旧校舎の悲劇
ホラーに挑戦。
その日、俺は友人たちと一緒に肝試しをするために、都内から車で2時間走ったところにある古い建物へとやってきていた。
きっかけは、本当にありきたりな物だった。俺達は大学の同期で、ネットのアングラサイトの掲示板に書かれた噂に踊らされた結果、友人の一人が肝試しを企画し、それに乗っかった形だ。もうすぐ夏期講習が始まる。それまでに思い出の一つも作っておこうと、俺は単純にそう思った。まぁ、最近は温暖化の影響か、暑い日が続いているからな。涼しくなりたいというのも理由の一つだった。
そんなわけで、俺は自分の車を使い、友人たちを乗せて都会を抜け、延々と人気のない山道を走り続けて……ここに辿り着いたのだった。
「うおぉ、すっげぇ雰囲気あるなぁ……」
車から降りた俺が開口一番にそう言った。目の前に聳え立つ、木々に囲まれた三階建ての古い木造建築。入り口は錆と汚れが目立つフェンスに阻まれていて、誰から見ても立ち入り禁止だということがはっきりとわかった。同時に、足元の草やボロボロのフェンスから見て、長らく誰も訪れたことがないことがはっきりとわかる。
「うわぁ……見た目だけで震えてきちゃうなぁ」
助手席からは、俺達三人の友人の紅一点、同時にこの肝試しの企画者である佐山香織が降りて俺の隣に並ぶ。震えてくるとか言っておきながら、顔からは好奇心が溢れているのが見て取れた。この企画を立案するくらいだし、オカルト系の話が大好きだと公言している時点で、もしかしたら三人の中で一番肝が据わっているんじゃないかと思う。
「…………」
そして三人目の友人、木下卓が後部座席から降りてくる。物静かで、本ばかり読んでいるような奴だ。スポーツもしてるというわけでもないし、ぶっちゃけ俺と香織に振り回されている印象しかない。けれど、こいつは俺達には無い、ある物を持っているという。
霊感体質。曰く付きのある場所に行くと、すごい鳥肌が立つと言う……らしい。まぁ、俺はそんなの見たこと無いし、そもそも俺自体、幽霊を信じている訳でもない。そんなわけだから、俺は卓のことを影で『自称霊感体質』と呼んでいたりする。
けど、そう言っていながら俺自身、こいつのことは嫌いじゃない。大学の田中教授にもお墨付きのお人好しで、俺達に何だかんだで付き合ってくれているし、俺と香織の仲裁役にもなってくれる。今回の肝試しだって、俺と香織が危ない目に合って欲しくないと言って、本当は恐がりなのに付いてきてくれているし。卓から見ればどうかわからないけど、俺にとってはいい友人だと思っているよ。
「……見た目からして間違い様はないだろうけど、ここで合ってるんだよな?」
「うん、間違いなし。ちゃんと寛の車のナビにも目的地登録しておいたし」
寛、というのは俺の名だ。高山寛。三人でいつも俺が前に出て行動することが多い。
まぁ、そんなことはどうでもいいか。何にせよ、ここが肝試しの舞台で間違いない。
「で? 何か感じるか、霊感体質さん?」
言って、俺は少し笑いながら卓へと振り返った。
そんな卓はというと……。
「……な、なぁ」
「あん?」
人畜無害そうな顔は青白く染まっていて、旧校舎を見て目を見開いている。そして、震える声で言った。
「こ、ここやべぇって。入らない方がいいぜ?」
それを聞いて、俺は呆れた。冗談じゃねぇよ、ここまで来るのにどんだけガソリン使ったと思ってんだ。
「何言ってんのよ。せっかく来たのに無駄足になっちゃうじゃない」
膨れっ面のまま言う香織に、俺も同調する。
「そうそう。それに、まだ入ってもねぇのにそんなのわかるのかよ」
「そんなに怖かったら車の中で待っててもいいよ? 大丈夫だって、ちょっとお邪魔したらすぐ帰るし」
香織の言う“ちょっと”は大体一時間か二時間なんだけどなぁ……。
「い、いや、でもさ……」
「ほらほら、ごちゃごちゃ行ってないで、さっさと入ろうぜ? 日が昇っちまうよ」
と言っても、まだ日付跨いだばっかりだから、まだまだ日なんて昇らないけどな。
「そだね、行こ行こ」
「ま……待ってよ! 俺も行くよ!」
