1本目「傘総理」
一.傘総理
ミツオは雨が嫌いだった。
空は暗くなるし、電車は遅れるし、何より服が濡れる。朝降れば一日中邪魔な傘を持ち歩く羽目になるし、昼降れば外回りに影響が出るし、夕方以降に降ればこの通り……家に帰る事もままならない。
バケツをひっくり返したという表現が冗談にもならないような豪雨をため息と共に見つめながら、シャッターの閉まった商店の軒下で雨宿りをしているスーツ姿の男、彼こそがミツオだ。
三十年ローンでようやく建てたマイホームは会社から一時間半の郊外の駅よりさらに十五分は歩く距離にある。十代のころなら笑いながら家まで走っていただろうが、今着ているスーツは明日も着るものだし、カバンの中には明日の会議の資料が入っている。どちらも水浸しにするわけにはいかなかった。
一縷の望みを託して家にかけた電話にはもうすぐ五歳になる娘が出た。
『おかーさん、ふぃっとねすだよ』
分かってはいたが、今日は妻が隣町のフィットネスクラブに通う日だ。これだけの大雨なら、と淡い期待をしていたのだがどうやら彼女が家を出た時点ではまだこんな雨は降っていなかったらしい。まあ入会時に『なんとしても元は取るから』と息巻いていた彼女のことだから、ひょっとしたら雨の中でも強行していたかもしれない。
「ゲリラ豪雨と言うんだっけか、こういうの」
水の散弾を受けて穴だらけになりそうなアスファルトを見つめてミツオは呟いた。
せめて傘があればと思ったが、この軒下を出て数十メートル先に見えるコンビニに辿り着くまでには取り返しのつかない濡れ具合になるのは疑いようのない雨量である。
「はぁ、じゃあ収まるまで待つしか」
そう言いながら暇つぶしにと開いた仕事用の古い型の携帯には、
『大雨、深夜までの見込み』との文字ニュースがミツオの気力ごと持ち去るように、右から左に流れて消えた。
「どうしろって言うんだよ……」
雨は止まず、嫁は帰らず、コンビニは遠く、まさに万策尽きたミツオの、がっくりと落ちた肩越しに指す光があった。
「あれ?」
振り返ると、雨宿りしに軒先を借りていたその商店の窓から明かりが漏れている。
この街に来て以来、一度も開いたところを見たことがなかったのでとっくに廃業しているものだと決めつけていたのだが、田舎特有のアバウトな開店サイクルに会うことがなかっただけなのかもしれないと思い店の看板を見る。
〈傘のハリモト〉
なるほど、とミツオは手を叩く。この豪雨を見て開店休業の、いや、ヘタをすると閉店していた店の主人が在庫でも売り払おうと店を開けたに違いない。となれば、多少足元を見られようと、どんなにボロかろうと傘が手に入るのだ。古かろうと傘は傘。加減にもよるが多少のぼったくりは覚悟の上だ。天の導きとばかりにミツオは扉を開ける。ガラガラと音を立てて開く扉に、はて、さっきこの店のシャッターが開く音を聞いたっけと一瞬だけ思って、黴臭い店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃい、何をお求めだい」
後ろ手に入り口を閉めるなり、店の奥からかけられた声にミツオは体をこわばらせる。
薄暗い店の奥から声をかけてきた店主らしき老人の手に握られていたのも傘ではなく杖だった。
「あ、ええと、ここ傘屋さんですよね? あの、傘が欲しいんですけど」
傘屋というものの傘は見当たらなかった。昔はあったのだろうか、空の棚や傘立て、展示するためのポールのようなものが薄く埃を被っている殺風景な店内に、いよいよこれは廃業済みの店ではないかとミツオは考える。
ミツオの要望に、店主は間をおかずぶっきらぼうに聞き返した。
「何を遮る傘だい」
どんな、ではなく何を、と尋ねられて一瞬ミツオは答えに窮するが、「遮るもの」という表現に傘の役割に思いを巡らせて気づく。なるほど、傘というのは一種ではなかった。質問の意味を理解して、ようやく答える。
「ああ、雨です雨。雨傘をください。まさかこんな大雨の日に日傘なんて言わないですよ」
