5. 地下1階のハプニング
「1階で躓いた? わははは、面白い冗談だな。え? 嘘じゃない? 本当? …………。えーっと、で、今日は何しにうちのクランへ?」
「困るんだよなぁ、お前みたいな初心者。絶えないんだよ。王都に迷宮があるって話だけ聞いて、田舎から出てくる馬鹿。どんなとこかも知らないでさ」
「無理だって。うん。無理。見れば分かるよ。無理だから」
「舐めてんじゃねぇぞ、クソガキ。てめぇみてぇなお花畑はもぐらの餌になって死んじまえ」
脳内を駆け巡る、辛辣な言葉の数々。それらは厳しいが、事実だ。
特にもぐら。
もぐらだ。
とにかく、
「もぐらあああ!!」
翼の生えた神々しいもぐらが、群れでディーノを追いかけ回していた。
ゼェッハァッと切るような呼吸を繰り返しながら、ディーノは走る。ひた走る。体力が保たないとか、全力はキツイとか、考える余裕が一切ない。
走らなければ、やられる……!
翼の生えたもぐら、その名も土竜妖精は、浅い階層に出現する魔物の中ではそれなりの実力者だ。
小さい、群れる、飛ぶ、もぐる。もぐらだから。
一体だけでも戦闘スタイルによっては強敵となるのに、それが十体ほどで襲いかかってくる。ディーノにとっては脅威と言う他ない。
仲間がいてきちんと分業して戦えば短時間で多くの討伐数を稼ぐチャンスなのだが、悲しいことにディーノはソロだ。そこに関しては、自分で選んだリスクなのだから文句が言えるはずもない。そもそも言う相手がいない。
一応案内所ではソロと思しき人に声をかけてみたのだが、生憎1階踏破を目的とする人はみつからなかった。当然である。
地下1階でこれほどの難敵に出会うのは、グラムウェル迷宮が高難易度だから――というだけではない。
魔物は上ってくるのだ。
探索者が迷宮の下を目指すように、魔物も地上を目指して上ってくる。
そして、探索者の多くは魔導昇降機で10階より下からスタートする。最悪、本来なら9階付近で遭遇するような敵に1階で出会ってしまうことも有り得る。
「痛っ」
突然、左腕に痛みが走り、思わず立ち止まりそうになった。痛みを堪え、懸命に足を動かす。ちらりと見ると、服の上腕部分が破れている。フェアリー・モールの爪が引っかかったのだ。これならかすり傷程度だろう。フェアリー・モールは毒は持っていない。
ブォン、という音が背後に迫るのを感じ、反射的に右手にした剣で力任せに薙ぎ払う。鈍い衝撃と同時にべちゃりと液体が撥ね、もぐらの体が二つに分かれた。
「ひ……っ」
初めて魔物を倒した感動や不快さに浸る暇もない。
一瞬縮まってしまった距離を取り返すべく、今度は走ることに集中する。
そうして何分ほど走っただろうか。行き止まりの壁に鼻と額をぶつけて停止したディーノは、床に転がり荒い息を繰り返すのだった。
「ハァ、ハァ、ハァ――」
フェアリー・モールは追ってこない。撒いたか、諦めたか。ディーノを殺すのに罠を張るまでもないし、待ち伏せはないだろう――と、思いたい。
薄く目を開いたディーノの目に、魔導灯の橙色の炎が揺れる。蓄魔器を利用した魔力の明かりだ。
炎そっくりのそれを見つめていると、昂ぶっていた気持ちが次第に落ち着いてきた。
よっこらせと上体を起こすと、ポケットから折り畳んだ地図を取り出して地面に広げる。
数分かけて辿ってきた道を思い出し、今いる地点に見当をつけた。
「階段は……よし、近い」
階段までのルートを頭に叩き込んできたのが功を奏したのか、逃げている間も正解に近い道を無意識に選んでいた。
長く休んではいられない。
剣についた血を手拭いで適当に拭い、鞘に納める。もぐらに引っかかれたところを確かめてみると、細い三本の線が平行に走っていた。やはりかすり傷で、血はもう止まっている。この程度なら水で洗っておけばいいだろう。
最後にパンっと両手で頬を張り、気合を入れた。
「ふーっ」
本来なら、魔物は倒しながら進むべきだ。魔物を倒して得られる魔力こそが、迷宮探索の主たる目的なのだから。
けれど、目下の目的は別。
1階をクリアし、無事地上に戻ること。
これは意地だ。多くの戦士に馬鹿にされ続けたディーノの。
1階を踏破したからと言って彼らを見返せるわけではないけれど。少なくとも、自分の気は晴れる。
各階の階段には、1階の入り口にあった結界装置の劣化版が設けられている。迷宮通行証を持ってそこをくぐれば、ディーノが1階を正規にクリアした証となる。
以前潜ったときは、壁のように押し寄せるダスティ・スライムに恐れをなして逃げ出した。その地点はとうに過ぎているけれど、油断はできない。念のため、今回は食料品店で塩を仕入れてきた。ダスティ・スライムにはこれがよく効くらしい。……なんでかは知らないけど。
ともかく、だ。
「さあ、行くぞ」
行き止まりを丁字路まで引き返し、そっと顔を出して左右を確認する。地図によれば、階段へ行くには左が近道だ。
「右よし。左よ……」
し、と言いかけて、硬直する。
左側の通路には、道幅いっぱい、真横一列にズラリと土竜妖精が並んでいた。まるで軍隊か何かのように。不意にそのうちの一匹と目が合った、ような気がした。
「…………」
数秒の沈黙の後、もぐらが一斉にぶわりと浮かぶ。
ディーノは弾かれたように右の通路へ走り出した。
「なんでもぐらが整列してるんだよおお!!」
ばっさばっさと、無駄に純白な翼が空気をうち、器用に迷宮内を飛翔する。先程その速度から逃げられたのは、曲がり角で差をつけていたからに過ぎない。
だが、今ディーノが走っているのは、運の悪いことに長い直線通路だ。
――追いつかれる!
