11. 墓地公園前の暴走
ディーノたちが去って数分後の墓地公園前。
騒動が収まり、落ち着きを取り戻していた。
買い物かごを手に談笑する主婦たち、本を広げて読む老人、木版に向かって何やらガリガリと描いている青年。
思い思いに昼までの時間を過ごす人たちの中へ、公園内から一人の背の高い男が顎を擦りつつ出てくる。
「あーくっそ痛ぇ。あの鬼女、思いっきりやりやがって」
頭を揺さぶられた瞬間、不覚にも意識を失って今までおねんねしていたのだった。頑丈な体のおかげで、蹴られた顎以外には傷も痛みもない。いつの間に手放したのか、槍もない。いつも使っている愛用品とは別の対デアレッド戦用だから、なくなっても買い換えるだけなのだが。
ボヤく彼の表情からは、負けた悔しさなどはほとんど感じられなかった。
まったく悔しくないわけではない。むしろ、いつか必ず負かしてやると心の中では燃えたぎっている。
この静けさは、実力差を知っているがゆえの冷静さだ。
ジラルトとアイーダ。
年は22と24で、そんなに離れていない。こっちは龍人族、向こうは鬼族で、どちらも戦闘向きに偏った種族だ。ジラルトは幼い頃から鍛錬を欠かしたことがなく、対してアイーダは本格的な戦闘訓練を受けたことはないという。
なのに、この差。
先程は不意を打たれたが、そんなものがなくても彼はアイーダに手も足も出ない。瞬殺とまでは行かないまでも、まともに一撃与えられるかどうか。
さらに恐ろしいことに、彼女に流れる鬼の血は半分――もう半分はヒトという事実。
鬼族の血が濃く現れているのだとしても、純鬼族でない彼女に一方的に叩きのめされるというのは、最初の頃は屈辱でしかなかった。
当然だろう。
龍人族、特に炎龍をあるじと戴く火龍人族は、戦闘能力を重視する向きが強い。
そんな火龍人族の里で、ジラルトは将来が最も有望な若手と持て囃されてきた。それがまさか人族の治める国で初めての挫折を味わうことになろうとは、思いもしなかった。
アイーダだけじゃない。
〈千年氷柱〉の三強。バルヘルム、イオリ、そしてジーン。あの辺りにはまだ歯牙にもかけてもらえない。
他にも、人形使いシャムスの魔力量は下手すると魔法持ちに匹敵するほどだし、医療術士だとかワケの分からないクラスを自称するクロムだって、油断のならない能力を有している。
これらは全員ヒト族だ。最初に出会ったクランが〈千年氷柱〉だったせいか、もしかして最強の生物はヒトなのではと錯覚しそうになったくらいだ。その頃はまだ、イオリやシャムスなどはいなかったが。
そして我らがマスター。無害な子供のような姿をしていているが、中身はおそらくとんでもないシロモノだ。何年経っても年格好が変わらないだとか、尋常ではない魔導の才能だとか、そういった目に見える事象の話ではない。
他の皆は気づいているのだろうか。
フォルスが傍にいる時、ジラルトは常に背中にゾクゾクとする寒気を感じている。時には目の前に深い闇が広がっているように錯覚し、誰かに肩を叩かれてはっと我に返ることもある。
あの人が何かしているわけではない。脅しているのでも、敵意を発しているのでもない。ただそこにあるだけ。そこから、ジラルトが無意識に感じ取っているのだ。畏怖に近い恐怖を。
自分でさえそうなのだから、ジーンやアイーダが気付いていないはずがない。にもかかわらず、彼らからフォルスの素性に関する話などは一切聞いたことがなかった。
(別に知りたいとも思わねぇけど)
たとえ人外だろうと本物の悪魔だろうと、強くなる機会を与えてくれるなら、ありがたく利用させてもらうだけだ。
〈千年氷柱〉には、困難な依頼が多数舞い込む。強さに関してはそれなりだと自負する彼も、ギリギリの戦いを強いられることがたまにある。
そうでなければ困るのだ。
こちとら一番上を目指しているのだから。
「……よしっ。そんじゃま、気を取り直して行くとするか!」
気合と一緒に声を張り上げたジラルトに、何人かが思わず目を向けた。
それには構わず、左右に伸びる道を交互に見比べて、
「ヤツはトラムに乗ってたな。えーっと、次の行き先は確か……時計台だったか。よし、追いつける」
本気で走れば、十分もかからない距離だ。
ジラルトはぐっと拳を握ると、勝利を確信したかのように牙を見せて笑った。
所詮相手はニワトリもどき。そもそも飛ぶのが上手い鳥ではない上に、マカロフが可愛がっているせいかブクブクと太って、羽は派手なだけの飾りと化した。トラム程度の高さに飛び乗るのが限界だろう。
「ククク、待ってろよぉ、デアレッド。今日こそ焼き鳥にして食ってやんぜ」
