1. 空のない街
【あらすじ】
迷宮戦士になることを目指して田舎から上京してきた少年ディーノは、王都名物グラムウェル迷宮の難易度の前に、夢を諦めかけていた。
そんな折、とある魔物討伐クランの噂を聞き、仲間に加えてもらうようダメ元で訪ねてみることにするのだが……。
第一話 少年戦士の水晶花
勇世歴1000年 6月
フリギア大陸の覇者、西部一帯を支配するトラン王国。その王都グラムウェルについて、かつてこんな噂を聞いたことがある。かつてと言っても、田舎から上京する際に乗った乗合馬車でのことだから、たった一ヶ月ほど前に過ぎないのだが。
――曰く、「グラムウェルには空がない」と。
そんな馬鹿な、とか、本当に? とか、まともな言語を返せれば良かったのだけど、ディーノの反応と言えば、
「ふえええ?」
という、なんとも情けない一声だった。
聞かされた噂が嘘か本当かを疑うアタマもなく、鵜呑みにしたに過ぎない。話し手からすれば、これほど驚かせやすい相手もなかっただろう。
そうして話し手の心を掴んだディーノは王都にまつわる「噂話」を聞かされるのだが、その全てが役に立ったかというとそうでもない。むしろ彼の期待を煽るだけ煽って、後に落胆させるための小道具にしかならなかったように思う。
語られたのは、迷宮に挑んだ戦士たちの華々しい活躍。真面目だけど不遇な少年が仲間と共に成長し、やがて強大な魔物を退治したことで王様に認められる成功物語。
いわゆる英雄と呼ばれる人たち。
子供が英雄に憧れるのは、世の常である。
だからこそ、彼はディーノにその話をしたのだろう。あるいは、ディーノが王都へ向かう目的を察していたのかもしれない。見るからに貧乏くさい旅装に身を包んだ子供が一人で上京する理由なんて、仕事探しか食い扶持減らしくらいしかないのだから。
その推察は惜しい線を行っている。
ディーノは、まさに彼が話して聞かせた、迷宮探索者を目指して上京中なのだった。
過去の戦士の英雄譚は、ディーノに希望を抱かせた。もちろん身の程は知っていたつもりだ。剣を握ったこともない自分が、物語の主人公になれるわけがない。畑仕事で身についた体力は、ここ数年の食糧不足ですっかり落ちてしまった。
だけど。
束の間見た夢が不安を拭い去り、勇気をくれた。
だから。
頑張ろうと、そう改めて決意した。
――はずだった。
「うーん。迷宮一階で躓いてるようじゃ、うちでは雇えないかなぁ」
炭鉱で働いていそうな筋肉質の男は、黒い顎ヒゲを撫でながら難しい顔で言った。見た目はいかついヤクザ顔だが、話してみると意外に物腰の柔らかい男だ。今の返答だって、「お前戦士に向いてないよ。頑張るだけ無駄」とバッサリ切り捨てられた前回の面接に比べたら優しい。すごく優しい。それだけでもう涙が出てくる。
「え。ちょ、なんで泣いてんの」
「す、すみません……。人の優しさが心に沁みて……」
「どんだけ荒んだ生活送ってきたのよ、きみ。純朴そうなのに。うーん。個人的には応援してあげたいけど、入団希望者はどのクランもいっぱい抱えてるからなぁ」
「そうですよね……」
ディーノは消え入りそうな声で答える。存在までもが消えてしまいそうな姿に、黒ひげの顔が一層憐れみを帯びた。
もさっとしたキャメル色の髪にブルーの目。優しいと言うより気弱そうな少年。それがディーノだ。年は15歳。年の割に体格が小さく、そのことが一層儚げな印象に拍車をかけている。
とは言え、同情だけでクランには入られないのも事実。
王都が抱える迷宮は難易度が高いことで有名だ。攻略クランと呼ばれる、迷宮探索専門クランは実力者揃い。黒ひげの所属する〈黄金の果実〉は規模も実力も中堅だが、それでも最低ラインというものがある。ディーノはそのラインを超えていない。入団を認めるわけにはいかないのだ。剣を持ったのも初めてというド新人とくれば、なおさらである。
