第67話 忠実と頼長①─幼き日の頼長─
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──頼長が生まれたのは、池に植えられた菖蒲が咲き誇っていたころだった。
久しぶりに摂関家に生まれた男児。それも老い先短い身であった私にとって、とても喜ばしいことだった。
菖蒲の花が咲き誇っていた時期に生まれたから、幼名は菖蒲若と名づけた。
菖蒲若こと頼長は、大きな病気をすることもなく、すくすくと育っていった。
だが、頼長が9つのときに事件は起きた。
縁側で琴の練習をしているとき、
「太閤殿下、大変でございます」
と為義が声をかけてきた。息切れで途切れ途切れになった話し方や、真っ赤になった顔色からして、かなり慌ててる様子だった。一体何があったのだろうか?
「為義、どうした、そんなにひどく慌てて?」
「菖蒲若さまが、落馬してしまいました。現在、東殿で手当てを受けているところです」
「菖蒲若」
急いで私は、頼長のいる東殿へ向かった。
そこには、頭に包帯が巻かれ、痛々しそうに床についていた頼長の姿があった。
眠っている頼長の側には、一人の医師が深刻そうな顔をして座っていた。
「医者、どうなんだ?」
「できるだけのことをしてあげました。ですが、もう目を覚ますことはもうないでしょう。あとは、奇跡を信じて神仏に祈るしかありません」
「そ、そんな……」
医者からこの言葉を聞いたとき、私は絶望のどん底に追いやられた。
(どうして愛する我が子がこんな目に遭わないといけないのか? これも前世の報いなのか?)
このとき私は、何度自分の運命を呪った。そして初めて誰かのために悲しみ、涙を流した。
事故があった次の日から、私は、僧侶や神官、陰陽師を呼んで祈祷をしてもらうのと同時に、必死で観音様に願をかけた。
願うことはただ一つ。
「菖蒲若が眼を覚まし、早く元気になりますように」
ただそれだけだった。白河院に仕事も名誉も奪われた私にとって、頼長は唯一の生きる希望。頼長が死んでしまえば、目を覚まさなければ、生きる意味をなくしてしまう。 だが、頼長は眠ったままで、目を覚まさなかった。来る日も来る日も。
それでも私は神様や仏様に必死に祈り続けた。
眠っている頼長の手が少し動いたのを見て、今日こそは、と期待する。だが、それでも目が覚めない頼長を見て、落胆する。そんな悲しい毎日を繰り返していた。
2
落胆してばかりの毎日を送り続けて、100日ぐらいが経ったころだろうか。下男たちのこんなやり取りが耳に入ってきたことがあった。
朝食を食べ終え、支度に取り掛かろうとしたとき、下男たちの雑談が聞こえてきたことがあった。
本来であれば注意すべきところなのだが、どんなことを話しているか気になったので、物陰に隠れて、こっそり聞いてみることにした。
「そういえば行尊さまの噂を知っているか?」
「知ってるとも。どんな怪我や病も治す、不思議な力を持ったお坊さんのことだろ?」
「そうそう。行尊様は不思議な力を持っているだけでなく、歌徳もあるらしい」
(どんな怪我や病も治す不思議な力?)