ケケケと短く笑う姿は、人相の悪さと相まって完全に悪役のそれだった。蝙蝠の尻尾でも生えていれば完璧だ。
捕まえるのではなく、食うことしか頭にないのだった。
「ん?」
少しだけ尖った耳がピクリと動き、雰囲気の変化を察知した。人間の多い街中の変化はいつものことなので無視するところだが、今のは何か違う気がする。
常人よりも良い耳が捉えたのは物音。それと、悲鳴だ。
何だろうと不思議に思っていると、南側の広場が途切れたところから、ひどく慌てた様子の男性が転び出てきた。
男性は震えながらも声を張り上げて、たむろする人々に警告を飛ばした。
「たっ、大変だ! 奴らが、〈千年氷柱〉が攻めてきたぞーっ!!」
「あんだとぉ?」
「ぎゃー! ここにもいた!」
男性はジラルトの姿を見ると、失礼にも悲鳴を上げた。ペタンと尻餅をついて、地を這うがごとく後ずさる。
ジラルトの場合、悪い意味で街の人々には有名だ。〈千年氷柱〉は高い名声のせいか他の戦士から絡まれやすく、中でも彼は売られた喧嘩を数倍にして返すからである。幸いなことに一般人に被害を出したことはこれまでないが、毎度のごとく街を騒がせる人物の評判が上がるはずもなく、火龍人族のジラルトと言えば災禍の中心であると人々から認識されていた。
だが、今回の犯人は言うまでもなく彼ではない。何せ拠点を出てから今までずーっと、城壁に登ってデアレッドを探していたのだから。
「で? 俺たちが攻めてきたってどういうことだ?」
「そ、それは……」
責めるでもなく問い詰めるでもなく、単に疑問を口にしただけだが、脅されているとでも感じたのか青年は口籠る。
その様子にジラルトはもどかしさを覚えたが、答えは間もなく南の方角からやってきた。
「……おう?」
先程から「ドドド……」という地鳴りのような音が彼には聞こえていたのだが、加えてかすかな振動が足元から伝わってた。その頃には他の人々も異変を察知し、「なんだ?」「揺れてるぞ」と訝しげに言葉を交わしはじめた。
事情を知っているらしい青年が、「やばい!」と恐ろしげに叫びながら逃げ去る。その様を見てとりあえず離れ出す者が相次いだが、もちろんジラルトは留まった。
「今ここを離れたら、やべーもんから背中を見せて逃げ出したことになるだろ。んなわけに行くか」
ふんっと腕を組み、仁王立ちする。
ドドド、ドド、ドドド――
今や音と振動がはっきりと感じられ、茶色い土埃までもが視線の先で舞い踊るのが見えている。
その先頭を走る、三つの黒っぽい何か。
「なんだありゃ?」
「馬?」
「誰か乗ってるぞ」
「アブにでも刺されて暴走したか」
逃げずに残った野次馬たちが、口々に言い合う。
その中のひとりが、やや呆然とした表情でぽつりと零した。
「いや、あれは……」
馬よりも幅の広い巨体。下手すると小さな荷馬車くらいある。たてがみが黒い炎のように頭頂部を覆い、額からは二本のねじれた角が前へ突き出している。目は赤く釣り上がり、猛然と吐く鼻息が左右にぶおんっと風を生み出している。
「う、牛だーー!!」
そう。何あろう、王都から遠く離れた赤月岬に生息するはずの猛牛、赤月オーロックスだった。それが三頭、道幅を占拠する形でこちらへ向かって猛突進してくる。
野次馬が叫ぶより早く、人よりも優れた視力で黒点の正体を見抜いていたジラルトは、不敵にペロリと唇を舐めた。
「牛に乗ってる奴、クロムのおっさんじゃねーか。面白いものを手懐けたな」
たてがみに掴まったまま白目剥いて泡吹いている姿からはとても牛を手懐けているようには見えないので、皮肉にしか聞こえない。しかし、それを聞く者はすでに周りにいなかった。
誰もが牛の進路上から退避する中、迎え撃つジラルトは迷いすら見せない。
すっと右腕を真横へ伸ばす。すると、指先に赤い燐光が集まる。それらはすぐに一条の光となり、次の瞬間、彼の手の中には銀と赤の見事な槍が収まっていた。
それを無造作に一閃し、目の前の空気を両断する。と同時に、槍の穂先に炎が纏わりついた。
デアレッドを狙った時と同じだ。だが魔力で創られた槍はさらに効率よく、魔法の効果を高めている。
「へへっ。安心しろ、おっさんは燃やさねぇからさ」
気休めにもならないことを平然と言い。クロムだって聞こえているのか怪しいが。
ジラルトは地を蹴り、一気に間合いを詰めて先頭の牛――クロムが跨っている――と、瞬きの合間に交差した。
槍は牛を貫いたようにも、ギリギリで横腹を掠めたようにも見えた。
が、しかし。
クロムの体が宙へ投げ出される。気を失っているのか、受け身を取ろうともしない。彼の体は綺麗な放物線を描き、道端にドサッと落ちた。
