13. 睥睨するもの
――北大陸東部、巨人族の岩山。
切り立った崖が帯状に、まるでカーテンのように連なっている。更に崖の上にも崖が重なる。そうした岩山が群れのように複雑に絡まり、巨大な迷路を作り上げたのだ。
ここが巨人族の棲み家。そして防壁である。
岩山には、巨人でも身を隠せるほどの大きな裂け目が所々にある。
その一つの前に立ち、ゴノムは震える足を叱咤していた。
手には伐採用の斧。使い慣れた仕事道具を、今は身を守るための武器として用いている。一緒にいる仲間たちも、丸太や石臼などを手に、緊張した面持ちで辺りを見張っている。
ここが正念場だ。
震える右手にもう片方の手を添え、ぎゅっと強く握りしめる。けれど震えは収まらない。ますます酷くなるばかりだった。
「オイラがやらなくちゃ……みんなを守らなくっちゃ……」
祈るように繰り返す。
守らなくちゃ、と。
彼らが守る裂け目の奥には、巨人族の子供たちが隠れている。裂け目の中は上から見ることができない。最後の砦なのだ。
だから、絶対にここを死守しなければならない。仲間に託されたのだ。他の仲間たちは、別の裂け目を守ったり、敵の侵攻を抑えたりしている。
ゴノムだけではない。誰もが恐怖に耐え、勇気を奮い立たせなければならなかった。
コウモリに似た恐ろしい生き物は、里の皆がこれからのことを話し合っていた最中に襲ってきた。
最初の襲撃で何人もの仲間が殺され、まだ小さな子供はどこかへ攫われていった。きっと連れて行かれた先で食べられるのだろう。可哀相だが、もう命はあるまい。
いくら臆病な巨人族と言えど、さすがに命に関わるとなれば必死になる。怯えたままでは、自分も仲間も死んでしまうのだ。ついに彼らが戦う時がやってきた。
空を舞うコウモリ相手に、巨人たちは奮戦した。本気を出せば天人族や火蛇族とも張り合える実力を、遺憾なく発揮したのだ。
今も少し離れた広場で、大勢の仲間がコウモリ相手に奮闘している。たまにこちらに向かってくる敵は、斧や丸太で叩き落とした。
足元でピクピクと痙攣するコウモリを視界に入れないように、ゴノムは空を見上げる。その隣で、不安に駆られた仲間たちがヒソヒソと話をしていた。
「ねぇ。あいつら、なんだと思う? 生き物だよね?」
「女神様が創った生き物なら、なんでボクたちを襲うんだろう」
「女神様、オイラたちがいらなくなったのかな。だから殺そうとしてるのかな」
「そんなまさか!」
声が少し大きくなり、中にいる子供たちに聞こえたらどうするのだと、ゴノムはちょっと怒りを感じた。しかし、私語を止めようとはしない。彼にも気持ちは分かるからだ。
共有した不安は、少しだけ軽くなる。だから分かち合いたくなる。本当は、分け合うなら楽しいことの方がいい。しかし現実を見れば、そうも言っていられない。
さっきから天には巨大な雷雲が渦を巻いていて、縄張り一帯の空を覆い尽くしている。ただの天候の変化だと思いつつも、雲に見張られている気がしてならない。ゾクゾクとした寒気が、体の内側にまで侵入してくる。
「コトリ、大丈夫かなぁ」
こんな空で飛ぶのは困難だろうと、ゴノムは白い小鳥の姿を思い浮かべる。
コトリがやってくるのは、いつも空からだ。雨も時も関係なく、いつだって空の主であるかのように飛んでくる。
だが、そんなコトリであっても、この天気は敵に回るに違いない。必ずまた会おうと約束したけれど、少なくとも今日は無理そうだ。
「……大丈夫だよね。あのマグナって人がついてるし」
コトリから偉い人物だと聞いていたが、実際に会ってみると見た目は案外普通だった。少年なのか少女なのか分からない点以外は。
けれど、マグナが一緒ならば大丈夫だろうという安心感がある。ほんの数回言葉を交わしただけだが、不思議とそう思えるのだ。なぜだろう。こちらを見つめる目が、コトリと同じように優しかったからだろうか。
妖精族を助けると言い出したコトリを止めたのは、彼女の身が心配だったからではない。
心配だったのは、心だ。
助けると言って、もしも手遅れだったら?
