「そろそろお腹が空いた頃かと思って」 62.2 kg
人間の生理現象とは恐ろしいもので。ほんの7, 8時間前には食べ物という存在を憎んでいたはずなのに、まさか夜中に腹を空かせて目覚めてしまうとは。寝直そうにも空腹が邪魔をして寝付けそうにない。
仕方がないので、キッチンから何かつまめるものをくすねよう。起き上がるのはまだ怠いと主張する身体をもぞもぞとくねらせて寝床から抜け出す。
キッチンは葵の聖域になっている。なんでも、食事を徹底管理する役目を任されている以上、管理される側がそこに立ち入ることはメイドのことを信頼していない証になるのだという。本当にうまいこと言うものだ。
ただ、彼女の作る料理は完ぺきだ。味には文句のつけようがなく、栄養バランスもきっちり考え抜かれている。
2週間前までは食事の量も申し分なかったのだが、金に目がくらんだ結果、はかりが壊れてしまったらしい。実際、彼女が我が家のメイドになってから、空腹で夜間に目が覚めるなんてことを体験したことはなかった。給与査定にきっちり記録しておこう。
使用人の詰め所はキッチンの近くにある。起きてきたこと、そしてキッチンに入ったことがばれないよう、そろりそろりと大理石の廊下を忍び歩く。月の光で輝く真鍮のドアノブに手をかけたとき、背後に気配を感じた。
「ふぅーっと」
「ひゃあ!」
振り向こうとした瞬間、首筋に生暖かい吐息を吹きかけられ、思わず甲高い声をあげてしまう。
「ご主人さまは首を責めるとずいぶんとかわいらしい声で鳴いてくれるんですねえ。また一つ賢くなっちゃいました」
「賢くなっちゃいました。じゃあないんだよ。なんでこんな時間に起きていて、主人の首を責める必要があるんだい、葵さんや」
いたずらが成功した幼子のような満面の笑みを浮かべる葵に問いかける。月の光が顔に影を落とし、実に悪役のよう。そんなことを考えていたら、企みが成功したかのようなにやけ顔に変わった。完全に悪役フェイスだ。
「そろそろお腹が空いた頃かと思って、お夜食を作って待機していました。この時間に食べるハニートーストは美味しいですよ~」
彼女の後ろをよく見ると、アイスクリームと蜂蜜で甘く仕立て上げられたトーストが配膳用の台車の上に載っている。
「まさかとは思うのだけど、この時間に空腹で起きるところまで計算して食事作ったりしちゃったりして?」
「ふふっ、どうでしょうね~。さ、お部屋で食べましょ」
どうやら、以前と変わらず俺の食事は徹底的に管理されているようだ。はかりも壊れていなかったらしい。2週間前と異なるのは、その方向が健康な体の維持ではなく、確実に太る方向にもっていっているところか。
いずれにせよ、今はハニートーストの誘惑に抗えそうにない。また明日から、きちんと戦略を考えねば。
キッチンに背を向け、葵とともに自室へ帰る。このとき、もう一人の使用人がこちらを見ていることにはまるで気づかなかった。