4. VSイビル・メロウ
黒くぬらりと光る岩場に、炎を象った明かりが奇怪な影を作る。
月影を遮ってそびえるは半人半魚の魔物。
青白い肌に赤い唇でにんまりと笑みを刻み、爬虫類のような細長い瞳で、逃げ回る人間たちを見下ろしている。
彼女の名はイビル・メロウ。正確には個体を表す名ではないが、今のこの姿が人間にそう呼ばれていることは知っている。
かつて本物のメロウ族――人魚族とも呼ばれる――を滅ぼしたのが、最初のイビル・メロウであった。
その力は今代よりはるかに強大で、海龍と互角に渡り合うほどだった。結局海龍には倒されてしまったが、流転する魂により蘇り、再び力を蓄えようと魔力を求め動き出した。
それが今の彼女だ。
海底を泳いでいる際、偶然みつけた水龍人族の里をつい滅ぼしてしまったのは、憎しみが魂に刻まれていたからだろう。
水龍人族は仇敵、海龍の眷属だ。身内と言ってもいい。
奴らの血を浴びた時、言い知れぬ満足感が彼女を笑顔にした。
その昂ぶった気持ちのまま、今度は人族の里を襲った。
龍人族と違い、人族は弱い。ただ殺すだけでは面白くないと、すぐに皆殺しにするのは止め、たっぷり恐怖を与えてやることにした。妻と子らしき女の目の前で男を浚い、島から逃げようとする船を沈めた。海に引きずり込んだ者はいたぶって殺し、魔力を適当に吸い取った後は魔物に食わせた。本能に任せて殺すことしか脳のない、低級の魔物どもだ。伝説にもなった自分のおこぼれにありつけるのだから、光栄に思うべきだろう。もっとも、まともな思考力など持ち合わせていないだろうが。
今夜も何人か殺そうと夜襲をかけに行ったところ、思わぬ出来事に遭遇した。
高密度の魔力が、すぐ近くで放たれたのだ。
より強い魔力に惹きつけられるのは、魔物の性だった。魔力を取り込めばもっともっと強くなれると、本能的に知っているのだ。
残念ながらそれはすぐに大地に溶けて吸収し損ねたが、その代わり新しいおもちゃをみつけた。
人族の戦士だ。
思う存分遊んで、いたぶって、殺してやろうと思い立った。
人が苦しむ様を見るのは面白い。奴らは弱いくせに生きたがる。死から逃れようと、足掻いて、藻掻いて、助けてなどくれない神に救いを求める。そして終いには、永遠の敵であるはずの魔物に命乞いをするのだ。
なんて滑稽だろう。
今回の人族も、きっとそうなる。
――そのはずだったのに。
海の中では絶大な威力を発揮する下級の水魔法も、地上では砂地を抉る程度の力しか出ない。しかし、脆い人間が当たれば骨くらい簡単に砕ける。足が止まったところで四肢を潰し、完全に抵抗できなくなったあとでゆっくりいたぶる計画だった。
ところが、だ。
こちらの攻撃が一向に当たらない。最初はまぐれだと思っていたが、時間が経てば経つほど、人間の動きはよくなっていった。
いや、少し違う。
魔法に慣れつつあるのだ。
速度、軌道、攻撃範囲。
逃げ回っていたのは、それらを正確に見極めるため。
――ならば、その次に取る行動は。
人間たちを舐めきっていたことが裏目に出たと気づいた時には、白い衣をまとった戦士がこちらの間合いに飛び込んでいた。
「くっそー。バカスカ撃ちやがって」
文句というより羨望を滲ませながら、クロムは攻撃を躱していた。
人間では希少な魔法持ちだが、魔物においては珍しくない。十種の魔物がいたら、三、四種は魔法を使う。人間でも種族によって割合が違うものの、全体で見れば一割程度だろう。人族に限って言えば、それ未満だ。
魔法の素養がある者全員が戦士を目指すはずもなく、十年以上戦士をやっているクロムでも出会ったことのある魔道士は両の手で足りる。
ちなみに、この世界には魔法と魔術がある。魔法は先天的な能力を必要とするが、魔術は学べば誰もが習得できる。その代わりと言うか、魔法が己の身一つで操ることができるのに対し、魔術は杖や符などの媒体を使わなければならない。
加えて魔法は自由度が高く、決まった効果しか出せない魔術とは比べられないほど応用が利く。魔術は魔術で多種多様ではあるのだが。
だが敵はさっきから同じ攻撃しかしてこない。間合いの外からの遠距離魔法だ。一発と一発の間に数秒の準備時間があり、しかも常に一定だった。狙いも読みやすく、弾道も素直。これなら、ギリギリまで引きつけてからでも躱せる自信がある。
「余裕だねぇ、っと」
意外なことに、クロムの立ち回りは熟練の戦士のそれだった。
