プロローグ
この世界、アル・エトが創られたのは何千年も昔の話。
海、山、森、草原、砂漠の砂の一粒に至るまで、原型はその頃出来上がった。
創ったのは女神エルプトラ。創造神、大いなる母、至上の光。呼び名は色々あれど、語られる内容はいつも同じ。
『女神は"星の意思"より生まれ、まず最初に熱い光を創った。空がその光で灼かれると、覆うための地殻を創った。空は安堵に涙し、女神はその涙で海を創った。眠るための大地を創った。しかしあまりに簡素で味気なく、見事な草花で辺りを飾った。
女神は右に白き翼、左に黒き翼を携えていた。
ある時、抜け落ちた羽根に息を吹きかけた。すると羽根は自らの意思で動きはじめた。
女神はたくさんの像を創った。蛇、鳥、駱駝、狼、蝶、魚……。
大きな像も創った。ドラゴン、クラーケン、アケローン、グリュプス……。
命を与えると、動き出した。
その内のいくつかは滅んだが、今なお血脈を繋いでいる種も数多くある。
人間もまた、女神によって創られた。
女神は、人間には特別な力を授けた。
魔力だ。
人間はこの力を得たことにより階をひとつ進み、繁栄を謳歌した』
だが、光溢れる世界は突如として闇に塗り替えられる。
魔物の出現。
日食のように光を食い破って現れたそれは、一斉に人類へ襲いかかった。人々は傷つきながらも戦ったが、魔物の軍勢には敵わず、大幅に数を減らしていった。
そして、滅びが目前となったその時。
伝承によれば、聖なる光が雲を割って舞い降りたという。
五人の若者がその光の下に集い、神が創りし武具――神器を手にした。
彼らは魔物の軍勢に立ち向かい、命を賭した激しい戦いの末、ついに敵を地下の牢獄へ押し返すことに成功したのだった。
人々は勇気ある五人の若者を勇者と呼び讃え、彼らの死後も、五種の神器と共に各地で祀り続けている。
魔物が世に現れ数十年。
世界はようやく落ち着きを取り戻し、残った人類は再び繁栄への道を歩き出したかに思えた――。
しかし。
彼らが得たのは、束の間の平和に過ぎなかった。魔物の脅威は去ってなどいなかったのだ。魔物はあぶくのように地上に現れ、人々を襲うようになった。
だが、人類はもう知っていた。
魔物は倒せない敵ではないと。
滅ぼし尽くすことはできなくても、自分や、自分たちの子孫を守ることはできる。
人間は少しずつ強くなっていった。長い長い時をかけて。女神の恩恵を戦う力に、荒れ果てた地を人間の住む場所へと変えていった。
――そして、千年後。
+++
ここは、大蛇の道という異名を持つ曲がりくねった谷底。左右を切り立った崖に挟まれ、わずかな雑草の他は乾いた砂と岩ばかり。
獣も避けて通るこの道に、まだ少し幼さの残る人族の少年と、二十代半ばと見える鬼族の女性が、岩陰に隠れてこっそり前方を窺っていた。
少年の腰には頑丈そうな一振りの剣。女性は身の丈を超えるハルバードを軽々と担いでいる。武器の物々しさに対して、防具は革製の胸あてと肩あてだけ。女性に至っては普段着と変わらず、肩も足も剥き出しである。
彼らは魔物討伐を生業とする戦士だ。
二人の視線の先には、真っ赤な蠍のような生物が五体ほどたむろしている。胴体だけで立派な馬ほどの大きさがあり、全長はそそり立つ尾を含めるとその倍はある。二本の触肢は凶悪に尖っていて、四対の脚で走れば人間など到底追いつくことはできないだろう。
今は目の前の獲物に夢中で、男女の戦士には気づいていない。
ちなみに獲物というのは人間だ。壊れた荷馬車から上等な布や宝石が散乱しているところを見るに、貴族相手に商売する商人だったのだろう。雇った護衛はすでに躯と化している。
少年たちがここに来た時にはもう手遅れだった。
もし間に合っていたら、一人か二人は助かったかもしれないのに……などという仮定をしても虚しいだけだ。
現実は無情。一歩間違えば、自分だって彼らのようになりかねない。
