白き虎との出逢いの日-2
「虎さん、お肉食べる?」
翌日、また目の前に現れるなり、唐突に創樹は尋ね、首を傾げた。
ぱかりと持っていた小さな容れ物の蓋を開けて見せた創樹に、虎は呆れた瞳を向け、前脚の上に顎を乗せた。
昨日、暗くなる前に虎に抱き付いたまま眠ってしまった創樹を、人のいる場所にそっと戻しておいたのに、懲りずにまた来たらしい。
「あ、やっぱりそうなんだ」
こくこくと頷いた創樹は、容器を地面に置いて、再びこの空間を出て行く。しばらくすると戻ってきて、
「はい」
と、再び浮かび上がらせた、昨日より一回り小さな光を、虎に押し付けた。
無言の虎の視線を気にすることなく、虎の隣に腰かけて、寄りかかった創樹は、最初に虎に見せた容器の中身を、少し食べる。
その容器は創樹の両手を広げたくらいの大きさだが、2.3切れ食べたところで、ふうっと息をついた創樹は蓋をした。
それから、虎の顔の正面に移動して体育座りした創樹は、じっと虎を見つめる。(ちなみにこの「体育座り」、地域によって「体操座り」や「三角座り」とも呼ばれるらしい。)
虎が、なんだ、とばかりに瞳を開け、創樹を見た。
それをきっかけに、創樹はポツリ、ポツリと、質問を虎に投げかけてきたのだった。
また翌日も、今度はあらかじめ“元気”を集めて創樹はやってきて、たどり着くなり、光を虎に押し当てると同時に抱き付いて来た。
それからは、虎に抱き付いたままポツポツといろんなことを聞いてくる創樹に、虎はただ付き合っていたのだ。
さらに翌日、その日は虎にとって日が暮れても、何もない一日だった。
ちらりと、この三日やってきていた小さなヒトの子、創樹のことを思い出したが、虎はそれを意識から追いやると、目を閉じる。
エネルギーを少しでも消耗しないように、大抵、日がな一日この場所でこうして虎は過ごしていた。
あの日、初めて創樹が現れた日まで、もう、どれほどそうして時を過ごしてきたかわからないほど。
とっぷり日も暮れ、降り注ぐ月光を浴びていると、虎の意識に見知った小さなヒトの子の力が近づいて来て、のそりと虎は体を起こす。
ヒトの子が、しかも、まだ年端もいかぬ少女が、一人で出歩くにはあまりに遅い時間。しかも、ここは森だ。
草むらの向こう側まで迎えに出れば、ちょうど創樹が、虎の張っている結界をくぐって来たところだ。
「さいが!」
光と共に飛びついて来た創樹。そのまま離れない創樹に、虎はひょいっとその小さな体を背に載せて、草むらの中に戻り、寝そべった。
創樹は虎の背中の上に乗ったまま。
己の首元の毛が濡れてきているのを感じ、虎は短く唸る。
「今日…お兄ちゃんが、一人にしてくれなかった。一人でどこかに行くなって…」
虎はわずかに目をすがめ、唸る。
「うん…。やっと一人になれたから」
創樹がきゅうっと虎に抱き付く。
虎は唸る。
「ダメなの。…明日、帰るんだって…。朝まで待ったら、お兄ちゃんがまた来る。一人にしてくれなかったら、さいがにもう会えなくなっちゃう」
ひくっとしゃっくりをあげながら、創樹は告げる。
虎は一瞬目を見開き、やがてゆっくりと瞼を閉ざした。諦めたように。ぐるる、と、深い息を吐き出し、虎は小さく唸った。
創樹は虎の背の上で、首を振る。嫌だと言うように。
虎はそっと首を伸ばし、創樹の服をくわえると己の背から引きずり降ろし、己の目の前に運ぶ。
虎の前脚の間で、ゆっくりと顔をあげた創樹の目の前には、大きな大きな虎の顔。べろっと、虎が創樹の頬を伝う涙をなめとる。それから、そっと、唸る。まるで諭すように。
「しかたなくない」
それでも創樹は首を横に振る。
虎は、その答えをわかっていたように、静かに唸る。
「…わからないよ」
わかりたくない、という様子で、そう創樹は首を振る。
虎は、再びこぼれる創樹の涙も、ざらざらの己の舌でも痛くないように、そっとそっとその舌で舐めとり、唸る。
「だって…私はヒトだけど、人と違うもん。だから、ヒトの輪に戻されても、入れない」
創樹はふるふると首を振る。
「やだよ、やだよ…ここに住む…」