一方――。
「――――!!」
一頭の赤月オーロックスを中心に見事な火炎の花が咲き、雄叫びとも悲鳴ともつかない断末魔の叫びが空に木霊した。
その声が途絶えるのとほぼ同時に、牛を包んでいた炎も消える。
残ったのは、黒焦げになった何か。辛うじて原型を留めているが、これが牛だとは言われなければ分からないだろう。当然のことながら、もはやピクリとも動かない。
しん……と辺りが静まり返った。生き残った二頭の牛も、あれほど暴れていたのが嘘のようにその場にしゃがみ込んでいる。逃げようとしていた人たちは、ジラルトを凝視したまま硬直していた。
と、そこへ。
「――お騒がせして申し訳ありません。皆様」
黒髪の、しゃんと背筋を張った女性が、涼やかな微笑みと共に現れた。いつからそこにいたのか。まるで虚空から現れたかのような唐突さに、小さなどよめきが湧く。
〈千年氷柱〉が戦士の一人、人形使いシャムスである。
長旅をしてきたにもかかわらず小綺麗なままの彼女は、呆気にとられる人々に向かって丁寧に一礼した。
「ですがこの通り、牛の暴走は我々の手により収束しました。皆様はどうかこのまま、普段通りにお過ごしください。もちろん、後片付けも我々がきっちり行います。これ以上、街の方々にご迷惑をおかけすることはございません。ですので、気遣いは一切不要です。よろしいですね?」
もう終わったことだから、雷霆騎士団には通報するなと。
一見非力そうな女性から無言の圧力をひしひしと感じた市民たちは、コクコクと頷くと逃げるように立ち去っていった。
その間、ジラルトはとんとんと槍の柄で肩を叩きつつ待っていた。道端にはクロムが転がったままである。相変わらず寝ているようだが、放っておけばそのうち目を覚ますだろう。まったく呑気なものだと溜め息をつく。
人々がいなくなり、こちらへ振り返ったシャムスが、今度はジラルトに向かって小さく頭を下げた。
「お手数をおかけしました。さすがに今回は助かりました」
「色々聞きたいことはあるけどよ、珍しいじゃねーか。あんたの手に負えない騒動なんて」
「わたくしも消耗しているのです。人形さんたちが、ほら、この通りですから」
言いながら、シャムスは己のベルトに下げた木彫りの人形たちを見せた。ほとんど、どこかしら破損している。頭、腕、上半身。無傷と言ってよいのは一体だけだ。
これほど酷い状態の人形を見たのは、ジラルトは初めてだった。詳しくないので分からないが、一からの作り直しが必要なのではないか。
この人形たちは、シャムスの魔術である|思念操作式あやつり人形の触媒だ。これがなければ、シャムスは人形を操れない。すなわち、戦うことができないのである。魔術主体の戦士としては致命的だ。それほどの強敵と戦ってきたということだろうか。
しかし、ジラルトはそれよりも彼女が抱えている白い包みの方が気になった。長さからして槍のようなものだと思うが、中身が見えないようにしっかりと縛ってあるので確かなことは言えない。
なんとなく懐かしい感じがする。同時に、触れてはならない気も。
彼は包みから視線を逸らし、シャムスに尋ねた。
「あの牛共、エルブラン領から乗ってきたのか」
「ええ。ああ見えて、道中は大人しいものでしたよ。最初、手懐けるのにちょっと梃子摺りましたが」
「やるねぇ」
シャムスは軽く握った拳を頬に当て、困り顔で首を傾げる。
「ですが、西門を通り過ぎた辺りで急に暴れだしてしまって。……センセイを乗せたまま」
「おおう、そりゃまた災難な」
「わたくしは丁度その時門番の方とお話をしていましたので、とにかく一直線に走って追いかけてきたのです」
「一直線にね」
彼女も戦士だ。近接戦闘は苦手といえど、身体能力は常人のそれを軽く凌駕する。屋根を飛び石代わりに駆けたなら、確かに地上を行くより速いだろう。
「ともあれ、なんとかなったんだからいいじゃねーか」
「それはそうなのですが……」
シャムスはまだどこか納得がいかない様子だったが、ジラルトはこれで一件落着とした。
じっ、と興味深そうな視線を真っ黒な牛たちに注ぐ。その視線に狩猟者の気配を感じ取ったのか、牛たちはギクッと身を強張らせた。
「仕方ねーから、こいつらをホームに運ぶか。爺って牛捌けるのか?」
「なんでも行けるでしょう」
「それもそうか」
「炎は使わないでくださいね」
「わーってるよ。あー、一体分損したなぁ」
牛たちにとっては残酷な会話を交わしつつ、二人はジリジリとにじり寄る。
――その後、二頭の牛を背中に積み上げて歩く龍人族の姿が目撃されることとなった。