16. 天罰
「消えてしまいたい」
その一言を発した瞬間、雰囲気が変わった。
冷たい闇が一層冷たく。暗い空気が一層暗く。
化け物の棲み家に足を踏み入れてしまったかのような重苦しさが、ズシリとのしかかる。
コトリは顔を伏せたまま目を見開いた。
全身が、金縛りにあったみたいに動けない。
だが、魔法をかけられたわけではない。ただ強い威圧感に押し潰されようとしているだけだ。
その時になって初めて、女神を本当に怒らせてしまったのだと悟ったが、もう遅い。放った言葉は返らず、また返すつもりもない。
「こちらを見なさい」
今度は体が勝手に動いた。眷属は女神の命令に逆らえない。たとえ、命令とは真逆の意思を持っていたとしても。
暗闇の中、エルプトラの双眸だけが、燦然と虹色の輝きを放っていた。自由な創造を意味するその光が、今のコトリには罪人を処断する刃の輝きに見える。
コトリは芯から震えた。いざ罰せられるとなると、不覚にも怖気づいてしまう。しかし、不思議と後悔は湧かなかった。
女神を怒らせてしまったかもしれないが、もしかすると、それこそが望みだったのかもしれない。
二十年間、己以外に自分を罰してくれる者はいなかった。何よりも苦しかったのがそのことだ。
だけど、これでやっと……。
「……愚かな子。そんなに罰が欲しいなら与えましょう。それが優しさというもの。ただし、償いが終わらない限り、あたしからあなたに干渉することはないと思いなさい。……もう好きにすればいいわ」
言い終えると同時、虹色の光が女神から放たれた。焼け付くような眩しさが、暗闇に慣れたコトリの視野を奪う。暴風が吹き荒れ、吸い寄せられるように体が前へ飛び出す。抵抗する暇もない。コトリは歯を強く噛み、体を丸めて耐えていた。
(吸い込まれる!)
窓から宙に投げ出されるような浮遊感。
気づけば、耳のすぐ近くで風が唸っていた。ゴォォォと、低い唸り声が間断なく続いている。大きな渦潮に呑み込まれるみたいに、為す術もなく小さな体は煽られる。煽られながら、堕ちていく。
薄っすらと開いた瞼の間に見えたのは、晴れ晴れとした青い眺めだった。
思わず目を見開き、息を詰まらせる。
女神の言った通り、とてもキレイな空だ。
真っ白な雲海に、傾いた太陽。
恋しさに胸がきゅっと締まる。
(懐かしい――)
どうやら雲の上を、真っ逆さまに落下しているらしい。
翼を広げようと体が動くが、助かりたいと思ったわけではなく、長年染み付いた無意識の行動だった。
しかし、結果を言えば、翼は開かなかった。
体の感覚がいつもと違う。落ちているからか、思うように力が出ない。
ほんの少し戸惑ったが、すぐに諦めた。
瞼を閉じ、全身から力を抜く。眷属に死はないが、今の自分なら死ぬだろうという確信がなぜかある。
もしも死が自分の犯した罪に相応しい罰なら、受け入れる覚悟は決まっている。
(プーケにも……ガーツにも……ゴノムにも……。会えるかな……)
最後に一人ひとりの顔を思い浮かべ、そっと目を閉じて――。
どのくらいの時間を落ちているのか分からない。それほど長くはないだろう。不思議と意識は鮮明なままで、風の抵抗も感じない。それどころか、何か温かいものに包まれているみたいで心地が良い。
――何か妙だ。
いつまで経っても衝撃が来ない。そろそろ地面に激突していてもおかしくないのに。
ハッとして両目を開けると、そこには思いがけない人物の顔があった。
黒い髪に黒い瞳、幼さの中にも鋭さのある顔立ち。最後に見た時と変わらない姿なのに、なぜか随分と大きくなったような錯覚がある。
びっくりして声も出せないでいると、フォルスは短く息を吐きだして言った。
「間に合ったか。意識はあるようじゃな」
「…………」
(どうして、兄様がここに? 空の真ん中を落ちていたはずなのに)
「何もおかしいことはないぞ。ほれ見ろ、四方八方空ばかり。地上はまだまだ下の下だ。落ちていくお前をわしが受け止めた、ただそれだけのこと」
(だから、どうしてわたしの居場所が分かったの? ずっと寝てたんじゃなかったの?)