「一昔前はねぇ、きみみたいな何も知らない子を騙して甘い汁を吸う悪い奴らがゾロゾロいたんだよ。今もいないわけじゃない。そんな奴らに今まで引っかからなかったのは幸運だったねぇ。えっと、ここ何件目だって言ったっけ?」
「四十四件目です……」
「わーお」
王都にあるほとんどのクランを制覇する勢いだ。
「迷宮案内所でリストを教えてもらいまして……上から順に」
「勇者だねぇ。あ、今の嫌味じゃないよ。ごめんね、気に障ったら」
「いえ……。文句言えないんで……」
「…………」
暗い。もはや魂が死んでいる。目を凝らしたら少年の背後に死神か貧乏神の類が見えるんじゃないかと思う黒ひげだったが、はっと我に返るとガリガリと頭を掻き毟った。
「田舎から上京――経験なし、才能なし、金もなし」
どこで間違えたかと言えば、王都を目指したことだろうか。もっと難易度の低い迷宮であれば、たとえ初心者であっても――才能がなくても――どこかのパーティに入れたかもしれない。実力は育てて身につけるものだし、最初で挫けなければ夢を見ることのできる世界だ。
だが、少年は最初の一歩で思いっきり躓いてしまった。これを挽回するのは、今の王都ではハンバーグを挽き肉に戻すことより難しく思える。
今の王都で求められているのは、即戦力だ。
十年ほど前に魔導昇降機が開発されて以来、グラムウェル迷宮の探索は飛躍的に進んだ。現在の最深到達階は69階、地図は50階まで完成している。エレベータで10階ごとに降りることができるため、1階付近をウロウロしているような初心者は必要ないのだ。
ちなみに、最深部が何階なのかは分かっていない。世界的にも全踏破されている迷宮はほとんどなく、一番深いので20階層と小規模ばかり。しかし、いずれも最深部では強力な魔物の出現が認められている。
最低でも70階層のグラムウェル迷宮ともなれば、一体どんな凶悪な魔物が出てくるのか――という懸念を抱く者は一定数いて、迷宮探索を進めることに否定的な人たちだ。
それはさておき。
少年は大手クランに入団を希望したということだが、断られて当然だ。ああいうところほど奥へ進みたがるものなのだから。
「うちも無理だね。申し訳ないけど」
「はい……」
「きみのために言うんだけど、諦めた方がいいよ。迷宮探索は命に関わる職業だからね。それってきみが危険なだけじゃなくって、周りの人にも責任がのしかかるんだよ。自分のせいで他人が傷つくの、嫌なタイプでしょ? きみ」
その言葉に、ディーノはハッとして顔を上げた。黒ひげの顔をまともに見たのは、これが初めてだった。今までずっと肩を落とし、自然と視線も下を向いていたから。
君のために言うんだけど、から始まる否定の言葉は、今まで何度も面接の最後に言われたセリフだ。そこには断定と共に蔑みの響きが含まれていて、その通りだと頭が認める一方で、無意識に反発心を抱いていた。
おれにだってできる。まだ若いんだ、やれる。仲間さえいれば、きっと。
黒ひげの一言は、そんなディーノの甘えた心を打ち砕いた。
仲間は都合のいい道具じゃない。互いに互いの命運を握る、信頼が形となったものだ。
果たして自分は、そんな風に誰かを見たことがあるだろうか。
――ない。
王都に来てからも、来る前も。
実力以前に、心構えの段階で、自分は弱かったのだ。
「ま、王都じゃ仕事はいくらでもあるからさ。高望みしなければ、だけど。資金を貯めて故郷に帰りなよ。家出したなら謝ってさ」
「…………。はい」
青ざめてしまったディーノを見下ろし、黒ひげは静かに溜息をつく。彼の目には、少年が完全に心折れたように見えただろう。それほど憔悴しきった姿だった。来た時と比べてもそう見えるのだから、余っ程だ。
彼は彼なりに、覚悟を決めてここへ来たのだろう。黒ひげも夢を抱いて田舎を飛び出した口だから、気持ちは分かる。全く同じだとは言わないが。
少年のためにドアを開けてやりながら、黒ひげは最後の情けとばかりに声をかけた。
