6. 最強格
ディーノは冷や汗を垂らしながら前方を睨み、ぐっと拳を握りしめた。ほんの少しだけ、背を向けようと考えたことは否定できない。
しかし今の自分には対抗策があるんだと思い直し、勇気を出して立ち向かう。
――真っ黒で薄気味悪いダスティ・スライムの大群に。
(あとちょっとで上に上がれるのに……!)
アレに遭遇したのは、あと二、三回角を曲がれば階段という辺りだった。
つくづくツイてない。
でも道はここだけだ。やるしかない。
嘘か真か、ダスティ・スライムには塩。これを購入したせいで、無収入でも一週間は耐えられると見積もっていた資金が三割減ったのだ。効いてもらわないと困る。
問題は数十体はいそうな――真っ黒で境界が分からないので確認できない――スライムの群れに対し、小袋ひとつで足りるのかどうかということ。
黒いスライムはべちょべちょと粘着質のある音を立て、少しずつディーノの方へ近づいてくる。床はもちろんのこと、壁や天井までもが黒い水溜りのようなもので覆われている。
床にいたダスティ・スライムと、天井を這っていたのとが、それぞれ上方向とした方向に伸びる。すると一面が薄い被膜のような壁となり、連動して迫ってくる。
以前はこの壁に恐れをなして逃げたのだ。
不意に、スライムの壁が膨らんだ。ディーノは嫌な予感を覚え、咄嗟にその被膜へ一掴みの塩を投げつけた。
すると、塩が当たった部分がどろりと溶け、そこを避けるように敵が不自然な動きをとる。他の生物に例えるなら、慌てて逃げたと言ったところだろうか。逃げ遅れた一部のスライムが動きを止める。
効いてる。
「よ、よかった……」
ダスティ・スライムは単体なら弱いと聞いたことがある。子供でも踏みつければ殺せるくらいだと。そのくせ、どの迷宮にも大抵出現するそうだ。
再び壁を作ろうとしていたので、残りの塩全てを投げつけて天井の群れを一掃した。
すると今度はスライムたちの動きが変わる。ぐぐっと力を溜めるような動作をしたと思ったら、ぴょいんとディーノの顔目掛けて跳んできたのだ。
「うわっ」
咄嗟に避けたが、驚きで心臓がバクバク鳴る。もし頭に取りつかれていたらと想像すると背筋が凍った。
だが、本当に怖いのはここからだった。
次々にダスティ・スライムが跳んでくる。前から、横から、後ろから。極度の緊張が為せる技か、躱せているのが奇跡みたいなものだった。
しかし、奇跡も長くは続かない。
足がもつれて尻餅をついた。見ると、地面が拳大に抉れている。どうしてと愕然とするディーノの視界の隅で、スライムが地面を食っている姿が映った。
「こいつら……!」
スライムたちは、自分が弱いことを知っている。
だから知恵を使うのだ。
一体が跳んでくるのが見えた。咄嗟に剣で前方を払う。ぐちゃ、と不快な音がした。
攻撃は一体で終わらない。二体、三体と飛び込んでくる。
がむしゃらに剣を振っていたけど、遂にそのうちの一体が肩に食らいついた。
激しい痛みが襲い、声のない悲鳴が喉を裂く。
胸がひきつる。涙が滲む。
ディーノは歯を食いしばり、立ち上がろうと藻掻く。
負傷した右腕から、左腕に剣を持ち替えた。
何も考えず横に転がる。
ディーノがいた場所に、二体のダスティ・スライムがへばりついていた。
それを見た彼の胸に湧いたのは、恐怖ではなく勇気だった。
「まだ生きてる。生きてるぞ」
傍で聞く者がいたら、それは強がりだと断じたかもしれない。
けれど、ディーノにとっては紛れもなく自信なのだ。自分でも不思議に思うくらい、彼は絶望していなかった。
数秒間、攻撃が止む。唐突に開いた空虚な間に、脳が激しく警鐘を鳴らす。
ディーノはくるりと背を向けると、地を蹴って走り出した。
行く手にもいたが、構わず突進して左手を振る。二つに切り裂いた粘っこいゼリーのようなの残片が頬に張り付いた。ピリッとした痛みがその箇所を焼いたが、今は無視する。
その代わりちらりと後ろを振り返って、すぐにその行動を後悔した。
攻撃を止めていたスライムたちが一丸となり、先端を投網のように広げて彼へと飛びかかってきたのだ。その狙いは正確だ。範囲を狭め、素早さを上げたのか。追いつかれる。
駄目だ。もう死ぬ。
この時になっても、ディーノの心中は凪いでいた。
(何もかもなくなって、誰も知らない場所でひっそりと死ぬ。悲しいな)