「女神に脅されたのだ。コトリの命が惜しくば今すぐ起きろ、と。で、経緯を視て、駆けつけた」
「…………」
色々な意味で言葉が出なかった。
女神に起こされてからコトリを救出するまで、一体何秒で終わらせたのか。どう考えても時間が足りない。兄に時を止める能力などあっただろうか。なかったはずだ……と思う。
しかしそんなことよりも、コトリの息を呑ませたのは、女神がフォルスをけしかけたことだった。
(母様がわたしを助けようとしてくれた……?)
消えたいと願ったコトリに、女神はチャンスを与えたはずだった。それは嘘ではない。もしフォルスが間に合わなければ、コトリは地面に叩きつけられていただろう。
だが女神は、自分が与えたチャンスをわざわざ潰すようなことをした。寝ていたフォルスを叩き起こし、コトリを助けるよう誘導した。彼女を死なせたくなかったからではないだろうか。
「当たり前じゃろ。お前、見放されたと思ったのか?」
「…………!」
コトリの心に、後悔と、ぐっと込み上げてくるものがあった。それは小さな胸を詰まらせ、目の奥を熱くする。涙を堪えるように兄の胸に顔を押し付ければ、あろうことか彼はコトリの首根っこを掴まえて、目の高さまで持ち上げた。
キョトンとする彼女に、眦を吊り上げた兄の叱責が飛ぶ。
「まったく、お前というやつは! 一番厄介なやつを怒らせおって。あの構いたがりに干渉しないとまで言わせたらしいな? 言っておくが、あいつの頑固さは折り紙付きだぞ。しかもやたらとプライドが高いから、発言を撤回することはまずないと思え。第一、『消えたい』などと、一番女神の前で言ってはならん台詞だ。あいつは執着心が強いからな。気に入ったモノが自分から離れるのは絶対に許さんのだ。こら、聞いておるのか、コトリ?」
はじめは大人しく――というか呆気にとられて聞いていたコトリだが、次第にむくむくと怒りが沸いてきた。
なぜ、今まで蚊帳の外も同然だったフォルスにいきなり叱られなければならないのだ? みんなが大変だった時に、兄は寝ていただけではないか! 確かに自分の言動は考えなしだったかもしれないが、責任を放棄した兄に文句を言われる筋合いはない!
そんな心の叫びはフォルスに筒抜けだったようで、彼は不機嫌そうに眉を跳ね上げ鼻を鳴らす。
「ああ? 寝ていたくせにだと? 何もしなかったくせにだとー? ――はんっ。それがどうした。兄にそんな理屈は通用せんぞ! 兄だからな!」
横暴だ!
「にゃあーん!」
――――!?
自分の口から出た猫の鳴き声に、コトリは目をまん丸にして固まる。数秒間、じっと動かずに思考もそのまま停止していた。
ぎぎぎ、と関節を軋ませ、首を回す。
黒い毛に覆われた、小さくて丸っこい足が目に映った。
「み゛ゃっ!?」
驚いた瞬間、指の間から爪が飛び出る。
なんじゃこりゃ!?
と、フォルスの手の中で大暴れ。小さな体が左右に触れるたび、ぶらんぶらんと揺れるしっぽの感覚に絶望感が襲ってくる。
そんなコトリの有り様に、フォルスは呆れて眉をひそめた。
「なんじゃ。気づいておらんかったのか。今のお前は、ちっぽけで貧弱で貧相で無力なただの獣だ。心臓が止まれば死ぬ。ここから落ちたら一溜まりもないぞ。ええい、暴れるなっつっとるんじゃ。落ち着け!」
一喝されて暴れるのを止めたものの、目は見開き心臓はバクバクと早打っている。
なんで? いつから? 喋れないのはそのせい?
