9. フォルスと海龍
設定の変更に伴い、一部内容を書き換えました。
王都グラムウェルの南に広がる、紺青のラスール湖。海と見紛うほどに広大で、遥か遠くに見えるは地平線ではなく水平線。北に目をやれば、崖際に聳える城壁をかすかに望むことができる。さらに目が良ければ、王城トゥルマリナ城の尖塔にたなびく国旗の様子が見て取れるだろう。
この湖には、広いという他にもう一つ特徴がある。
魔物が出現しないのだ。
魔物というものは、基本的にどこにでも現れる。どこかの未発見迷宮から流れてくることもあれば、宮魔氾濫の討ち漏らしが生きていることもあるし、かつて隣の大陸を荒らし回った大型魔物などは、千年前の生き残りだったとも言われている。ちなみにその魔物は未だに討伐されておらず、行方不明だ。
だが、ラスール湖には一切の魔物が近寄らない。こんなに近くに迷宮があるにもかかわらず、だ。理由は不明なものの、魔物が出ないことを喜ばない理由もない。
そのラスール湖に、一艘の小舟がプカプカと浮かんでいた。
先に述べたように平和な湖だから、船を出すことは珍しくない。天候の悪い日でなければ、漁船なり裕福な行楽客を乗せたゴンドラなりが水面を走っているのがここの日常だ。
ただし、こんな湖のど真ん中を漂っていることは滅多にない。湖と言えど、運が悪ければ遭難しかねない広さなのだ。
小舟に乗っている、というか寝そべっているのは、誰あろうフォルスだった。魔物に襲われる心配はないとは言え、街の外とは思えないほどくつろいだ姿で、両手を頭の後ろで組みポカンと空を見上げている。
身にまとう衣服は全体的に黒っぽい。襟や袖には銀製の飾りが蔦のように縫い留められており、一見どこか裕福な家のお坊ちゃんかと思える。靴は一般的なものよりも厚底で頑丈になっており、本気で蹴られたら相当に痛そうである。
風は凪。水面はガラスのように滑らかで、キラキラと太陽光を反射している。空には鳥の姿もなく、白い雲がもくもくと形を変えていくのみ。
実に平和だ。
不意にフォルスが口を開いた。
「海龍か」
その呼びかけが合図になったかのように、青い湖面がヌッと盛り上がる。
ザザーッと飛沫を上げて顔を出したのは、象よりも大きなナマズだった。
灰色の表皮はぬらめいて、つるりと描いた曲線を水が流れ落ちる。丸い目はひょうきんなように見えて、どこか思慮深さを感じさせる。
これが海龍――海龍シーマイアがもつ姿のひとつだ。
フォルスは舟の縁から出した足をぶらぶらさせながら、海龍に問うた。
「お前から会いに来るとは珍しいな。何の用だ」
その問いに海龍は口を閉じたまま、どこからか声を出して応える。
『――珍しいとはどういう意味か。そなたから我に会いに来たことが、今までに一度でもあったか?』
「うん? なかったか?」
『――ない』
「そうかそうか。なかったか」
なぜか愉快そうに、フォルスはかかかと笑い飛ばす。それを海龍は胡乱な目で――とても分かりにくい表情だが――みつめていたが、やがて諦めて話を続けた。
『――今日は礼を言いに来た。そなたの子飼いの者が、我が眷属の霊を慰めてくれたことへの』
「誰のことだ?」
『――黒髪の若い女だ。人形を巧みに操っていた』
「シャムスか。あの二人が向かったのは赤月岬の近くだったかな」
『――繊細な魔力操作が見事であった』
「ふむ。部下が褒められて悪い気はせんな。というかお前の眷属、死んでいたのか」
『――群れが一つ、滅ぼされた。イビル・メロウに』
「ほう。奴が蘇っておったか」
上機嫌に揺れていた足がピタリと止まった。しかし、すぐにまた遊びはじめる。口元にほのかな笑みを刻んで。
「流転する魂。永久の業。魔物は本来血肉を持たぬ、存在しないはずの存在。ゆえに子を成さず、増えることがない。しかし一方で減ることもない。一度死しても、再び蘇る。それが奴らの原則。その流れを止めることは、もはや不可能だ」
『――女神でもか』
「女神でもだ。あの方は創ることしかできん。まあ、方法はあるがな。だが、やらん。奴らを滅ぼそうと思ったら、世界そのものを作り変えることになるからな。盤をひっくり返すのと同じ。一からのやり直しだ。それは最後の手段だろう」
『――では、救わぬか』
その瞬間、フォルスは声を立てて笑った。先程の愉しそうな声ではない。