フェンスをどかして入って行く俺と香織。そいて、まだビビってるようだったが、卓も慌てて後を追ってきた。一人で待たされるのが怖かったのか、或いは俺らを心配してか……両方かな? まぁいいけど。
「で、結局ここはどういう場所だっけ?」
草で生い茂った、元は校庭だった場所を歩き、建物に近づきながら俺は香織に聞いた。香織は手元のスマホを操作し、情報が書かれた掲示板を見る。
「まぁありきたりだよ。元々生徒が少なくて廃校寸前だったらしいんだけど、教師が金銭トラブルから同僚を殺したり、生徒がイジメを苦にして屋上から飛び降り自殺したり、トドメには学校の先行きがないことに絶望した校長が校長室で首吊った……そんな不幸が積み重なって、結局学校は閉鎖。曰く付きの場所として地元の人達も近づかなくなって放置されたんだって」
「幽霊の目撃は?」
「んー、なんか窓から人の影が見えたとか、笑い声が教室から聞こえてくるとか、そんな感じ。結構普通だよねぇ」
「ふ、普通ってなんなんだよぉ」
香織の説明に、後ろの卓が情けない声を上げた。俺は先頭に立ち、懐中電灯で前方を照らしながら、校舎の入り口へと入って行く。近づいてわかったけど、校舎の壁は蔦やら何やらの植物が張り巡らされていたり、劣化してボロボロになっていたり、窓もほとんどが割られている。周りの木々のざわめきと、照明一つない夜の暗さが合わさって、何とも言えない雰囲気が出ている。これは出てきてもおかしくないな。まぁ、どうせ出ないだろうけど。
そうして俺らは、校舎の中へ。まず目に入ったのは、昔ながらの木製の下駄箱。古ぼけていて埃を被ってるだけでなく、板が外れていたり所々割れていたりと、使い物にならないのがはっきりわかる。そこからさらに奥へ入ると、床の木の板がギシギシいって今にも割れそうだ。現に床に所々穴が開いているし。壁も崩れていたり、天井の蛍光灯がぶら下がっていたりと、外見だけでなく中もひどい有様だった。懐中電灯の光の中で細かい埃が宙を舞う。
「すげぇなこりゃ。どんだけ時間が経ってんだ?」
「まぁ十中八九平成よりも前だよね。昭和? 下手したら大正かも? そんなわけないか」
「……な、なぁやっぱり帰ろうぜ?」
「なんだよ卓、もうベソかきそうになってんのか?」
そんなことを言い合いながら、俺達は進んでいく。外は夜なのに蒸し暑い気温だったのに、中はやたらとひんやりしている気がする。ギシギシと軋む床を細心の注意を払いながら歩き、途中割れた窓の向こうに広がる教室を覗き込んで、そこの雰囲気に皆でやいやい言ったり、懐中電灯の明かりを使って自分の顔を下から照らして卓をからかったり、それを香織に窘められたり。俺達はそんな風にはしゃぎながら、旧校舎を探索していた。
「そういや、この中で一番怖いところってあるのか?」
一階はほぼ探索し尽くして、二階と三階も大体歩き回った。今俺達がいるのは、3階の下り階段前。俺は香織にそう聞いた。
思えば、これが間違いだったんだ。俺が聞かなかったら、あんなことにはならなかったんだ。
「うーん、そうだね……あ、あったあった」
香織はスマホをスライドさせていき、俺の言う怖いところというのを見つけたようだった。
「今いる3階だね。三階の廊下の端にある教室。詳しく書かれてないけど、掲示板曰く『ここが一番やばい。近寄るな』だって」
なるほど……あえて詳しく書かないことで、未知の恐怖を煽るってわけだ。
「いいね、じゃあそこ見てから帰るか。そろそろ疲れたし」
「そうだねぇ。あーあ、結局何にもなかったし」
「ちょ、ちょっと待って! ホントに行くのかよ!? もうこの階にいるだけでやばいっていうのに!!」
卓が、今この階に来る前よりも青白くなった顔で慌てた。
「だーい丈夫だって。その部屋見たら終わりだからよ。さ、行こうぜ」
「おー!」
「あぁぁぁぁ、マジかよ……」
俺の後を元気よく付いてくる香織と、頭を抱えたまま続く卓。そんなに怯える必要もねぇだろうに。まぁ、暗いし、ここまでボロいと卓みたいな怖がりな奴は震えちまうのも無理ないよなぁ……今度何かお詫びに奢ってやるかな。