「無駄だとは思うんだけど」
ディーノは絶望しきった顔でゆるゆると振り返る。男が自分のために口を開いたのが分かったのだろう。
「街の南西に、〈千年氷柱〉ってクランの拠点がある。迷宮探索じゃなくて魔物討伐専門の方だけど、もし、万が一王都できみが入れるところがあるとしたら、たぶんそこだけだよ。可能性はなくもない……かもしれない。ダメ元で行ってみるといい」
「せんねん……つらら?」
「うん。ホントにダメ元だからね? ホントのホントだからね? いい? あんま期待しないでね? 奇跡に縋るようなものなんだからね?」
しつこいくらいに駄目押しをする黒ひげに、ディーノはきょとんと返した。
それから一番近い路面魔導車乗り場の場所と、何番に乗ればいいかを教えてもらい、そのクランを後にした。
買い物帰りの主婦や地元の老人で満員のトラムに揺られながら、ディーノは四角くくり抜いただけの窓から空を見上げる。
王都グラムウェルには空がない。
そんな話を誰かに聞いたっけ。ああ、そうだ。故郷を出て初めて乗った乗合馬車の中でだ。目の細い、親切そうなお兄さんにいろんなことを教えてもらったのだと思い出す。
グラムウェルに空がないというのは嘘だ。誇張と言うべきか。
確かに、故郷の農村と比べれば圧倒的に空が狭い。
広大な高台の崖っぷちに建てられたこの古都は、優れた建築技術を持っている。
地面はほとんど石畳。大きな通りや広場の周りには、四階建てや五階建ての石造りの建物がずらりと立ち並ぶ。その様は綺麗だと感じる反面、圧迫感をも覚えるものだ。それが大袈裟に伝わって、空がないなどという突拍子のない噂となったのだろう。
歩道にはオシャレなデザインの街灯が並んで、夜も明るい。地面に生える緑は少ないけれど、その代わり街の至る所にハンギングバスケットが飾られている。この土地の習わしらしい。色とりどり、種々雑多な花々が、グラムウェルの町並みを一年中艶やかに彩っているのだ。
言うまでもなく人は多い。王都で生まれ育った者だけでなく、国中から、あるいは国境を超えて人が訪れる。グラムウェル迷宮を中心として。
そして、人が集まれば物も集まる。
今まで味わったことがない食べ物。どうやって使うのかも分からない魔導道具類。目が眩むほどたくさんの本。うず高く積まれたガラクタの山。防具や武器を売る店も、両の手では足りないほどたくさん開かれている。
他にも、上等な絹や安物の布切れで縫われた服や帽子、キラキラと光を反射するガラス細工、高価な薬類。実家では自分たちで編んでいた籠ですら、ここでは立派な売り物だ。
人々の暮らしも全然違う。
水は川まで汲みに行かなくていいし、火を熾すのも魔導道具を使って一瞬だ。
路面魔導車など、王都に来て初めて存在を知ったくらいである。一体どういう原理で動いているのか、さっぱり分からない。
トラン王国民として、これほど誇らしい街はない。たとえ自分がその街の一員になれなくても、だ。
(〈千年氷柱〉、か。どんなクランなんだろう)
詳しい所在地は道行く人に尋ねればいいと言われたが、それだけだ。魔物討伐専門ということ以外は何も情報がない。
クラン名を迷宮案内所のリストで見た覚えがないのは、迷宮探索を目的としていないからだろう。
迷宮に潜るのに、専門のクランに所属しなければならないという決まりはない。現にディーノもソロで潜った。……1階で逃げ帰ってきたけれど。
迷宮探索クランと魔物討伐クランの最も大きな違いは、迷宮ギルドに加盟しているかいないかだ。前者はしている。後者はしていない。だからリストに載っていなかったのだろう。
ディーノはそのクランを訪ねてみるつもりだった。男に言われたダメ元で、という勧めもある。しかしそれ以上に、行動しなければ気持ちが凍りついてしまいそうだったからだ。
どうしても諦めきれない自分がいるのだ。
ギリギリまで足掻いて――と思ってしまう自分に、ディーノは自嘲の笑みを零した。