失笑だ。
あまりの思い違いに、思わず吹き出してしまったという感じの。
「救いとは何だ? 人間たちの暮らしから、魔物の脅威を取り除くことか? 瀕死の者を癒やしてやることか? それとも生きる苦しみを断ってやることか。どれを取っても救いにはなるだろうよ。だが面白くはない。なんでも思いのままにできるがゆえに、自分では何もせぬのがあの御方だ」
『――だが、千年前は違った』
「千年前と言うと、勇者のことか」
ふとフォルスは言葉を止める。空を見上げる目に、一瞬だけ遠い光が宿った。一秒にも満たない僅かな間に、記憶は千年の時間を行き来したのだった。
「大変だったようじゃなぁ。あの時わしは寝ておったから、詳細を知ったのは随分後だ」
『――あんなに騒がしかったのにか』
「知るか。起きたのはほとんど全て終わった頃だ」
『――なんとも呑気な』
海龍の声には多分に呆れが含まれていた。普段海底にいる海龍ですら地上の動きを知っていたのに、地上にいたはずのフォルスが無関心というのだから、当然と言える。
もっとも、大変なのは海の中も変わらなかった。海中に暮らしていた人間種も、その多くが千年前の大戦争で滅んでしまった。生き残ったのは、海龍の眷属である水龍人族だけだ。
そのうえ陸から攻められたら堪ったものではないと、海龍は地上にも警戒の目を配っていたのである。
「さすがの女神も随分焦ったようじゃな。くくくっ、直接見てみたかったのぅ」
『――そなた、本当に女神の眷属か?』
肩を震わせて忍び笑いするフォルスに、今度こそ純粋に呆れる海龍だった。自分の眷属である水龍人族は、最上の敬意と欽慕とを以て接してくれる。だからこそ、フォルスの女神に対する言動が信じられないのだろう。
ともあれ、海龍は口にした。
女神の眷属、と。
この星と空と海をつくり、大地を成し、世界というルールを組み上げ、さらには龍族や人間種までをも形作った、唯一無二の創造神。
女神エルプトラ。
その眷属ともなれば、龍などとは比べ物にならないほどの力を持つ。
龍もまた女神に作られた存在ではあるが、言ってしまえば被造物に過ぎない。片や眷属は女神の力を分け与えられた、より神に近い存在だ。まさに別格なのである。
そのうちの一体が、何を考えたか〈千年氷柱〉のクランマスターなどやっているフォルスだった。
「母上殿のことは敬っている。それで十分だろう。それに、わしをこんなちっこい姿にしたのも母上殿だ。恨むというほどではないが、文句の一つも言いたくなるさ」
『――その姿は自業自得だと聞いているが』
「ちがーう! 悪いのはマグナの阿呆だ! 奴が素直に己の非を認めておれば、あんなことにはならなかったのだ!」
手足をバタバタと振り回し、憤慨するフォルス。その様を見て、中身とぴったりの姿ではないかと海龍が思っていると――。
「おーい、フォル坊ー! 今戻ったぞー!」
「そもそもわしらの存在意義は――んん?」
フォルスは勢いよく飛び起きると、縁に掴まって湖を見た。
西の方角から、一艘の小舟がバシャバシャと飛沫を上げながらこちらへ疾走してくる。さらにその後ろには、舟よりも大きな白いものが、太いロープに括られて豪快に引き摺られていた。
舟を漕いでいるのはマカロフだ。両手でしっかりと櫂を操り、満面で喜びを表現している。
それを確認したフォルスも、すこんと機嫌を取り戻した。
「おお、戻ったか。これはまたデカそうなのを仕留めたな」
「わっはっは! 久々のハレの舞台じゃからな。奮起したわい。……それはそうとフォル坊、今他に誰かいなかったか?」
そう言いながら、マカロフはフォルスの手前に舟をつける。
きょろきょろと周囲を見回すが、二艘の小舟以外には何の影もない。静かなものだ。おかしなところがあるとすれば、フォルスの舟が風もないのに揺れていることくらいだろうか。しかしマカロフはそれには気づかず、自分の勘違いだったかと首を捻った。
「誰もいないぞ。耄碌したのではないか? マカロフよ」
フォルスのニヤニヤ笑いに、マカロフは白ひげを逆立てて反発する。
「何を! これを見てもそんなことが言えるのか!」
と舟の後方へ飛び跳ねるように移動すると、繋いでいた三本のロープをまとめて力任せに引っ張った。
ザバァ――――ッ!