いちかばちかの応戦を覚悟した、その時だった。
かくんと、膝が折れた。
いや、違う。
体が沈み込んでいるのだ。
脆く崩れ落ちる地面と一緒に。
「嘘だろおお!?」
あたふたと手を動かして無事な地面を掴もうとする。しかしあと一歩及ばず、ディーノの体は階下に吸い込まれていく。
反射的に上に首を伸ばした時、崩れた地面の縁から顔を覗かせるもぐらの姿が見えた。飛べる奴らなら、ディーノを追いかけてきてもおかしくない。けれど、なぜかもぐらたちは静観している。
なぜと言えば、どうして床が崩れたりしたのか。壁が壊せるのだから床や天井に穴が空いたっておかしくはない。でも、なんで? 何が原因で?
もぐらに見送られながら、一瞬の浮遊の中でディーノは気づいた。
(そうか。もぐらのせいだ。もぐらが地中に穴を空けたんだ)
それは、暗闇の中の一筋の閃き。
(もぐらは、もぐるんだ……)
気づいたところで、あんまり意味はなかった。
そして肩から地面に着地する。
「あだっ!」
――ぴちゃん。
「いっつつつ……。あー、酷い。なんか酷い」
二度目の迷宮探索で床を踏み抜いて落下とか、悪霊が憑いているとしか思えない。
これが迷宮の恐ろしさか……と、結構余裕のあることを考えながら、ディーノは痛む体を押して立ち上がる。
やはりもぐらは下りてこない。しかし近くにはいるようだ。
天井はディーノの背丈の倍ほどあり、どうあがいても届かない。剣を地面に突いた反動で跳べばどうかと一瞬考えたが、そんな運動神経はないと気づくのも一瞬だった。
「階段を探すしかないな……」
――ぴちゃん。
「?」
上を見上げていたディーノの耳に、どこからか澄んだ音が聞こえる。
魔導灯に照らされた周囲を見回してみると、土色の大地が瑞々しい草花に覆われている一画があった。
誘われるようにしてそちらへ進むと。
「うわ」
草花に守られていたのは、青白く光る幻想的な泉だった。大きさは大人が優に三十人は入れるくらいだろうか。かなり広い。水面にこぽこぽと気泡が立っては弾けを繰り返している。奥の方に太いパイプが刺さっていて、上の階へと伸びているのが見えた。
「もしかして、これが『無窮の泉』?」
無限に湧く清水の源泉。
王都民の生命線だが、立ち入りは禁止されていないのか。天井から落ちてきたことで、結界をスルーしてしまったのかもしれないが。
ディーノはしばし泉に見入った。
迷宮の中とは思えないほど安らぎに満ちた場所だ。水のおかげか、空気も澄んでいる。いっそ腰を下ろしてしまいたい衝動に駆られるが、なんとか堪え、ガサゴソと地図を広げる。
「えっと。落ちちゃったから、今度は1階に上らなきゃな。階段は……。嘘。遠い……」
壁が阻んでいるせいで、遠回りするしかないルートだった。
悄然として青ざめる。絶望を叩きつけられたような気分だった。
1階の敵にも苦労したのに、来た時以上の距離を歩かなければならないなんて。運が悪ければ、土竜妖精より強い敵と戦うことだって有り得る。
「……それがなんだってんだよ」
ギリ、と奥歯を噛みしめる。
覚悟したはずだろ。
決めただろ。
死ぬまで戦うんだって。
父さんも母さんも、理不尽な目にあって死んだ。姉さんだって、きっと今もどこかで苦しんでる。
腐った貴族のせいで、大切な家族はバラバラだ。
悲しい? 悲しいさ。身が引き裂かれるくらいに。
だけどそれ以上に怒りが込み上げてくる。
憎き代官一家に。弱い自分に。何も変わらない現状に。
あの背中が遠いんだ。でも、少しでも近づきたいんだ。
「やってやるさ。死ぬまで戦うために、生きて帰ってやる」
豪然と目を据えて、泉を後にした。
地図は正確だが、魔物の位置までは教えてくれない。周囲の気配を探るスキルも、迷宮探索には必須の技能だ。
足音や息遣い、かすかな異臭などを頼りに、敵より先に相手の姿を捉える。不意は打てなくても、いることが分かっているだけでも戦闘は楽になる。
ディーノは何度か敵を倒した。時には怪我をし、ギリギリの攻防もあったが。息切れを起こしながら、歯を食いしばって耐えた。
相手が全て単体だったのは運がよかった。むしろ、1階で土竜妖精やダスティ・スライムの壁に遭遇したのがツイてなかったのだろう。まさか1階よりも2階の方がスムーズに進めるとは思わず、何度目かの小休止の後、彼はつい本音を漏らした。
「もしかして、おれに足りないのは運と根性だったのでは……」
技量はもちろんだけど、そのどちらも大切な要素だ。
そう思い知らされたのは、後少しで階段というところでのことだった。