家族四人で、裕福ではないけれど幸せだった日々が思い浮かぶ。
そして、どこかで生きているであろう姉の幸せを願う。
もしも。生きて地上に戻れたら。
そんなあり得ない妄想をして。
(そしたら、いつか姉さんを探しに行こう)
ディーノは穏やかに微笑んだ。
「そぉいやー!」
聞き覚えのある女性の掛け声が、四角い通路を駆け抜ける。ディーノの真横を一陣の風が通り過ぎ、ブォン! と空気を唸らせた。
次の瞬間、ベチャベチャベチャっと黒い水音が輪唱した。
「……え?」
何が起きたのか、全く状況が掴めない。
目は開いていたはず。しかし、彼には分からなかった。赤い影が揺らめいたこと以外は、何も。
呆然と立ち尽くすディーノの背後で、先程と同じ声が柄悪く喋りだす。
「おうおう、スライムさんよー。幼気な少年に寄ってたかって、どんな悪いこと考えてたのかなー? お姉さんに教えてよー」
恐る恐る振り返ると、すらりとした長身の赤髪の女が、グリグリと地面を踏み躙っている。探索に来たとは思えないほどの軽装で、短パンから伸びる褐色の生足が眩しい。手には凶悪なハルバードを持っていて、先程唸りを上げたのはどうやらそれであるらしいと察せられた。ダスティ・スライムは全て黒い血痕と化していて、見る影もない。
「食えないスライムなんてお呼びじゃないんだよ!」
「??」
女はなぜか怒っていた。
意味が分からず、地面が崩れた時以上に困惑する。
目を白黒させていると、更に背後から別の声が近づいてきた。
「アイーダ。敵はもう死んでいる」
魔導灯に照らされて、こちらも見覚えのある銀髪の男がゆっくりと歩いてくる。その姿にディーノは目を剥く。なぜかと言えば、男の背には彼に不合格を告げた黒髪の少年が負われていたからだ。なぜかむっつりと不機嫌そうにしているのが気にかかるが。
「分かってるけどさ。肉系じゃない魔物ってほんと嫌いなんだもん」
どんな好き嫌いだ。というか、肉系という分類を初めて聞いた。
「えっと……あの、あなた方は」
戸惑いつつも声をかけると、赤髪の女がディーノを見てニッコリと笑う。
「ディーノくん! よかったー。とりあえず生きてて。あちこち怪我してるけど」
「は、はい。なんとか……。ありがとうございます。アイーダさんたちのおかげで助かりました」
「いいのいいの。あたしら、キミを探しに来たんだよ。昨日うちのアホマスターがアホ言った時、かなり落ち込んでみたいだったからさー。気になっちゃって」
たったそれだけで?
と、ディーノは目を丸くする。
その気持ちを察したのか、アイーダはガリガリと後頭部を掻きながら苦笑いする。
「あー。実はね、昨日のアレ、こっちに落ち度がありまして。あの時のアホマスター、正気じゃなかったんですわ」
「おい! さっきから聞いてればアホアホと! お前俺の部下だろ。言葉を慎め!」
「ところでもう下ろしていいか、フォルス」
「ジーン。俺は今大事な抗議の最中なのだ。話の腰を折るでないわ」
「すまない。お前がアホなのは今に始まったことではないと思ってな」
「お前ら、もう少し俺に敬意を払わんか」
「払われる器になって出直してきてよね」
アイーダの一言に、少年――フォルスはぐぬぬと悔しげに歯ぎしりした。分が悪いと思ったのか、反撃する代わりにピョンっとジーンの背から飛び降りる。何となく想像していたが、フォルスだけ丸腰だ。魔道士や魔術師であっても、短剣の一つや二つは装備するもの。
訝しんでいると、すっと音もなくジーンが進み出た。右手は背に負った大剣の柄に及んでいる。
その動きに呼応するように、ガシャン、ズル、ガシャンと奇妙な物音が通路の奥から響いてきた。
ジーン以外の三人の目が、音のした方へと向かう。
やがて魔導灯の炎が揺れ、土色の壁に大きく無骨な影を映し出した。
「ひっ!?」
ディーノが悲鳴を上げたのも無理はない。
曲がり角からぬっと姿を現したのは、巨大な白い骸骨だったのだ。四人の中で一番高身長のジーンより、頭一つか二つ分大きい。しかも背は弧を描くように曲がっており、実際の背丈はもっと上であることが分かる。
骨には腐臭のする肉片がところどころ張り付いていて、頭部には黒い頭髪が僅かに残っている。胸部に穴の空いた金属製の鎧に、ブーツ。まるで迷宮戦士の装備だ。
