結婚の前
「シバ、本当に久しぶり。元気だった?」
「ええ、元気よ。ムイは?」
「どこも悪くない」
笑うムイの顔を見て、シバはその銀色の前髪を揺らしながら、ほっと溜め息をついた。宝石のようなグリーンの瞳を伏せて、シバは言った。
「良かった。私、ほっとしてる。ムイ、あんたはあの頃本当に、酷い有様だったもの」
「あの頃」とは、リューンに迷惑を掛けまいとしてリンデンバウムの城を離れ、遠縁に当たるブリュンヒルド城の領主シーア=ブリュンヒルドの孫ライアンに連れられて、国王のいるブァルトブルグ城に行った頃だ。
ムイは国王の元で二年、歌姫として国王のお抱えの楽団に在籍していた。
けれど、それだけではなかった。
ムイは初めてリューンの元へやって来た時、声を出すことも喋ることも出来ず、自分の名前を持っていなかった。「ムイ」とはリューンがつけた呼び名だ。
けれど、実はムイには隠さなければならない真の名があった。その名は特殊な力を持つ名前だったのだ。
リリー=ラングレー
その名のもとに命令するだけで、人を思い通りにできる。
「ムイとやら、顔を上げろ。お前が本当に真の名を持つ女なのか?」
国王の前にひざまづいたムイは、その地響きのように低い声に身体を縮こませた。隣にライアンが居なければ、その場から逃げ出していただろう。
ライアンが、恐れながら、と話を始める。
「この者は、口をきくことができません」
実際は、ムイが喋れることを知っているライアンの気遣いに、心を打たれた。ムイを、自分を庇っているのだ。
国王が、言葉を荒げた。
「なら、どうやって名前の持つ力を行使するのだ?」
「そ、それは……」
ライアンが口籠ると、国王の表情はさらに怒気を含んだ。
「役に立たん者を連れおってっ‼︎」
吐き捨てるように言った言葉で、ライアンの身体がすくむ。もちろん、ムイの身体にも力が入り、そしてその迫力に震えを走らせた。
ライアンの隣には、ライアンの祖父であるシーア=ブリュンヒルドも座している。一領主の前であっても声を荒げることのできる国王の絶対的な存在に、ムイは恐れ慄いてしまった。
(このお方が何か言えば、すぐにその通りになってしまう)
太く低い国王の声に、権力という名の凄まじい力を感じたのだ。
ムイはすぐに横に並んで膝を折っているライアンの手のひらを取った。その手のひらに、指で文字を書く。
ライアンが怪訝な顔をしながら、それを見る。
そして、国王の方へと向き直ると、ライアンは慎重に言葉を選びながら、ムイの言葉を伝えた。
「ソフィア様にお会いしたいと申しております」
「なに」
ギロッと睨まれ、ムイはさらに姿勢を低くした。
ソフィアとは、国王陛下の妃だ。長年、病に臥せっており、名のある名医たちも匙を投げたと言う。
「ソフィアの病気を治せると言うのか」
国王は立ち上がって言った。
「だが、言葉を話さずにどうやって、お前の名を使うのだ? わしが欲しいと言ったものは、病を治すことのできる、真の名を持つ者、だ」
国王は、立ち上がった場所から、ライアンを見下ろした。
「まさか、手に入れるまでに、こんなに時間がかかるとは思いも寄らなかったがな」
抑えた声が、天井の高い広大な部屋に響く。
「いいだろう、ソフィアを治せ」
言い放って、部屋へと戻っていった。
ムイは、ふううっと細く息を吐くライアンと、苦く笑いを浮かべたシーア=ブリュンヒルドを見て、唇を結んだ。
「ムイ、大丈夫か?」
ムイを気遣うライアンの声も遠くに聞こえるような気がしたが、ムイは必死で自分を保った。ここで気を失うわけにはいかなかった。
ムイは改めて、ライアンたちをこのまま無事に帰さなければいけないという使命感を感じたのだ。
ムイが少しの間、そうして回顧していると、シバがムイの様子を見て、話し始めた。
「それから、ムイはパパッとソフィア様のご病気を治しちゃって。私たち楽団の者もみんな驚いていたけど、陛下が一番びっくりなさっていらっしゃったわね」
ムイは、こくんと頷いた。
「実はムイが喋ることができると聞いて、陛下の怒りを買ったじゃない。でも、そう告白したのがソフィア様を治した後で良かったと、みんな思ったわ」
「そうね、陛下を怒らせたら、生きて帰れないくらいだもの」
「うそうそ、そんな暴君じゃないわよ。ムイだって相当、可愛がられていたじゃない。それに、こうして結婚だって」
慌てて口を噤んだシバを見て、ムイは苦笑した。
「ふふ、」
国王に許されていないということは、重々承知だった。
楽団に在籍している間、何度もリンデンバウムに帰りたいと懇願しても、だめだ、許さんの一点張りだった。
だから、ローウェンが画策し、トレビ領主の次女サリー=トレビアヌの心の病を治すという理由で、遠出の外出を許可してもらえたことを、ムイは一生恩にきるだろうと思った。
最初は、ひと目だけでもリューンの姿を見られればいいと思っていた。リューンがサリーと結婚することとなるとしても、それでももう一度だけ、リューンに会いたかった。
この時、ムイはリューンと再会し、お互いへの強い恋慕の情によって、結ばれたのだった。
「シバ、私は陛下に許されなくても、私はリューン様のお側にいる」
強い意志が、言葉に宿った。
その言葉を聞いて、シバは腰に手を当てると、「ムイはいつもそう言っていた」と笑った。
そして、二人は懐かしさに埋もれながら、抱き合った。




