2. 〈千年氷柱〉
数十分後、トラムは南西の停車駅へ着いた。順番を待って降車し、歩きながら町並みを見回す。
うるさいくらい賑やかな中心部と違って、ここは落ち着いた雰囲気だ。店も人もさっきより少ない。小さな子供たちがきゃーきゃーと楽しそうに追いかけっ子しているのを見て、「平和なんだな」とぼんやり思う。
バスケットに花が飾られているのはここも同じだ。大きな樽の上の花びらを一枚ちぎって口に運ぶお爺さんに「えっ」と二度見する。傍らの若いお嬢さんが「おじいちゃん、お昼はもう食べたでしょ」と言っているのを聞き、まだ明るいのに闇を感じた。
人の好さそうなおばさんに道を尋ねると、すぐそこだよと指を差して教えてくれた。
そして辿り着いた先には――。
薄茶のレンガ塀に、蔦の巻き付いたシックな門構え。持ち手を握ると、あっさり開く。
敷地はかなり広い。この付近では一番大きな建物ではないかと思う。
名も知らない小さな青い花が咲いているロータリーを抜けて、玄関先から建物を見上げる。
二階建ての古い屋敷。凹凸のある白い壁に鎧戸のついた出窓。黒に近い灰色の切妻屋根。段差の先にある玄関扉はしっかりとした作りなのに重厚さを感じさせず、まるで洒落たレストランのような趣きだ。
そして、ここにもやはりハンギングバスケット。ロータリーに咲いているのと同じ種類の花が、青や赤、紫や白など、バランス良く配置されている。よく見ればバスケットも可愛らしい。蔓のような装飾が上下を飾り、吊り下げる金具へと続いている。それがいくつも。
華やか、かつ落ち着いた雰囲気。
自然と感嘆の息が漏れる。
「うわぁ……」
ここが本当にクランの拠点?
今まで面接に行ったクランは、ここまで外観に拘ってはいなかった気がする。少なくとも庭に花は咲いてなかった。というか、庭がなかった。たぶん敷地面積のせいだろうけど。戦闘が暮らしの大半を占めていると、それ以外がシンプルになりがちなのだろう。そういう意味では、〈千年氷柱〉も条件は変わらないはずだが。
生活感がすごい。クランの拠点というより、家という感じがする。
なんだかドキドキしてきた。見た目に感動したせいで、引っ込んでいた緊張がつられて表に出てきたようだ。まあ、暗い顔を初対面の人に見せるのもどうかと思うし、好都合だと捉えよう。
高鳴る胸を抑えて、玄関へ続く段差に足をかける。
その時だった。
「っざけてんじゃねぇぞ! クソ爺ィッ!!」
殴りつけるような男の怒声がしたと思ったら、ディーノの頭上を掠めて、何かが物凄い勢いで飛んでいった。
ザッ! ガン! ガン! ゴーン……という、最後は物寂しい音で、それは遥か後方に落ちる。たぶん地面に何度か跳ね返った後、門に当たって止まったのだ。
振り返って確かめるまでもなく、それは玄関の扉だった。
なぜなら、目をまん丸に見開いたディーノの前で、縦に長い四角の穴がぽっかりと空いていたからである。その向こうでは燃えるような赤髪の長身の青年が、扉を蹴り飛ばしたと思しき足を下げ、ディーノよりも小柄な老人の首を片手で締め上げているところだった。
「何度言わせりゃ分かるんだよ、この耄碌爺が!」
老人の襟首を掴んだままガクガクと前後に揺らすたびに、ディーノは「え、ちょ、え?」と手を空に彷徨わせる。
青年の顔は完全に怒りに染まっていて、自力で収まる様子がない。
誰かこの人を止める人はいないのかと救いを求めて周囲に視線を這わせていると、青年は老人を床に放り出し、手にしたスープ皿を突き出して怒鳴った。
「ニンジンは嫌いだっつってんだろうが! 二度と俺のシチューに入れるんじゃねぇ! 次やったらその自慢の白ひげトマトで染めんぞ! 分かったか!」
え、ええぇ……?
もしや幻聴を聞いたかと己の耳を疑うディーノの視界で、白ひげの老人はパンパンと服を叩きながら立ち上がる。その様は、たった今締め上げられていた老人とは思えないほど冷静だ。
「ふんっ。なんじゃ、トカゲっ子風情が。いくら腕っぷしが強くても、偏食が多けりゃ話にならんわ。卵に戻って出直せい。目玉焼きにして食ってやる」
「ああ゛? 今俺を侮辱したか? 輪切りにしてステーキにすんぞ豆粒爺」
「ふぁっふぁ。生憎と儂は骨と皮だけでな。肉が食べたけりゃ焼いてやるぞ。ニンジンソースをたっぷりかけてな」
バリンと甲高い音を立てて、皿の破片と残ったシチューが床に飛び散る。赤髪の青年が叩きつけたのだ。
野性味溢れる顔立ちが、どす黒い怒りのオーラに染まっていた。
「上等だコラァ! すり潰した唐辛子をそのデカッ鼻に突っ込んでやるわゴルアァ!」
「はん! マッチに火を点けるしか脳のない若造が、生意気を言いよるわ! 儂のすりこ木ですりこ木返してやるわアホンダラ!」
ディーノは唖然として傍観するしかない。恐怖よりも戸惑いが強い。何がなんだか意味が分からない。どうしようもない。
(……えっ!?)
