暗雲
「あの、リューン様、これは、いったい、」
ベッドの上に寝かされて、そしてその上からリューンが覆いかぶさってくる。両の手首は頭の上で押さえられ、動くことができない。
「さあ、言え。さっきの男は一体誰なんだ?」
ムイは息のかかる距離にあるリューンの顔を、まじまじと見た。
「……あの方は、国王陛下の宰相の一人、リアン様の使い手の方です」
「使い手?」
リューンが眉根を寄せて、問う。
「はい、リアン様の手足となって行動される方です」
「それが、お前に何の用だ。まさか、国王に言われて、この結婚式をぶち壊しに来たのではあるまいな」
「いえ、違います」
ムイは、ほう、と溜め息をついた。
「私の名前を、手に入れようとしているのです」
「お前の真の名前を、か」
「はい。ハイド様には私がブァルトブルグ城にいる時から、声をかけられておりました。リアン宰相のお役に立つように、と。私が断ると、とても恐ろしいお顔をされるので、私は苦手に思っておりましたが」
「だが、お前の真の名前はもう、」
「はい、もう捨てました。覚えてもおりません。なので、何の力もありません。ハイド様にもそう伝えました。もうブァルトブルグ城にお戻りになったかもしれません」
「そうか、それなら良いのだが」
リューンが退いた。起き上がると、そのままムイの足をさする。
「捻ったところは大丈夫か?」
優しい声に、ムイも半身を起こしてから、「大丈夫です」と言う。
リューンがさすった足を見ると、少し腫れて熱を持っているようだった。
「薬を持って来させよう」
ベッドから立ち上がり、部屋から出ていった。廊下でローウェンを呼ぶ声が響く。
ムイは、ごろんと横になると、目を瞑った。脳裏に蘇るのは、ハイドの不気味な笑顔。
(……このまま何ごともないといいけれど)
ムイは結婚式の疲れもあってか、戻るリューンを待たずに、そのまま眠ってしまった。
✳︎✳︎✳︎
「そんなことは初耳だが、」
「まだムイの耳には入れてはおらぬからな」
ハイドの尊大な態度に辟易しながら、リューンはイライラとする気持ちをなんとか抑えた。
夕食の前、食前酒を飲んでいる時、ローウェンが怒り心頭で部屋へと入ってきた。
「リューン様、お客様ですが追い返しても構いませんか?」
「こんな遅くに一体、誰なんだ?」
苦笑しながら、問い返す。
「宰相リアン様のお使い、ハイド様と名乗っております」
一気に気分が悪くなった。追い返したい気持ちはローウェンと同じではあったが、国王陛下の城からやってきたとなれば、それを行使するのは難しい。
「わかった、会おう」
ムイには見つからぬよう、いつもは使わない部屋に通す。夜遅い時間ということもあり、もてなしの宴は不要と判断した。
「……それが一体、何だと言うのだ?」
「リューン殿、何度も同じことを喋らせるな。どういうことかはもうお分かりだろう」
「…………」
「ムイの父親がブァルトブルグ城におられるのだから、ムイをこちらに渡していただくのは道理であろうと言っているのだ」
「それは、」
ハイドがリューンの言葉を遮って、言う。
「国王陛下の命令でもある」
リューンが眉をひそめた。
「証拠はあるのか」
「何?」
「それが国王陛下の命だということと、ムイの父親がブァルトブルグ城に滞在しているということの、二つの証拠だ」
ハイドの顔色は変わらない。鉄面皮とはこういうことかと、リューンは苦く思った。
「証拠などは必要ない」
「だったら、ムイを城へはやれない」
強気で出るのは、ムイをもう妻にしているからだ。その思いが透けて見えたのか、次にはハイドが薄く笑った。
「証拠というなら、あなたはどうだ?」
「何の話だ」
「結婚したとはいえ、領民の前で歌を歌っただけだ。国王陛下の許可状もないのだろう。ムイがあなたの妻というなら、その証拠を見せろ」
かっとなった。抑えていた怒りが沸々と湧き上がり、全身を震わせた。
「元国王陛下の歌姫が、このリンデンバウムの地、その領民の前で歌を披露したのだぞっっ‼︎ これ以上の証明がいったいどこにあるというのだっっ‼︎」
テーブルをどんっと右手で叩く。握った拳が反動で跳ね上がった。
「ムイは俺の妻だ。国王陛下だろうが宰相だろうが、どなたにも渡す気はない」
けれど、ハイドはそんなリューンの激怒を物ともせず、すっと立ち上がった。
「……あなたがそうは言っても、ムイはどうだろうな」
「なにっっ」
「ムイの父親がいるのなら、城に戻ると言うのではないか、と言っている。ムイに尋ねてみろ」
荷物を掴むと、ハイドはドアのノブに手を掛けてから、振り返って言った。
「ムイの父親は、ムイの真の名を持っている。けれど、彼はその名前だけは容易には渡さないのだよ。真の名前とは、その行使者であるムイがいないとその存在意義はない。ムイがこちらに来ないなら、それを知る父親の存在意義もないということだ」
「……ムイを、俺たちを脅す気か」
「どうとでも」
ドアを開ける。そして、部屋を出ようとして足を止めた。
「そうだ、ムイの父親の名前だが……リーアムと言う。自分の名前だけは、すんなりと白状したのだがな。その名に身に覚えがないか、ムイに尋ねてみろ」
そして、ドアをバタンと閉めると、廊下を足早に歩いていった。廊下に響くハイドの足音が、いちいちリューンの胸をえぐってくる。
その胸に、どす黒い暗雲があっという間に覆っていった。
「……胸糞の悪い」
くそっと再度テーブルを叩くと、握った拳にじんっと痺れが走った。