そう思っていたら、割と距離があると思っていた端の教室まで来た。見たところ、今までの教室と大差ない……と、思っていた。最初は。
窓が、塞がれていた。段ボールを貼っただけの、簡易的なバリケード。それだけなら別に疑問に感じなかったんだけど、俺はおかしいと思った。
ここ以外の教室の窓も、大体が割れていた。なのに、それらは全部無造作に放置されていた。つまり、処置も何もされないで割れたまま。せいぜい剥がれかけたセロハンテープでヒビを補強した程度。なのに、ここだけやたら段ボールが張られている。それも二重どころか、三、四重にもしているようにも見える。最も、その段ボール自体も相当古くなっていて、ほとんど機能していない。
けれど、何だろう。ここまで執拗にバリケードを設置するような理由があるのか? この教室だけ。
なんだか……まるで……。
「……なんか、中に封じ込めてるみたいだね」
俺が考えていたことを、香織が口に出した。
「……っ……っ」
その後ろで、卓が過呼吸を起こしかけているのが目に入った。俺は心配になって、「車に戻っとくか?」と聞いたところ、
「だ、大丈夫……二人を置いていけない」
なんて言うもんだから……ここで俺らが戻れば、万事解決だったんだけど、後に引けなくなった俺たちは、教室に入る事にした。
けど……俺は教室の扉に触れようとした時、思わず小さな悲鳴が上がった。
よくわからない文字が書かれたお札が、びっしり貼られている。引き戸の取っ手に、1枚2枚なんてどころじゃなく、重ねるようにしてたくさんの札が貼られていた。かなり古くなっていて、数枚はほとんど破れていた。
それを見た香織も卓も、俺と同じように絶句していた。卓なんて、もう倒れそうになっているし。
「は、はは、誰がこんな悪戯、真に受けるかよ」
けど俺はというと、バカなことに札を引き剥がしていくという愚行を犯してしまった。この時の俺は、この校舎に先に訪れていた輩が、後から来た奴ら、つまり俺らのような人間をビビらせるためにこんな物を用意していたんだと考えていた。
最初にここに訪れた時に、長い間誰も来た形跡がないということを知っていたっていうのに、だ。本当にバカなことをしたよ。
俺が札をビリビリ剥がしていくのを、卓だけでなく、香織も危機感も覚えて「やめときなよ……」と青い顔をして止めてきた。けど俺は、もう部屋の中に何があるのかが気になって仕方がなかった。ここまで厳重に札を貼ってるんなら、それ相応の物があるんだろ? だったらそれを拝んでやろうじゃねぇか……そう考えていた。
札を全部剥がし終え、俺は引き戸の取っ手に手をかけた。
「よし、開けるぞ……」
「ほ、ホントに開けちゃうの……?」
さっきまでノリノリだった筈の香織が、恐る恐ると聞いてきた。
「何だよ、お前まで卓みたいなこと言うのか?」
「だ、だって、見るからにやばいじゃん、そのお札。剥がしちゃったら何が起こるかわかんないし……」
「んなもん悪戯だよ悪戯! 手の込んだ真似しやがって、俺を舐めんじゃねぇよ」
正直、何で俺はここまでムキになっていたのかわからない。単純にこの時は、こんな手の込んだ悪戯を仕掛けた奴に対して怒りが湧いていた。
だから引き留める香織を無視し、俺は扉をそっと開いていく。
まず最初に、俺は顔だけ中に入り、懐中電灯で中を照らしながら覗き込んだ。中は教室……だったんだろうが、机と椅子が並べられていなかった。他の教室は、机か椅子が壊れていて使い物にならなくなっていた物が無造作に放置されていたり、教室の後ろ側に雑に積み上げれていたり、中には整然と並べられていたりと、教室としての名残が残っていた。
けど、ここは妙だった。普通に空き教室だったと言えば納得できるだろうが、俺にはとても単なる空き教室だったとは思えない。
机と椅子が、まるで教室の中心を囲うかのように積み上げられていたんだ。それだけなら別に大したことないんだが、それが綺麗な円形を描くような形になっていた。円の中心には、何故かわからないけど他の机と同じ木製の机がポツンと置かれているだけ……けれど、まるでその机だけが、俺には不気味に映った。