もしもコトリが、プーケたちの遺体を見てしまったら?
もしかしたら彼女の心が壊れてしまうのではないかと、途轍もない不安に襲われたのだ。
幸いと言っていいのか、コトリの心はギリギリ無事だった。
けれど、ある意味もっと恐ろしいものを見てしまった気がする。鮫のような化け物と対峙した時の氷のように冷たい横顔は、普段の彼女から想像できるものではなかった。優しさも感情も凍りつき、まるで別人のようで――。
その時初めて、気付いたのだ。
コトリの優しさは、ガラス細工のようなものなのだと。少し力を加えただけで、粉々に砕け散ってしまうほど脆い。
安定した土台に立っている時は良い。その繊細な美しさは、見る者の心をも和ませる。しかし、一旦土台が崩れてしまったら――。落ちていくガラス細工を止める術はない。
やがて、夜が明けた。
頭上は相変わらずの黒雲だが、東の空から、突き刺すような光が差し込んでくる。ずっと心許ない松明だけを頼りにしていたせいか、それとも生物の本能なのか、ゴノムは太陽の光を見て深く安堵した。
まだ夜の支配が残っているとは言え、とにかく朝が来たのだ。
これで助かる、とわけもなく思った。
冷静に考えれば、朝になったからと言って敵襲が止むわけではない。彼は感覚的に、里を襲った生き物とプーケたちを殺した生き物が同類であることを察知していたが、得体の知れない生き物であることは変わらない。夜に襲ってきたからと言って、そしてコウモリの姿をしているからと言って、夜行性だと決めつける理由がどこにあるだろうか。
しかし、たとえ根拠のない願望に過ぎないとしても、希望に縋りたかったのだろう。
か細い光に手を伸ばして――直後、その手は払いのけられた。
「ねぇ、なんだか空がおかしいよ」
片脇に丸太を抱えた仲間が、もう片方の手で空を指差す。それを合図に、他の者たちも上を見上げた。
昨夜からずっと、空には雷雲が渦巻いている。
ふと、気づいた。
――どうしてあの雲は移動しないんだ?
東の空は太陽に照らされている。つまり、あちらに雲はないということだ。
自分たちの頭上にだけ、どうして巨大雲がある?
まるで囚人が逃げないよう監視するみたいに……。
「ね、ねぇ。気のせいかな。渦の真ん中から、何かが出てくるよ?」
渦の中心はポッカリと空洞になっている。その中は絶えず稲光が走り、まさに嵐といった風が吹き荒れていた。
そこから、何か黒いものが下へと伸びてくる。
最初は竜巻かと思った。
しかし、竜巻にしては大人しい。見た目はのっぺりとしていて、長い筒、いや首のように見える。
「まさか……」
生暖かい、厭な風が、ビュウゥと口笛のような音を出しながら肌に纏わりつく。それなのに、体は芯から冷えている。
ぴくりとも動けなかった。何か、途轍もなく大きな存在に見られている気がしてならない。全身が金縛りにあったように強張り、指一本でも動かそうものなら、酷く後悔しそうな予感がした。
「兄ちゃんたち……」
「あっ!? 出てきちゃ駄目だって、言っただろう! 早く中に戻るんだ」
振り返ったゴノムは、びっくりして声を荒らげた。
岩の中の部屋にいても不吉な気配を察したのか、巨人族の子供が不安げに顔を覗かせていたのだ。それも一人だけではなく、何人も。
ゴノムは彼らを押し戻そうとしたが、子供たちは何故かぽかんと空を見上げて動かない。皆一様に言葉を失い、小刻みに口を震わせる。
その様子にただならぬ気配を感じたゴノムも、ピタリと動きを止めた。
今度こそ確信があった。
見られている。
何か。
途轍もなく大きくて、悍ましい存在に。
背中を、見られている。
体中の神経が、ぴんと張り詰める。
振り返ってはならないと、脳が激しく警鐘を鳴らす。それなのに、意思に反して体は動く。ぎこちなく、錆びついた蝶番のように節々を軋ませ、ゆっくりと後ろを振り返ると――。
目が合った。