大量の水を飛ばしながら、巨大な生物が宙を舞う。太陽を遮って出来た影が、フォルスとマカロフの上に落ちる。
マカロフは自信たっぷりに、フォルスは「おお」と驚きの声を上げてそれを見上げた。
全体的に細長く、グニャグニャと気持ち悪いほどにうねっている。足は何本にも分かれており、その一本一本が丸太のような太さだ。それは大きく弧を描いて宙を横切ると、盛大な水柱を上げて湖へと戻った。
フォルスはぴょんぴょんと跳ねて大はしゃぎだ。
「凄いな! 凄いな! 大物だ! 大王タコだー!」
「タコではないぞ、フォル坊。あれはイカじゃ」
「イカ? タコだろう。頭が丸かったぞ」
「いやいや、イカは足が十本。タコは八本。あれはどう見てもイカ。そもそもワシが仕留めたのは女帝イカじゃ。イカ」
なぜイカが湖にいるのかという話はともかく。
イカかタコかなどどうでもいいように思えるが、マカロフにとっては重要らしい。しかし、フォルスも食い下がった。
「よく見ろ、マカロフ。あいつの足は十本もない」
「なにィ? そんなはずはない。さっきちゃんと数えたんじゃぞ」
マカロフは舟から身を乗り出して、イカ(タコ)の足を数えはじめた。
指をさしさし、目を凝らし。
間違いのないよう、慎重に数え上げていく。
「一、二……七、八、九……。九」
「九?」
「九じゃ」
「九だと?」
「うむ。九。イカの足は九本!」
「新説爆誕……?」
そんな調子で言い合う足元で小さな波が立ち始めたことに、二人は全く気づいていなかった。
ブクブクと、水面に小さな気泡が浮かび上がる。やがて水中の影が大きくなったかと思うと、矢のような勢いでフォルスとマカロフの背後に飛び出した。
「な、なんじゃ!?」
振り返った彼らの目に映ったのは、下から上へ伸びる大きな蛇――ではなく、女帝イカの足。
「なにィ!? まだ息があったか!?」
懐から包丁を取り出し、戦士さながらの反応速度で構えるマカロフ。しかし、すぐにフォルスがそれを制した。
「待て。攻撃ではない」
その言葉通り、女帝イカの足は敵意を見せる様子もなくスルスルと空を飛ぶと、フォルスの舟に着地した。いや、着地というには豪快すぎたが。衝撃で舟は大きく揺れ、水面には小波が立ち、飛沫が衣服の裾を濡らした。
フォルスには全てが分かっていたようだ。一方で、いったい何が起きたのか見定めようと目を眇めるマカロフが見たものは――。
「ぬぅ!?」
一匹の、黒い子猫。
短い四本の足を突っ張り、小さな牙をがっしりと女帝イカの足に食い込ませている。
その姿は小さいながらも勇ましく、気高さすら感じさせるようなさせないような、諸々の疑問を置き去りにする堂々たる立ち姿だった。
マカロフは知る由もないが、子猫は〈千年氷柱〉のメンバーでもあるコトリの真の姿だ。普段見せているマント姿が幻に過ぎないということは、フォルス以外の誰も知らない。
「……フォル坊や。ワシは耄碌してしまったかもしれん」
「なんだ、いきなり?」
「子猫が女帝イカの足を食っておるように見えるんじゃ」
「食ってるぞ。ものすごい勢いで」
「小さい体のどこに消えておるんかのう」
「さあ?」
フォルスとマカロフが見ている前で、子猫はがふがふと女帝イカの肉片を散らかしながら食べ進め、あっという間に半分ほどが消えてしまった。さすがにそこでお腹いっぱいになったらしく、満足そうに目を細めると口の周りを整えはじめる。
と、そこでマカロフが我に返った。
「ぬあ!? さては一本なくなった足はコヤツの仕業じゃな!」
「よいではないか、一本くらい。あと九本もあるのだから」
「そういう問題ではない!」
マカロフは唾を飛ばして怒鳴り、くわっと目を剥いた。
「やはり女帝イカの足は十本だったのだ! つまりワシが正しかったということだ!」
「そっちかい」
心底どうでもよいと思うフォルスだった。そもそも女帝イカの足の数で言い争った覚えはない。
――それよりも。
フォルスは、海龍が去り際に残した言葉が気になっていた。
『――少々面倒をかけるが、よろしく頼む』
あれはどういう意味なのか。
気になる。気にはなるが、分からん。
「聞かなかったふり、はできんのだろうな」
「ん? 何か言ったか、フォル坊?」
「いや。なんでもない」
フォルスとマカロフは、仕留めた女帝イカを解体して街へ運ぶ準備にとりかかった。