一見すると何の変哲もない、ただの机のはずなのに。他の机に取り囲まれているような形で配置されているからなのか、この教室の雰囲気そのものがそう映させているのか、どうなのかがわからない。
俺が慎重に歩きながら先頭に、その後ろを香織と卓が続いて入ってくる。積み上げられた机と椅子を避けながら、教室の中へと足を踏み入れた。
「……何ここ?」
香織が疑問を口にする。中の様子もそうだけど、この教室だけ妙に雰囲気が違う。中心に机が置かれた円形の空間へ近づくにつれて、何だか、背筋から凍えそうな……胸の奥がざわつくとか、妙な感覚。不快な気分が、俺を襲った。多分、他の二人もそうだろうと思う。
「何か、ここだけ、雰囲気違うよな……なぁ、ここ絶対やばいって」
後ろで卓がビビりながら、俺らに警告する。しかし、俺はそんなの聞いちゃいなかった。
「は、はは、何だよ、ただ単純に汚い教室なだけだろ? 曰く付きっていうから、何か怪しい物があったりすると思ってたのに、何にもねぇじゃねぇか。あるのは普通の机だけで、それっぽく見せてるだけだろ?」
いまだビビっている二人に、俺は努めて陽気に振る舞った。俺だって、内心ビクビクだった。早くこっから出たい、帰りたい、そう思っているのに、俺は何故か強がってそう言っている。
どうなってるんだよ、この教室に近づいてから、何だか俺、変だ。これじゃまるで、俺が俺じゃないみたいじゃないか。
そして俺は、俺の意思に背くかのように、中心の机に歩み寄った。近づいてみても、他の机と何ら変わりはない。ただ、唯一違う物があるとすれば、埃を被った机が、どうも傷だらけなような気がする。まぁ、ボロいのは他の机も一緒で、この机の持ち主が机を大事にしなかったんだろう。俺はそう思った。
それよりも、机の中の空間。ここには教科書やらを入れるための隙間があるはず。屈んで見て、それらしき物があるかどうか確認する。
あった。懐中電灯で中を照らしてみた。
「……お? 何かあるぞ」
机の中に手を突っ込み、中にある物を手に取った。
「ちょ、ちょっと! やばいって!」
香織が止めにはいるが、俺は聞かずにそれを手に持ち、見てみた。
「……何だこりゃ? 石ころ?」
掌にすっぽり収まるサイズの平たい小石。ツヤがあり、懐中電灯で照らすと、光を反射する程にツルンとしている。磨いた黒曜石みたいだ。
「ってか、これだけかよ? 他なんかねぇの?」
俺は机の中に、他に何か珍しい物がないか探してみた。
「グヒヒ」
……なんか、耳障りな声で笑われた。卓の野郎。
「……おい、卓。こんな時に変な声で笑うんじゃねぇよ」
俺は机を漁りながら、犯人だと予測している卓に俺は声を荒げた。
「え、俺笑ってねぇよ」
「嘘つくんじゃねぇよ、変な声で笑いやがって。こんな状況でからかってんのか?」
「だから違ぇって!」
「グヒヒ」
「違ぇって言いながら笑ってんじゃねぇよ!!」
漁るのをやめて後ろを振り返る。卓は相変わらず青白い顔をして、必死に否定していた。
「違うよ! 俺は何も!!」
「だからぁ!!」
「待って、寛!!」
言い争い始めた俺達二人の間に、香織が立った。中断されて、頭に血が昇っている俺は香織に怒りの矛先を向ける。
「んだよ!」
「……卓、笑ってないよ」
「……あ?」
「私、卓の隣にいたけど、笑ってなかったよ全然……」
「……じゃあ、お前か香織?」
「そんな訳ないでしょ!? あんな笑い方、私がする!?」
香織が力強く反論したけど、じゃあ、あの笑い声は誰だよ。俺と、卓と、香織以外の人間なんて、この場にいないのに……その疑問点で、俺は一杯になった。
「じゃあ……」
そして俺は、そのことを口に出して二人に問おうとした。
その時、ふと俺の右肩が何か暖かい物に触れた。
何だ? そう思って、俺は右肩に手をやってみた。
「うげっ!?」
ぬちゃり。そんな粘着質な音をたてながら、離した手から糸を引く液体が肩にかかっていた。鼻を近づけて見れば、なんだか肉が腐ったような、それに近い生臭さを感じた。
