気を出した後、部屋を出ようと両開き戸の手摺りに手をかける。
「ん?なんだろう。開かないな」
少し力を入れて押してみても、わずかに開いて押し戻される。棒か何かが挟まれているのではなく、単純に力で押し返しているようだ。
しかし、誰がこんなことを。少なくとも葵でないことはわかる。ここまで押し返す力はなかったはずだ。何より彼女は無駄ないたずらをしない。とすると、扉の向こうにいるのは伊吹楓だろう。
この屋敷には使用人である葵と楓、それと俺の3人しか住んでいない。そこまで大きいわけでもなく、なにより俺はあまり人がいる環境が好きではないため最低限の使用人にとどめている。
明華葵は炊事や掃除などの役割を担う万能メイドだ。正直、並みの使用人の数倍は優秀で、彼女がいなければこの屋敷にはもっと人が必要だっただろう。
そして、この扉の向こう側にいるであろうもう一人の使用人、伊吹楓は主人の勉学や健康をサポートする家庭教師やトレーナーといった存在だ。
彼女らは使用人であると同時に俺の監視役でもあり、本家に行動の一部始終を報告している。華族特有の忌々しい慣習から抜け出した俺が比較的自由に暮らせているのは彼女らの監視があるからだ。
もっとも、3人でこちらに移住してから3年、共に長く暮らす中で、それなりの信頼を得てきた。とくに葵は完全にこちら側だと信じている。
それは、この『体質』が本家にばれていないことからも明白だ。金にがめつい本家に知られればどうなるか分かったものではない。すでに身内と思っていない人間にはさぞ残虐になれるだろう。
根が真面目な楓については、まだ懐柔しきれていない面がある。楓には申し訳ないが、『体質』に関しては黙っておくことにしていた。
楓が扉の前にいて、俺を部屋の外へ出させまいとしているこの状況。ばれたか。すでに本家に報告していて、迎えが来るのを待っているのかもしれない。なんにせよ、説得でも何でもして逃げる準備をしなくては。まずは、楓をどかすところから始めよう。
「おはようございます、楓さん。ちょっと運動したいのでそこをどいていただけますか」
「う、運動!?昨夜もしていたのに朝っぱらからなにするおつもりですか破廉恥ご主人!絶対出してあげません!」
幼げの抜けない高い声で叫ぶ楓。扉を隔てていても廊下でビリビリと反響する音が拾える。しかし、なにやら様子がおかしい。運動とはなんだ。昨夜はトーストを食べて寝るほかに何もしていないし、そもそも夜食の件もばれていないはずだ。
「昨晩ってなんのことです。寝付けなくて少し散歩はしたけれども、それ以外に何もしていませんよ」
「嘘です!楓は見ちゃいました!キッチンの前で葵ちゃんと密会して2人で部屋に入っていく姿を!そして30分後に満足そうな顔で部屋から出た葵ちゃんも!なんですか。なんなんですか。ご主人に保健体育はまだ教えてないですぅ!!!」
耳が痛くなるほどの甲高い声で喚く使用人。途中から半ベソかいているような音も聞こえる。なるほど、とんでもない勘違いによって拘束されていることが判明した。勘違いとはいえ、これも本家に伝わるといろいろとまずい。弁明して事実を伝えねば。
「いや、楓さんが思っているようなことは欠片もなくて。実は昨晩、小腹が空いて葵さんにお夜食を作ってもらったんですよ。食べるために、2人で部屋に行きましたが、そんな運動だなんて」
「その発言はおかしいです。葵ちゃんが管理しているのですから、ご主人を夜お腹が空いて起きちゃうほど空腹にさせるなんてありえません。なんですか、2人で先にいっちゃって。最近なんかよそよそしいですし。そんなに楓をハブにしたいんですか、うぅ」
2週間前まではそうだった。だが、『体質』を秘密にしている以上、葵がどうして食事管理をわざとずらしているのか説明ができない。
と、そこに新たな足音がやってきた。口が回る葵なら、この状況をなんとか切り抜けてくれるはず。いっそここは彼女に任せよう。
「葵さんからも説明お願いしますよ」
「おはようございます、ご主人さま。そして楓ちゃん。いいですか、規則によると、主人と使用人のまぐわいは禁止されていません」
馬鹿野郎。なに言ってやがる。
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