創樹は虎の頬に、ぐりぐりと頭を押し付ける。
虎はふうっと吐息を漏らした。
可能か不可能かで言えば、創樹の言葉は可能だった。
『普通の人』と違う創樹は、食べなくても生きていけるし、成長もする。それを本人もわかって言っているのだ。
しかし、創樹がいなくなれば、人間が探しに森に分け入ってくるだろう。結界で虎が見つかることはないが、森が荒らされることにもなる。
それに何より、創樹は人間の子供だ。いくら『普通の人』ではないとしても、ヒトはヒトの中で生活するのが自然なのだ。
創樹は虎の知る者とは少し違う。『普通の人』とも、虎の知る、虎と同じ格の者たちと生きる人とも、また違う。
限りなく似ているのに、途方もなく違うのだ。
そもそも、創樹の力の果てが、虎をもってしても、見えぬ。それはどれほど途方もないことか。
虎の知る人達と同じであれば、創樹を仲間の元へ連れて行くこともできる。だが、『違う人達』の中での『違い』は、創樹をより孤独にすることもあり得るし、その事実がいつか創樹に牙をむくこともあり得る。
ーー異端の中の異端。
悠久に近い時を生きてきた虎でさえ、初めてまみえる力の持ち主が、創樹だ。
虎は唸る。
何をするにも、何もわからぬ今の時点で、創樹をこの場に置くのは、リスクが高すぎる。
おそらく、学び舎に通う前か、通い始めて間もない年齢であろうこの創樹には、ヒトの生きる道を学ぶのも、今は大切なこと。
何をするにも、まだその時ではない。
「…いや」
創樹は首を振って、虎に抱き付く。
恐らくは、ようやく見つけた、全てを偽らずに済む虎から、創樹は離れたがらない。
虎は、聞き分けてくれと、唸る。
創樹は虎の左前脚に腰かけ、その首にしっかりと抱き付いたまま、涙を流す。
「……私が住むの、無理なら…さいがが、一緒に来て」
少しだけ虎の毛並みから顔をあげて、虎の瞳を見つめて告げた創樹。虎はわずかに目を細め、べろりと涙に濡れたその頬をまた舐める。
「無理じゃないよ。力が保てればいいんでしょう? さいがが私の中に住むの。そうすれば、大丈夫でしょう?」
虎がわずかに驚いた様子で創樹を見る。
「…しってるよ。さいがみたいな、特別な動物を、自分の中に飼ってる人」
その言葉に、虎はわずかに目を細め、唸る。
「…うん。一昨年…五歳の時にね、会ったよ。黒豹連れたお兄さんに。あの黒豹さんも、さいがと同じだったよ」
虎がわずかに唸りを漏らす。
「…うん、会った。……だからね、さいが。私の中に住んでよ。そうしたら、一緒にいられるでしょう?」
虎が、わずかに困ったように唸る。
「……でも、見つけられなかったから、さいがはここにいるんでしょう? ずっとずっと」
創樹の瞳からぼろりとまた涙がこぼれ、虎はその頬をなめる。それから唸った。
「試してみてよ。試したことがないだけでしょう? それとも、私のタマシイの器は、もうケガレてる?」
虎は悲しそうな顔になる創樹に、己から頬をすり寄せる。
この創樹と言うヒトの子は、不思議だ。この年齢であれば、その魂が穢れ始めていてもおかしくないのに、無垢なまま。まっさらなのだ。まるで、本来虎が宿るべき、生まれる前の、母体にある魂と同じように。
出会ってみれば、どうしてこの創樹がまだ母体にある時に、その魂に気付かなかったのかと思うほど、宿主に相応しい…むしろ、最上級の格にあるこの虎をしてさえ、勿体ないほどの器なのだ。
最初に創樹が近づいてきていた時ですら、その器に気付けなかった。対面して、あの光の塊を創樹からもらって初めて、その器に気付いた。
これはある種の、神の仕業かもしれない。
虎が唸る。
「……かまわない」
創樹はその小さな手で、虎にしがみつく。
瞼を閉ざした虎は、静かに、唸る。
「…ん。やってみて、失敗して、結果死ぬなら仕方ないよ。…一人で生き続けるくらいなら、さいがを受け入れて死んだがまし」
虎は創樹の顔をのぞき込む。その金の瞳に、創樹は静かに微笑みかける。
「結果、この体がどうなろうと構わない。さいがだけをここに残すことになったら、本当にさいがには悪いと思うけど。何もしないままここでお別れは嫌」