「んっだよこれ! 途中で何か変なのに肩が引っかかっちまったか!?」
払うようにして液体を落としながら悪態をついた俺は、帰ったらクリーニング出さなきゃなぁと思いつつ、二人に向き直った。
二人は、俺を見ていなかった。二人揃って、目を見開き、口を魚のようにパクパクさせて……俺の、頭上に目を向けている。
「……何? どしたん?」
二人の顔色がより一層、悪くなっているのを見て、俺はさすがに尋常じゃないと気付いた。卓が、指を指す。俺の頭上、二人が目を向けている先を。
俺は、卓の指の先を辿り、上を見上げた。
見なきゃ、よかった。
だって。
「グヒヒ」
ゴワゴワした異様な長さをした黒い髪、顔の上部分の殆どを覆う程の殆ど黒目しかない大きな目、両端が裂けたかのような巨大な口、三日月のように歪められた真っ赤な唇をしたその口から黄色い歯と歯茎が露出されて、そこから粘ついた液体を止めどなく垂れ流している……明らかに人間のそれじゃないとわかる程の長さの白い手足で天井に張り付いた化け物が、そこにいたからだ。
「きゃあああああああああああああああああああああ!!!」
香織が絹を裂いたかのような叫び声をあげた。その顔は恐怖に歪んでいる。卓は尻もちをつく形で腰が抜け、俺は呆然と見上げているだけだった。
「な、なんだよ、こいつ……!?」
一歩二歩、後ろへ下がる。さっきの威勢は消え、俺はただただ、目の前の化け物に慄いていた。
硬直する俺達。そんな俺達の前に、化け物は天井から落ちて来る。
ドスン。重い音をたて、背中から落ちてきた化け物は、俺達にその不気味な黒い目を、ずっと変わらない醜悪な笑みを向けながら、ゴギリ、グギリ、首と背中の骨と肉を回転させ、カクカクした動きで仰向けの状態から四つん這いの状態へと、体を変形させていく。その時初めてわかったけど、強烈な生臭さを放っていると同時に、その音と姿が、さらに吐き気を催して仕方なかった。
ただただ醜い。ただただ気持ち悪い。この世とも思えない、異様な姿。手足があって人としての体の形は成しているようでいて、人の身体からかけ離れた存在だった。
「うあああああああああ!!」
「いやああああああああああ!!」
生理的嫌悪、未知への恐怖、それらが俺の口から絶叫となって飛び出し、そして体を動かす原動力となった。真っ先に駆け出した俺、そして続く香織。脱兎の如く、俺たちは教室から逃げ出した。
「ま、待ってくれよおおおおおおおおおお!!」
その後ろを、腰を抜かしていた卓が追いすがる。気にしてなんかいられない。俺はもう、振り返らずに逃げることに全力を注いだ。
あの化け物は追ってきているのか? 香織と卓はついてきているのか? そんなこと、俺は考えていなかった。考える暇すらなかった。
無我夢中で走っていると、校舎を出ていた。雑草まみれの校庭を走り、フェンスを越えて、愛車の運転席に駆け込む。キーを回してエンジンをかけようと、
「あ、あれ!?」
エンジンが、かからない! 何度キーを回しても、エンジンは空しく音をたてるだけで、始動しない。
「お、おい、なんで、なんでだよ!?」
「はやく、はやくエンジンかけてよ!!」
後から来た香織が、助手席に乗り込んで叫んだ。その顔はいまだ恐慌状態で、俺を急かす。
「んなことわかってるよ!! かかんねぇんだよ!!」
焦りと恐れと怒りが入り混じって、俺は叫ぶ。早く、早くかかれよ! 早くしないと化け物が来ちまうだろうが!! そう念を込めてエンジンキーを回し続けた。
「お、置いていかないでくれぇえええええ!!」
車の外から卓の声。卓もまた、大急ぎで車の後部座席の扉を開け、飛び込むように乗り込んだ。
その瞬間、まるで卓を待っていたかのように、エンジンキーから手応えが。エンジンが始動した。俺は、喜びも束の間、全力でアクセルを踏んだ。
車のタイヤが回り出し、全速力で前へ走り出す。俺は、ライトに照らされた前方の山道から、ふとルームミラーへ目を向けた。