空に、巨大な目玉が浮かんでいた。
大きすぎて、遥か上空にあるにもかかわらず細部まではっきりと見て取れる。
黄色味の強い虹彩には斑模様が混じり、瞳孔は蛇のように細い。瞼はなく、ただひとつ目玉だけがギョロリと剥き出しでそこにある。瞳孔の奥で舌なめずりをされているような生々しさが肌を擦り、下から寒気が這い上がってきた。
「……っ、きゃあああああ!!」
「うわあああ!」
一人の悲鳴を皮切りに、次々と子供たちの叫び声があがった。
皆、恐怖に耐えきれず、弾かれたように走り出す。
「もうやだ! 助けて、お父さん! お母さあん!」
「あっ、待って……みんな、待つんだ!」
静止の声と伸ばした手も虚しく、子供たちは広場の方へと向かって逃げていく。その奥に出口への道があるのだ。だが、そこへ到達するには戦いの続く広場を通らなければならない。
即席の巨人戦士たちは傾れ込んできた子供たちに仰天し、一気に混乱が広がった。
同じ頃、雷鳴が空に轟く。稲光が蜘蛛の巣のように駆け抜ける。その下ではけたたましい絶叫があがるも、混乱による騒音に掻き消される。
「待つんだ、子供たち! 外は危ないから、早く中に隠れるんだ!」
「やだぁ! どこも怖いよぉ!」
「雷が人に落ちたぞ!」
「コウモリがまた増えてる! 助けてくれぇ!」
空が光るたび、人が減る。コウモリに食われて、人が減る。もはや戦っていられる状況ではなく、ゴノム以外の巨人たちは皆逃げ回った。
一条の雷光が岩山を砕き、何人もの巨人が岩盤の下敷きになっても、一際大きなコウモリが泣き叫ぶ子供たちを掴んで飛び去っても、どこかで血飛沫が上がっても、恐怖以外の感情が動くことはなかった。
ゴノムだけが、膝を突き呆然としていた。そんな彼を、目玉が嘲笑うように覗き込む。
「どうして、こんな酷いことが……。なんで? なんでですか、神様?」
この世の全ては、神が創り給うたと云う。なら、人間を襲う怪物たちもまた、神の創造物ではないのか。この襲撃は必然なのか。神が自分たちを滅ぼそうとしているのか。抗っても無意味なのか。
「……死にたくない」
悲鳴が少なくなってきた。立っている仲間も、もう数えるほどしかいない。終わりが近づいているのが嫌でも分かる。
だけど、まだ死ぬべきじゃない。コトリとの約束を果たすまでは。もう一度必ず彼女は会いに来るから、その時自分がここにいなければ大陸中を探す羽目になってしまう。だから、今コウモリの餌になってはいけないのだ。
大挙して押し寄せてくるコウモリの群れに対して、ゴノムは猛然と斧を振るった。飛び散る血も骨が砕ける音も、意識に入っているのに届かない。がむしゃらに斧を振って、振って、振り抜く。
周囲には次々とコウモリの死体が積み重なっていくが、ゴノムも無傷とは行かない。体が大きいだけに敵の攻撃を避けにくく、至るところに食いつかれた。
遂に、体中血まみれで膝を突く。息が上がり、体力の限界だ。そんな彼にもコウモリは容赦なく牙を立てる。だが、悲鳴を上げる余力もなかった。
これが最後の一頭。
力の入らない左腕を持ち上げ、コウモリの頭を鷲掴みにする。そして、自分の肉ごと引き剥がすと、渾身の力で大地に叩きつけた。
ヒュウヒュウと空気の溢れる音が、喉の奥から漏れ出る。
(オイラ、死ぬのかな……。幻聴が聞こえる……)
今はもう懐かしい少女の笑い声。光に溢れた優しい世界で、キラキラと光を反射するガラス細工が見える。あの光の中にずっといられたらどんなに良かっただろうと思うけれど、もはや望めない未来だ。自分にとっても、コトリにとっても。
最後の力を振り絞り、立ち上がる。ふらつく体をなんとか両足で支える。
もう歩かなくていい。走らなくていいんだ。
ただ一度だけ、反抗の意思を示すのだ。
自分が死ねば、コトリが悲しむ。だけど死はもう避けられない。だから、せめてもの抵抗として、この斧で奴に一矢報いるのだ。