走り続けても息切れしない体力に、常に次を考えた足運び。視線は敵から決して逸らさず、かつ周囲を意識している。
迷宮ではまず出会うことのない大型の魔物との対峙に臆せども怯まず、経験の豊富さを感じさせる。
濡れて滑りやすい岩場をひょいひょいと飛び越え、砂浜へ降り立つ。
すかさず着地を狙った魔法が飛んできたが、それもクロムは読んでいた。
ガリ、と奥歯で何かを噛み砕いた瞬間、彼の体が加速する。
魔法は彼を捉えられず、岩場の一部を抉り、砂煙が渦を巻いた。
敵の視界からクロムの姿が消えた。
一瞬。
時間にすれば、一秒にも満たない短さ。
そんな僅かな間に、海辺とは反対側にある崖に、彼はいた。
足裏を岸壁につけ、三角跳びの体勢。
壁を蹴れば、白衣が翻る。
敵がキョロキョロと頭を動かしてクロムを探している。その時にはもう、魔法の発動が間に合わないほどの近距離にいた。
ほぼ真後ろ。クロムは無手。しかし、
「取った」
と彼は、そしてシャムスは確信した。
だが。
「センセイ!」
いち早く異変に気づいたシャムスが叫ぶ。
忠告を飛ばしながら、スウィフドを操り矢をつがえた。
一瞬遅れて、クロムも気づく。
彼を一呑みできそうなくらい大きな顔が、すぐそこまで迫っていたのだ。
「ぬお!?」
ばくん!
咄嗟に捻った体の下を、閉じた口が通り過ぎていく。
ギザギザの歯がずらりと並んだ、見るからに凶暴そうな口だった。
スウィフドの援護を受けながら、クロムは一旦距離を取る。
焦り顔の隣にシャムスが並び、ティゴニアが巨大な盾を前に構えた。
対面には、憎々しげな表情の美女。そして彼女の背後から、平べったい顔の魚がぎょろりとした目でこちらを窺っている。
「ご無事ですか、センセイ」
「あ、ああ。けどびっくりした。もう一体いたとはね」
「いえ。二体のように見えますが、あれで一体です。よく見てください。美女の尾の部分、尾に見えますがあれは胴体です。尾先が頭になっています」
「おお、本当だ。どことなく愛嬌のある顔……あ、やっぱ不気味」
魚の顔がガチガチと歯を鳴らすと、クロムは嫌そうな顔でのけぞった。
「ウツボですね。肉食の魚です。避けなかったら危なかったかもしれません。最悪、頭と胴体が離れ離れになっていたかと思われます」
「思われます、じゃないよ。ちょっと寒気がしたんだけど。大体、薬で一時的に身体強化してるだけで、ほぼ普通の人間なんだからね?」
「どうします? 近づけばウツボが全力で襲ってきますよ、絶対」
「無視かい。……どうするって、やるしかないでしょ。遠距離で倒せる火力は俺ら持ってないし」
「まあそうですね。選択肢はありませんでした」
シャムスは真顔で自分の頭をコツンと小突いた。茶化しているつもりなのだろうか。
クロムは何とも言えない表情で前を向いた。
再び敵の攻勢がはじまる。
遠距離からの魔法をくぐり抜けて近づけば、ウツボの長い胴体を使った範囲攻撃が待っている。
だが、近づかねば倒すことはできない。
スウィフドの矢はザコ相手ならまだしも、大型の敵相手には力不足だ。それでも牽制にはなった。――クロムへの。
広い視野で戦場を観察し、言葉ではなく矢で細かな指示を飛ばす。クロムはそれを一目で読み取り、行動に加える。
二人は四年近く一緒に依頼をこなしてきた。その中で培った連携だ。今や、互いの相手以外とはコンビを組めないとまで評されているほどである。
しかし、シャムスはもう少しクロムに楽させてあげたかった。
「敵のやり方も掴めましたし、頃合いでしょうか」
ひとつ呟き、彼女は開いた両の掌を前へかざした。
そして。
「お出でなさい、わたくしの可愛いお人形さんたち――1番・空弾の拳闘士」
虚空から降ってきたのは、緑色の貫頭衣を着たお団子ヘアの女性型人形。鼻と口がなく、目だけがアーモンド形に彫られている。
小柄な人形は拳と掌をカコンと合わせて、一礼した。
近接格闘特化型、メリアゴール。
「2番・双塵の騎士」
ティゴニアよりも一回り小さく、メリアゴールよりも背の高い銀色の騎士が現れる。それぞれの手には抜身の剣がすでに握られている。甲冑に包まれた顔を上げると、その奥で双眸がきらりと光った。
近接剣術特化型、ルドアン。
「さあ、行きますよ。センセイに道を作って差し上げましょう」
四体の人形を統べるのはシャムス。
見えない糸を巧みに操り、戦いを進めるべく舞台裏で動き出した。