化け物が、入り口で四つん這いの状態のままこちらを見ていた。醜悪な笑顔のまま。けれどそこから動かず。だんだん遠く離れていき、その姿が見えなくなったと思ったのに。
「グヒヒ」……そんな笑い声が、耳に届いたような気がした。
それからの事は、あまり覚えていないし、思い出したくない。唯一わかるのは、あの後、車をかっ飛ばして国道に降りてから、SAにも寄らずにそのまま高速で帰宅したくらいだ。その間、俺達に会話はなかった……と、思う。何せ覚えてないからな。
香織と卓を家まで送り届けて、俺も家に帰って布団に入った……けど、眠れなかった。あの化け物が現れるんじゃないか、あの化け物が窓から俺の部屋に侵入してくるんじゃないか……そんな恐怖が、一晩中俺を蝕んだ。
それから、俺達はあの日のことを話題には出さなかった。一刻も早く忘れたかったから。
一日、二日、三日、そして一週間……少しずつ、俺はあの夜のことを忘れていくことができた。今でもふと思い出して身震いはすれど、それだけだ。完全に記憶から消し去りたいっていう気持ちはあるけど。
ただ、香織から妙な話を聞いた。あの情報を提供してくれた掲示板が、削除されていたんだそうだ。というか、元から無かったかのように、その掲示板は消えていたという。俺は、その掲示板の主が何かしでかして、管理人に削除されたんだろうとしか思えなかった。
香織は、「そう、だよね」と言っていたが、あまり納得はしていなかった様子だった。それ以来、あまりオカルト系の話題を出すようなことはなくなった。実際に目の当たりにして、その恐怖を刻み付けられたからかもしれない。
そして、俺達は夏期講習の時期に入った。暑い日差しの中、うんざりしながら大学まで行って講義を聞きに行くのは、本当にうんざりだった。
けど、どうも気になることができた。卓だ。
俺と香織はともかく、あの卓がやたら活動的になったんだ。別に元から根暗っていうわけでもなかいし、コミュ力だってないわけじゃなかった。けど、以前よりもよく笑うようになったし、大学のイベントにも積極的に参加するようになった。
何かいいことでもあったのかと思って、俺は講義の時、卓の隣に座ってそれとなく聞いてみた。
「なぁ、最近お前変わったよな? 明るくなったっていうか……」
言って、俺は卓を見る。いつもの気弱そうな笑みを浮かべるだろうと思っていた。
大きな目に大きな口の醜悪な笑顔だった。
「うわぁっ!?」
何で、何で!? 何でこの顔が!? 何でぇ!?
「わ、何だよ突然!」
「……へ?」
が、もう一度顔を見れば、そこにはいつもの卓の顔。驚き、俺を見ているいつもの卓だった。
思わず立ち上がって大声を出した俺を、周りの人たちが訝し気に見ていた。居た堪れなくなって、愛想笑いを浮かべながら、俺はゆっくりと着席。やべぇ、恥ずかしすぎて死ぬ。
「どうしたんだよ寛? 急に大声出したりして」
「わ、わりぃ。何か、疲れてんのかもしれねぇ……」
そ、そうだな。疲れてるんだよな。それでいまだトラウマになっているあの顔と卓が重なっちまったんだ……早く忘れたいと思ってんだけど。
「しっかりしてくれよ? ストレスで倒れたりして付きっ切りで看病とか勘弁だからな?」
「香織ならともかく、こっちから願い下げだよバカやろ」
そう言って、俺達は笑い合った。そうだな、今度しっかり休んで、疲れを取っちまおう。そうして、早いとこ本当に忘れちまおう。俺は固く決意した。
「さて、そろそろ講義始まるな……あ」
「ん? どしたの?」
「わりぃ、赤ボールペンのインクが切れてた。貸してくれねぇ?」
申し訳なく思いつつ、俺は卓に聞いてみた。
「しょうがねぇなぁ。大事に使えよ?」
「わぁってるって」
何だかんだで貸してくれる卓に、俺は笑って返事をした。ガチャガチャと筆箱を漁る卓。その時、筆箱から何か出てきた。
「あれ、何か出てきたぞ?」
俺はそれを手に取ろうとして、止めた。
あの教室で見つけた石ころだった。
卓の筆箱から、あの石ころが出てきた。
何であの石が、ここにあんの?
何で?
なんで?
ナンデ?
「グヒヒ」
完