ここから食事風景は見えないが、酷い有様を想像した少年は今にも吐き出しそうに口を押さえる。が、彼にはそれ以上に気がかりなことがあり、囁くような小声で隣の女性に話しかけた。
「あのー、一ついいですか?」
「なんだい?」
「ここに来る前、話し合ったことについてなんですけど……」
「なんだっけ?」
「今回の目標は小物だから、試しにおれ一人でやってみよう、ってヤツですよ」
「あー、あー。言ったね、そんなこと」
「考え直しません?」
「なんで?」
「いやいや……」
少年はハハハと真顔で笑う。
〈千年氷柱〉に入団して約三ヶ月。戦士として全くのド素人だった自分だが、何度か死にそうにな目に遭った結果、素人に毛が生えた程度には実力がついたと思っている。
しかし。しかし、だ。
「いきなりアレ五体は厳しすぎません!?」
「大丈夫だって、あんなのただの茹でたエビだよ」
「確かに茹だっているみたいに真っ赤ですがっ。どう見てもエビじゃないです!」
微妙にずれたツッコミを入れつつも、全力で拒否する姿勢を変えない少年。
そんな彼に女性は溜め息をつくと、その場に胡座をかきなおして諭すように地面を指差した。仕方なしに少年も座り直す。
「いいかい? 人間、誰しも人生のピークというものがある。君の場合、今がその時だ」
「おれまだ15なんですけど……」
「年齢は問題じゃない。重要なのは"今"ってこと」
橙色の瞳が真剣に少年を見つめている。その真面目な光に、少年の心も前向きになる。とりあえず話を聞こうという気にはなったらしい。女性は微かに笑った。
「あたしらは戦士だ。戦士ってのは、常に死と隣り合わせの生き物だ。馬鹿みたいに強いヤツだって、死ぬときゃ死ぬ。五百年級みたいな化け物に遭ってごらん。あたしだって絶望するかもしれない」
「アイーダさんが、ですか?」
「そうだよ。――で、だ。死んだら当然、そこまでだ。ピークは終わる」
少年は少し嫌な予感がした。彼女とは短い付き合いだが、性格はだいぶ分かってきたつもりだ。
「……つまり、人生のピークというのは」
「死ぬかもしれない、最高に危険な瞬間のこと」
「やっぱり物騒だった……!」
少年が頭を抱える一方、女性は誇らしげに胸を反らす。
「嘆くことないさ。戦士にとって、死ぬかもしれない瞬間ってのは一番のご褒美。なんたって、これを乗り越えればさらに強くなれるんだからね。君にだって経験はあるはずだよ」
「そ、それは否定しませんけど……」
「まあでも、仕方ないから今回はあたしも手伝ってあげる」
言いながら女性は立ち上がり、少年に向かって手を延ばす。その力強い姿は、日の当たらない谷底にあっても輝いて見える。少年はつい手を取るのも忘れて、憧れの戦士の姿に見とれた。
「さあ、立ちな。こういう時の必勝法を教えてあげよう」
女性は自信満点の笑顔で言い放つ。片方の手で少年の体を引き上げ、胸を叩く代わりに、自慢のハルバードでどんっと地面を突いた。
少年は密かに心を躍らせる。
この人についていけば大丈夫。自分みたいな弱い人間だって、きっと強くなれる。そんな風に期待を抱いて――。
「ついてきな! 正面突破だあ!!」
威勢のいい大声に、蠍の魔物たちが一斉にこちらを振り返る。
障害物のほとんどない谷底の道だ。一度見つかってしまえば、逃げ切るか勝つか以外に切り抜ける方法はない。そして、逃げ切れる可能性は限りなく低い。
――やっぱり自分はここで死ぬかもしれない。
少年はちょっと投げやりな気分になりつつ、得物を振り回して突撃する先輩の後に続くのだった……。
人間と魔物の戦いがはじまってから、およそ千年。
未だに影は衰えず、光の姿ははるか遠く。
これは、そんな世界の片隅で活躍する、とある魔物討伐クランに関するお話。
まずは、一人の少年が人生のどん底で幸運を手にするところからはじめよう。