これが罰? どういうこと?
と、内心汗を掻きつつ混乱する本人とは真逆に、フォルスは至って冷静である。
「まるっきり獣になってしまったわけではない。封印、いや、呪いじゃな。解く方法なぁ。ちょっと見ただけでは分からんな。女神も干渉しないと言った以上、簡単には教えてくれんだろうし。ま、解けない呪いをかけるはずもない。のんびり探せば、いつか見つかるじゃろ」
そう言って、ぽいっと頭の上に乗せる。放り投げられたコトリは咄嗟にしがみつき、その時になってようやく思考が現実に追いついた。
猫。それも子猫になってしまった……。魔力もなけなし程度しか残っていない。試しに風を起こそうとしてみるが、そよ風すら生じない。どうやら、使える魔法も制限されているみたいだ。
「みぃ……」
「大丈夫大丈夫、落としはせん。さて、まずはどこから見て回るかなー。二十年前とはかなり様子が違っておるようじゃ。美味しいものあるかなー」
フォルスの関心はすでに食と観光に移っている。
キョロキョロと周囲を見回すたびに、コトリは頭から振り落とされそうになる。落としはしないと言った傍から、頭の上の存在を忘れているようである。腹が立ったので、無言で爪を出す。するとフォルスは、「ぎゃあ!」と悲鳴をあげて目に涙を浮かべた。
「やめんかいっ。振り落とすぞ! ぬああ、痛い痛い、地味に痛い!」
知るかと言わんばかりに、コトリはますます爪を突き立てる。と言っても所詮は子猫の爪、傷は浅いのだが、フォルスは堪らずコトリをべりっと剥がすと、乱暴に懐へ押し込んだ。
「まったく、お前、見た目だけでなく性格もだいぶ変わったな?」
懐から顔だけ出したコトリは、ふんっと小さく鼻息を立てる。
ぞんざいに扱うからいけないのだ。言葉が話せない以上、真っ当な抗議である。
……そんな心の声を、隠しもせずに垂れ流すのだった。
以前は真っ白だったが、今は真っ黒な後頭部を見下ろして、フォルスはほんの少しだけ物思いに耽る。
二十年前、彼女の身に何があったのか、彼でさえも完全には把握できていない。巨大な黒い影――おそらく、それが北大陸に現れたという大型の魔物なのだろう――の存在が邪魔をして、大陸全土が雲の中にあるみたいにあやふやなのだ。他の中央大陸や西大陸では、そんなことは起きないのに。それだけ巨大魔物の力が絶大ということだろう。
しかし、ある瞬間を境に雲が晴れ、鮮明な光景が現れる。
そこでは氷漬けになった天地と、一人の巨人族に縋って泣きじゃくるコトリの姿があった。それで経緯を察することはできた。
けれど、胸中は別だ。能力で心は読めないし、感情を肩代わりすることもできない。
できることと言えば、話を聞いてあげることくらいだろうか。けれど今の彼女を見るに、素直に話してくれそうもない。かと言って放っておくと、どんどん荒みかねないし……。最初から、放っておくという選択肢はないのだが。
「ま、あれだな。すまんかった。お前が一番大変なときに、そばにいてやれなくて」
フォルスはコトリの毬藻のような頭をぽんぽんと叩き、さらりと伝えた。
コトリの耳がぴくりと反応するのに気づかないふりをしながら、遠い水平線に目を細める。
「せっかく、女神とマグナらがお誂え向きの場を整えてくれたのだ。我らは我らで反抗しようじゃないか」
「…………?」
「そうだ。強い人間を育てる。一代限りの強さではなく、種として強くする。不可能だと? そうだな。普通は死んだらそこまで。生きている間に積んだ経験も力も、死んだ瞬間に霧散する。次世代へは受け継がれない。それに種に手を加えるということは、女神の顰蹙を買いかねない行為でもある。だが……」