手には何かを引き摺っている。不格好で、長くて、太いもの。その正体に気づいた時、ディーノは込み上げてくる嘔吐感と必死で戦った。
死体。人や魔物の死体だ。それらをいくつも繋ぎ、持ち歩いているのだ。関節のある死体をどうやって繋いでいるのかは、考えたくもない。
大骸骨が引き摺る死体も迷宮が作り出したものなんじゃないかと、ディーノは一瞬期待した。だが、フォルスの言葉があっさりとそれを否定する。
「ありゃあ本物だな。迷宮が死体から魔力を抜き取った後の、残り物だ。人間の方は、あのデカイ生骸骨の生前の仲間かもしれんなぁ」
「葬ってやろう」
淡々と言い、ジーンは剣を抜く。その双眸が映しているのは、敵以外の何物でもない。
ディーノはごくりと唾を飲んだ。
聞いたことがある。死んだ人間に血肉を持つ前の魔物が取り憑き、仮初の生を与えると。生前の強さに加えて魔物が本来持つ強さを併せ持った結果、その脅威度は最低でも一体でベテラン戦士十人分に匹敵する。
見た目のグロさと相まって、迷宮で遭遇したくない魔物にいつも名の挙がる、色んな意味での強敵だ。
ディーノは知らないが、グラムウェル迷宮ではアンデッド系の魔物が発生しやすい。強い人間を取り込んだ更に強力な魔物の存在――それが迷宮の難易度を高めているのだ。
大骸骨が重い足取りで突進してくる。そのスピードは大したことない。しかし一歩が大きく、開いていた距離は見る間に縮んでいく。
対するジーンは、足を前後に開いて腰を落とし、両手で握る剣を斜め後ろに構える。横薙ぎにするつもりだ。それができるだけの広さはある。
(でも、隙が大きいんじゃ……)
あれほど大きく構えていたら、振り抜いた剣を引き戻すにも時間がかかる。それに、間合いを測り損ねたら一大事だ。
(あっ。そうか。だから仲間がいるんだ)
一人でしか戦ったことのないディーノには、すぐに思いつかなかった戦法だ。味方の隙は仲間がフォローする。なんてことはない、自然の成り行き。
が。
その考えは正しく、間違ってもいた。
大骸骨が間合いに入るよりも早く、ジーンは大剣を振り抜いた。
「え?」と思う暇もなく――
ゴオォッ!
剣筋から強風が放たれ、大骸骨を鎧ごと粉々に打ち砕きながら吹き飛ばす。
両側の壁にビシビシと大きな亀裂が横走り、一部は上下がズレて通路に倒れた。
地面も剥がされ、まるで重力などないかのように宙へと浮き上がる。
その全てが、ジーンが放った剣の一振りに巻き込まれ、遠く前方の壁に激突する。その衝撃で、更に天井か何かが崩れる音がした。
「………………なに、これ。魔法?」
ディーノの困惑した声がぽつんと落ちる。
目の前に広がるのは、ズタズタに引き裂かれた見るも無残な迷宮通路。どうやったらたった一振りで、しかも触れもせずにこんな惨状が引き起こせるのか。熟練の戦士は人の域を超えた強さを持つとは聞くが、その一端を初めて目にしたディーノの困惑は尽きることがない。
すぐそばで交わされる会話も耳に入らなかった。
「おう、気をつけろ。壁を壊したら罰金だぞ」
「すまない。手加減したのだが」
「まったく。余計な魔力を使わせるな」
「重ね重ねすまない」
フォルスはぶつぶつと文句を言いながら、壁に手を添える。すると、瞬きする間に壁も床も修復され、惨劇の証拠は瓦礫の山と、既に動きを止めた魔物の死体のみとなった。ついでとばかりに、ディーノの肩も治ってしまう。
すぐ傍で宮廷魔道士が泡吹いて倒れるような現象が起きているのだが、ディーノは呆然としており気づかない。
ぽん、と肩に手を置かれ、ようやく我に返ったのだった。
アイーダが気遣わしげに見下ろし、
「大丈夫? ぼーっとしてたけど」
「は、はい。大丈夫……です。でも、びっくりしてしまって。あの、ジーンさんて、強い……ですよね?」
言いながら、間が抜けているにも程がある発言だと恥ずかしくなる。幸い、アイーダはそこには言及しなかった。
「まぁね。うちのクラン最強格の一人だし。これくらいは朝飯前よ。本気出したらこんなもんじゃ済まないからねー」
「え?」
今、恐ろしい言葉を聞いた気がする。
最強格「の一人」ということは、ジーンに匹敵する強さの人間が他にもいるということか。
こんな人が何人もいたら、迷宮は今頃穴だらけなんじゃなかろうか。
一体〈千年氷柱〉とはどんなクランなんだろうと、自分は関係ないにもかかわらず戦慄するディーノだった。