一瞬自分が何をしに来たのか忘れた彼を現実に引き戻したのは、すっと音もなく現れた銀髪の男性だった。赤髪の彼よりも年上だろうか。咄嗟に見上げた顔は無表情で、びっくりするほど美しい。思わずたじろいでしまった程だ。彼は吹き飛ばされた重い扉を、片腕一本で抱えていた。
そんな大きな荷物を抱えているのに、すぐ脇を通って視界に映るまで、ディーノは男の接近にまったく気づかなかった。
〈千年氷柱〉の人だろうか。だとしたら、このやるせない争いを仲裁するつもりなのかもしれない。
そう思って黙ってみつめていたのだが、ちょっと風向きがおかしい。
銀髪の男は扉を元の場所に立てかけると、どこからかトンカチを取り出し、扉を直し始めたのだ。
とんとんとん、と小気味よい音が怒声に混じって鳴り響く。明らかに慣れた手つきで、男は順調に仕上げていく。最後に何度か小さく開閉して出来栄えを確かめると、満足したようにひとつ頷いた。
ガチャリ。
と開かれた先にいたのは、先程の青年と老人――ではなく、怒っていた彼よりはおとなしめの赤髪を緩く編んだ大柄な女性。褐色の肌を惜しみなく晒す彼女は、こちら――というより、銀髪の男に向かって笑いかけた。
「あ、おかえりジーン。二つ名付きのロード・ウルフどうだった?」
「百体程度の群れだ。大したことはなかった」
「あはは。ま、そうだよねー。あんたを苦戦させたいんなら、その十倍は連れてこないとね」
若い女は明るい笑い声を立てながら、己の尻に敷いた物体を、手にした斧のような槍のような得物でぐりぐりと抉る。そのたびにカエルが潰れたような奇妙な声が下から上がってくるが、女性もジーンと呼ばれた銀髪の男性も、まったく気にした様子がない。
よく見れば、女が座っているのは先程怒鳴っていた青年の上だ。白ひげの爺さんもすぐそばに倒れてピクピクしている。
喧嘩両成敗、という言葉が頭に浮かんだ。
「ところでアイーダ。この見慣れぬ子供は誰だ?」
「ん? あたしは知らない」
突然自分のことを話題に出されて慌てふためき、ディーノはこちらを見つめる二人の人物へ姿勢を正した。
しなやかな筋肉がついた褐色の肌。20代前半くらいの、健康的な美しさを持つ女性。紅葉のような柔らかそうな赤い髪に、大きめの橙色の瞳。改めて観察して気づいたが、左右の耳の上辺りに、髪に埋もれて小さな黒い角が生えている。鬼族の血を引いている証だ。
喧嘩を仲裁(?)した得物はハルバードか。なぜか、大柄な彼女が嬉々として振り回している姿が目に浮かぶ。
男性の方は、冷たい美形という表現がしっくりくる。銀を溶かしたような細い髪と氷のような青い瞳に加えて、感情の窺えない淡白な表情。年齢は分からないが、赤髪の青年や女性よりは上だろう。背に負った長大な剣は、彼の戦闘スタイルを何も言わずとも語っているようである。
女性はアイーダ、男性はジーンという名前らしい。クラン〈千年氷柱〉のメンバーであることは間違いない。
ここに来て初めて、クラン名以外の情報をほとんど持たないことに焦りを感じるディーノだった。気持ちに余裕がなかったとはいえ、情報収集くらいはするべきだった。黒ひげに聞けばもう少し詳しく教えてくれたかもしれないのに。
だが、後悔しても遅いのだ。単にクランに入れてくださいと頼んで終わるんじゃなく、ちゃんと認めてもらわなければならない。でなければ、夢はここで潰えるのだから。
「え、えっと、あの、おれ、その……!」
「ま、ま。立ち話もなんだから、中に入りなよ。お茶出すよ。じいちゃーん! お客さんだよー! マカじいー! あれ? いないのかな」
アイーダはよく通る声で屋敷の奥に向かって叫ぶ。
ジーンは床に視線を落とし、淡々と言った。
「アイーダ。マカロフならそこで寝ている」
「え? あ、ほんとだ。あたしがやったんだった。忘れてた。わはは」
「布団をかけてやれ。風邪を引くぞ」
そういう問題かな、とディーノは内心首を傾げる。しかしジーンは至って大真面目だ。冗談を言っている気配はない。
そういうものか、と無理やり自分を納得させている間に、ジーンは大部屋を通って別の扉を潜って行った。
残ったのはディーノとアイーダ……と、気絶した二人。意識がある方の二名は気まずそうに顔を見合わせ、どちらからともなく苦笑いした。
「あ、あはは。悪いね。いきなり騒がせちゃって。びっくりしたでしょ」
「は、はい。かなり……」
「ま、ま。気にしないでよ。ここではいつものことだからさ」
言い訳でもなんでもなく、本当のことのようである。この濃い十分間は、それを悟るには充分な密度だった。
アイーダは長い足で青年と老人の体を隅に蹴りやり、気を取り直すようにパンっと両手を叩いた。
「んじゃま、さっきのは見なかったということで。ようこそ、魔物討伐クラン〈千年氷柱〉へ! ドラゴンだろうがベヘモスだろうが、うちにかかりゃあイチコロだよ! 一騎当千、万夫不当! トラン王国の最強用心棒たぁ、あたしらのことさっ!」
大きな胸をばーんと反らし、両手は腰へ。小さな牙を覗かせ、自信たっぷりに言い放たれた勇ましい謳い文句に。
ディーノは、あまりの場違いさで目が眩むような心地がした。