掌の上に、雪が降り積もるように、蒼く透き通った氷の花が形成されていく。いくつもの花弁が重なった丸い姿。魔力が満ち溢れた、愛らしくも力強い光。
コトリは目を丸く見開いてそれを凝視した。何なのかは分からなかったが。蒼い花には、不思議と魅入ってしまう引力がある。似たようなものを見たことはあるが、それとはまた違うようだ。
「気になるか? ふふふ、まだ内緒じゃ。今のわしでは大したこともできんが、いずれ大きな力を育ててみせるさ。コトリ、お前は傍で見ておれ。どうせ一人では生きていけまい」
断るつもりはなかった。今のコトリには、何かをする気力も意志も湧かない。ならば、フォルスのしようとしていることを見届けるのも悪くない。
どちらが北かも分からない空の真ん中で、コトリは雲を見上げた。
あまりにも多くのものが過ぎ去ってしまった。今となっては、喜びも悲しみも無窮の空に吸い込まれてしまったみたいに、何も感じない。女神にかけられた呪いのせいなのか、真っ白な赤子にでも戻ったかのようだ。
しかし、確かに過去は存在していた。彼女はそれを覚えている。無数の思い出が、いつか朝の光のようにキラキラと輝く日が訪れるのか――。
コトリはそれ以上考えるのをやめ、そっと琥珀色の目を閉じた。
――ぴちゃん、ぴちゃん。
深海のような静けさの中に、水滴の撥ねる音が響く。
長い間そこで膝を抱えていた少女は、もはや影も形もない。
誰もいないはずの洞窟の片隅に、銀色の髪を濡らしたもう一人の少女が立ち尽くしている。
冷たい床を見下ろしたまま。
「なんで一人で勝手に決めるの。なんで一人で行こうとするの。なんで……」
何度も何度も、怨嗟のごとき呟きが、小さな唇を歪ませる。
固く握った拳から、ポタポタと血が滴る。ギリッと噛み締めた奥歯も同様に傷つき、鉄の味が舌に広がった。
こんなにも好きなのに、置いて行かれた。
コトリのためなら、大陸の一つや二つ、滅ぼしたってよかったのに。その覚悟はあったのだ。
なのに、憎いマグナが邪魔をした。あいつが妹たちをけしかけたせいで、ラーナはコトリの下へ駆けつけることができなかった。結果、コトリは力を暴走させる羽目になってしまった。
人間が何千人死のうとなんとも思わないが、コトリにとって巨人族は友達だ。それを自らの手で死なせるよりも、自分が手を下した方がはるかにマシだったろう。
自分がついていれば、あの子を悲しませるようなことはなかったのに。
「マグナのせいで……っ」
だけど、それだけじゃない。
他でもない、コトリまでもが自分を裏切ったのだ。
この二十年、ラーナは何度もココを訪問しようとした。しかし、そのたびに強い拒絶を感じて引き返さざるを得なかった。
コトリが一人でいる間、ラーナも一人だった。
どれだけ悶々として過ごしたことか。
どうして会ってくれないのか。どうして頼ってくれないのか。何があっても、自分だけはコトリの味方なのに。
答えの出ない疑問に何度も悩み迷ったけれど、それでもいつかまた心を開いてくれるだろうと思って、その時を待っていた。
だというのに。
「一人で罰を受けた。ボクを置いて行った。忘れていたんだ。ボクのことなんか。あんなに一緒にいたのに……!」
暗闇に二つの赤い光が灯る。
真っ直ぐ前を睨みつける顔を染めるのは、憎悪の色。
「あんな子、大嫌い」
度し難い親愛の情が一線を越え、憎しみへと変化した瞬間だった。