下男のこの言葉を聞いたとき、私の心の中に、一筋の光明が差した気がした。
馬から落ちた日以来、ずっと眠ったままの頼長が目を覚ますかもしれない。また元気な頼長の笑顔が見られるかもしれない。そう思った私は、すがるように、
「下男たち、その噂は本当か⁉」
と下男に聞いた。
「太閤殿下、知らないのですか? あの三井寺の住職にして、前大僧正の行尊さまを」
私は行尊という僧侶については、名前ぐらいしか知らなかった。
「どこにいるんだ、行尊という僧は?」
「三井寺です」
「わかった」
私は頼長の眠る東殿へ行った。そして眠り続ける頼長を抱えながら召使を率い、牛車に乗って三井寺を目指した。
3
三井寺へと着いた。
熱病に苦しむ者、酷い怪我を負った者。行尊のいる房の前には、そんな病人やケガ人や支える人たちが長蛇の列をなしていた。
私は下人に、早く私の子の番にするように、という言伝を行尊に伝えるよう指示した。
だが、下人はしばらくしないうちにこちらへやってきて、
「欲張りはいけない。待つようにと行尊様は仰せです」
とその回答を私に伝えた。
こういうとき普段気の短い私は、怒鳴り込んでいただろう。けれど、そんなことをしては、ここで待つたくさんのケガ人や病人に気の毒だろうな、と感じたので辞めた。
午の刻、未の刻、申の刻。最後尾に並んでずっと待ち続けた。
私の番が回ってきたのは、もう酉の刻になった頃だろうか。陽は都の方角にある山へと沈み、琵琶湖の湖畔からは藍色の夕闇が迫り、夜になりかけていた。
「菖蒲若を、よろしくお願いします」
私は100日も眠りについた頼長を行尊に渡した。
哀れむような表情で、行尊はつぶやく。
「まだ未来のある少年が、長い眠りについてしまうとは、なんと悲しいことか」
「今日の朝に貴方の噂を下男から聞いて駆けつけてきた」
「ずっと待たせて、申し訳ございません」
そうつぶやいたあと、行尊は頼長の頭に触れ、
「オンコロコロセンダリマトウギソワカ」
と薬師如来の真言を3回ほど唱え、頼長の頭に巻かれた包帯を取った。
傷跡としてしっかり残っていた傷口は、怪我がなかったかのようにしっかり消えている。
「これで頼長は目が覚めるのですか?」
「ええ」
そう言って行尊がほほ笑んだとき、
「眩しいなぁ」
ずっと眠っていた頼長が目を覚ました。
「菖蒲若!」
「父上!」
喜びのあまり、私は頼長の身体をぎゅっと抱いた。
「行尊様、私の息子を直してくださり、ありがとうございます」
「いいえ。お礼を言われるようなことはしていません。私は厳しい修行の末にこの力を覚醒させ、人々を救っているだけです。それに神様や仏様ではないので、寿命が来た命は救えないのです。それに、これまで自分のことしか考えて来なかった貴方も、できるだけのことをした」
「は、はい」
恥ずかしながら、私は誰かのために動いたことは、頼長が生まれる前は一度もなかった。忠通の養育は乳母や母方の実家に任せっきりで、そのうえ遊んでばかりいたからだ。
「待つことはとても辛いことです。いつになったら報われるのか。このような気持ちにずっと耐えなければいけませんから。それにこの子は気づかせてくれた」
「なるほど」
「これも仏のお導きです。あと、今日はもう暗いですから、寺に泊まっていってください」
「は、はい」
長い人生を振り返ってみると、この瞬間がとても嬉しかった。
4
目を覚ました頼長はいつも退屈そうだった。
怪我をする前までは活発に動いていたのに、その後はずっと縁側で寂しそうに座っていることが多くなった。
心配になった私は、しょんぼりとしている頼長の隣に座って、
「今日も、遊びに行かないのか」
と聞いてみた。
頼長は小さくうなずいた。
「また事故に巻き込まれるのが怖いのか?」
そう聞いてみると、頼長はまた先ほどのように小さくうなずいた。
「そうか。少し待っていてくれないかな」
私は文庫へと向かった。
鍵を開けて入ってみる。本の上には鼠色の埃が雪のように積もっている。若いころからずっと入っていないうえに掃除もしていないので、汚いのは当然なのだが。
偶然目に入った『古事記』と『日本書紀』、そして藤原摂関家に伝わる歴史書を手に取り、頼長のところへ持って行った。
ついていた埃を払い、破れがないかをさっと確認した後、
「菖蒲若、これを読んでみないか?」
と言って頼長に渡した。
頼長は私が持ってきた本を手に取り、読み始める。
最初はゆっくりと読んでいた。だが、おもしろくなったのか、『古事記』を読み終えた後に『日本書紀』、そして我が摂関家に伝わる歴史書、といった感じで読み進めていった。