立ち上がった創樹は、虎の額に己の額を擦り付ける。じんわりと、その額を通じて、虎と創樹は声にならない感情をやり取りする。
「虎さんって、そんなに心配性なの? それともさいがだけ?」
そして額を離して虎の真正面に座り、創樹はふふっと微笑む。虎が唸り、ふいっと視線をそらす。
「じゃあ、言い直す。シンジュウさんって、そんなに心配性なの?」
創樹はこてんと首を傾げた。瞳を戻した虎は、鼻の頭にしわを寄せてから、べろんと創樹の顔をなめた。今度はわざと、ほんの少し痛みを感じる程度に。
「わっ…ごめんー」
ふふふっと笑った創樹は、すりすりと虎にすり寄る。
「私は、大丈夫。だから、一緒が良い」
虎と創樹は、再び額を合わせる。
やがて、そっとどちらからともなく離れた。
「…さいが、私がどんなになっても、できるかもしれないなら、あきらめないで。痛くても、体が壊れてもいい。受け入れるか、死ぬか、どちらかでいい」
創樹の瞳に、虎はその覚悟を知る。
このまだ幼いヒトの子は、この年齢にしては孤独を知りすぎている。幼い故に、それはもう限界で、何かが壊れ始めていることを、本人も知っているのだろう。
虎は、のそりと立ち上がると、目を細めて唸る。
創樹が頷き、虎もようやく覚悟を決め、ほうっと力を抜いた。
途端、ぼわっと輪郭を曖昧にし、ふわっと浮いた虎は、光の塊になる。大きな塊はどんどん小さくなっていく。
やがて、創樹でも抱えられるくらいの大きさになった。
すーっと近寄って来た光の塊を、創樹がそっと受け止め、ちゅっとキスをする。
そして、深呼吸した創樹が、光の塊を抱きしめた。
ゆっくりと、光は創樹の中に沈み始めた。
最初は少し、抵抗があって押し戻されそうになるが、苦痛を堪え、創樹は抱きしめ続ける。
ゆっくり、ゆっくり。
トクン…
とくん…
鼓動を刻むように、光が明滅する。
ふうっと深い息をつきながら、創樹はその鼓動に、己の鼓動を合わせるようにじっと光を抱く。
体の作りが、細胞が、光の明滅に合わせて書き換えられるように熱く、熱く、苦しく、痛い。
だが、創樹はじっと少しずつ少しずつ入ってくる光を、ただ受け入れよう、受け入れようとしていた。
痛みに、熱さに息が荒くなり、汗が伝う。
それでも、徐々に、徐々に。
とくん…とくん…
すべての光が己の中に納まり、己のみぞおちの奥、小さな体の真ん中あたりに移動していく。
「さいが…」
力を失った創樹の脚が崩れ落ち、地面に痛みをこらえるように横たわり、丸くなる。
それでも、ひたすら、受け入れようと、創樹は鼓動と息を合わせる。
やがて、己の中を移動していたそれが、止まった。
とくん…とくん…
創樹の体が鼓動に合わせて明滅する。
体の中に、熱い鉄球を埋め込まれたような気分だ。
途方もない異物感。
焼け付くような熱。
だが、ひたすら、創樹は瞼を閉ざし、それを感じている。
その鉄球はあまりの高熱に溶け出し、じわじわと輪郭を曖昧にし、創樹を侵食していく。
創樹は、ぜーぜーと何とか息をする。
この熱は、あの虎のタマシイ。
タマシイっていうのは、とてつもなく、熱いんだな、と、創樹はぼんやり思う。そして、とても重い。
じりじりと浸食したその熱が、体全体へ広がっていく。
やがて、全身に熱と、苦痛が広がる。
すべての細胞が、熱くて、痛い。
ピクリとも指を動かせぬまま、創樹はひたすら耐える。
ぶわりと、いろんな感情が己の中に渦巻いていく。見たこともない景色が、頭の中を駆け巡る。長い、長い物語を、早送りするように。
あぁ、これは自分ではなく、あの虎の見た景色、虎の感じたことなんだと、創樹は悟る。
どれくらいそうしていただろうか。
体全体の光が、徐々に収まり、同時に、徐々に苦痛も和らいでくる。
頬を風が撫でるのを感じられるようになった。
自分が横たわっていることを、創樹は認識できるようになった。
すべての光が収まった後、ざーっと、周囲の植物が枯れ、創樹の体を癒す。
そこで、創樹は意識を失った。