右腕を振りかぶる。折れた牙が食い込んだままだが、関係ない。
雷鳴が大蛇のように空を舐め尽くす中、ゴノムはあらん限りの力で斧を投擲した。周囲の風を巻き込みながら、それは一条の螺旋となり空へ駆け昇る。
巨大目玉は雲の高さだ。普通に考えれば、当たるはずがない。だが、巨人族の膂力とゴノムの強靭な意思が合わさった結果、斧は巨大目玉の中央に限りなく近付いた。
あともう少し――。
しかし、到達する直前、斧は急速に弧を描いて落下をはじめる。
「ああ……」
落胆するゴノムの双眸に、身動ぎ一つしない巨大目玉の姿が焼き付く。
(笑ってる……)
彼は確かに見た。
口のない目玉が、ニヤリとほくそ笑むのを。
その直後、眩い光がカッと空を一面染め上げた。
同時に爆音と爆風が四方八方から吹き荒れて、ゴノムは為す術なく地面を転がった。転がりながら、激しい衝撃が側頭部に走り、意識と聴覚が遠のく。全身が痛いと言うよりは冷たく、まるで氷の中に閉じ込められてしまったかのようだった。
――……ノム…………ゴノム…………。
(コトリ……?)
声が聞こえた気がして、重い瞼を持ち上げようと睫毛を震わせる。けれど、どうしても力が入らず、ほんの僅かしか開かない。
(白い……雪? いや、氷の世界みたいだ……)
いつの間にか黒雲は晴れ、朝の光に照らされて世界がキラキラと輝いている。音もなく温もりもなく、ただ光だけが溢れた、美しくも寂しい世界。
その真ん中に、彼女がいた。彼の気を引きたい時にそうしていたように、頬をぐにぐにと押している。
ぽたぽたと何かが頬に当たる。温かいような、熱いような。その他では寒さ以外何も感じないのに、何かが当たった部分にだけ、じんわりと熱が染み込んでくる。
目の前では、コトリが泣きながら必死に何かを叫んでいた。だけど声が聞こえない。こんなにすぐ近くにいるのに。まるで、透明の膜で住む世界を遮られているみたいだ。
(そっか……コトリが、あの目玉を倒してくれたんだ。だから雲が晴れたんだな。やっぱり凄いなぁ)
他の仲間は無事だろうか。一人でも多く生き残っているといいんだけど。
自分はもう無理だ。たくさん血を流したし、体が冷え切っている。手も足も動かない。ほとんど死んだようなものだ。
こんなギリギリのタイミングで再会できるなんて、奇跡だろうか。
そう、奇跡に違いない。今まで真面目に生きてきたから、運が回ってきたんだ。
約束を守れてよかった。
君に会えて本当によかった。
できれば、泣き顔よりも笑顔を見たかったけれど。
「コトリ……その力を恐れないで。きっといつか、君が必要になる時が来る……。だから――」
ちゃんと言えたかどうかは分からなかったが、コトリははっとして叫ぶのを止めた。瞳の縁で涙が滑る。朝露のようだ、とゴノムは思った。それを最後に、意識は昏い闇の底へと落ちていった。
地獄と言うには美しく、天国と言うには凄惨な光景。
陽の光を受けてキラキラと煌めくのは、とても小さな氷の欠片。涙のようでもあり、砕け散ったガラス細工のようでもある。それは降り積もることなく、風に吹かれて延々と空を巡り続ける。
遠目には、風と氷が巨大なドームを形成しているように見える。何人たりとも内には入れず、触れようとする者を切り刻む結界だ。
拒絶されているのは、外側に住む者たちか。それとも、内側にいる者たちか。
ドームの中央には、天と地を結ぶ氷の柱がそびえ立つ。下は一面氷の大地。柱が繋ぐ空の先では、山よりも巨大で不気味な怪物が、のめり込むような姿勢で氷の天井に閉ざされている。
生きているのか、死んでいるのか分からない。もし再び動き出すのだとしたら、後の世で"五百年級"と呼ばれることが確実の"魔物"である。
そして――柱の下に広がる氷山には、何百何千の巨人たちが、死したまま囚われているのだった。