「ふむ、あいよ」
そう答えた店主が店の奥に消えるのを見ながら、もしかしてうまく騙して日傘を売りつける気だったのだろうかと考えてミツオは身を震わせる。知らずに掴まされた日傘を意気揚々とこの豪雨の中でさしたならどんなことになるだろうと恐怖したが、そもそも日傘がどの程度雨の中で使えるのかなど知らなかったので、それは大分ぼやけた想像に終わった。
「あいよ、今うちにある雨傘はこれだけだ」
「はぁ?」
闇の奥から浮かび上がるように出てきた店主が差し出した傘を見て、ミツオは素っ頓狂な声をあげた。
「いくらなんでも……こんなの売りつけようってのかよ……」
店主に聞こえるか聞こえないかの小さな声でミツオは呟いた。それもそのはず、その手にあったのは柄の先に丸い顔をしたネコのついた子供用の折り畳み傘だった。到底スーツを着た成人男性におすすめする類のデザインではない。
「他にはない」
店主は繰り返す。ミツオはうなだれる。
もしかして足元を見られているのかと思い、傘にしては若干高めの予算を告げて別のものを出せと言ったが、店主の答えは同じだった。それどころか、その子供用の傘を差し出してこう言った。
「金はいらん。今うちにある雨傘はこれだけだ。持って行け」
ひょっとしたら、これは本当にこの店最後の傘なのかもしれない。本当に最後に残った一本を、店主が気まぐれに店を開けて誰かに押し付けようとしていただけなのかもしれない。そんなことを考えて……というよりそれくらいしか理由が思いつかなかったのでミツオは渋々それを受け取った。
「タダでいいってんなら、まあ……ないよりはいいか……」
そう言いながらミツオが店主に背を向けると、そこに言葉が投げかけられた。
それはずいぶん遠くから聞こえたように感じたが、その割にくっきりとした音で、いやにミツオの耳に残った。
『アンタ、いずれ傘になる』
それは自分に向けられた言葉ではなく、虚空に放たれた呪文のようだ、とミツオは思った。
店を出ると、ミツオは念のために背広を脱いで折りたたみ、カバンに入れた。会議の資料も背広も、しわくちゃにならないように気を配って入れたものの、濡れてしまえば結局は台無しだ。あまり大きくないためパンパンに膨らみ、重みを増したビジネスバッグを手首からぶら下げ、ため息と諦めを一つ吐き出した。
「まあ、ズボンはアイロンでもかけてもらうとしよう」
そう言って手にしたその小さな傘を開き、カバンだけを守るように差して走り出した。
とりあえず荷物だけ濡れないようにしてコンビニまで行き、改めて大きな傘でも買おう。そう思っての事だった。
数歩で、違和感に気づいた。
が、例えその違和感が真実でも、これだけの雨の中で立ち止まるなどということは考えられない。ミツオはとりあえずコンビニまでの残り数十歩を走りきった。
その店のイメージカラーで煌々と光る照明の下で自分の姿を確認し、その 「ありえなさ」に驚愕し、さっきまでいたあの店を遠く眺める。
そこにはつい先ほどまで、一度も開いたのを見たことのなかったシャッターが、当然のように閉まったままの古い商店が雨に煙って佇んでいた。
「ただいま」
「おとーさんおかえり!」
家に帰ると娘が飛びついてきた。
「おかーさん遅くなるって」
「そっか」
おそらく衰える気配のない豪雨が渋滞を引き起こしているのだろう。留守番をし、伝言までできるようになった娘に頼もしさを感じながら、コンビニで買った弁当を食卓に置く。さすがにこの雨量では戻っていないだろうと思い買った弁当は、明日の朝食にならずに済みそうだ。
「お外すごい雨だよね?」
「ああ、そうだね」
何か思ったらしく、不思議そうにそう訪ねた娘に、ただそう答えた。
もちろん娘の質問の意図は分かっている。
だが彼女の少ない人生経験ではそれが異常であるとまでは分からなかったのだろう。漠然とした奇妙さをうまく言語化出来ない様子で、一人遊びに戻っていく。しかしミツオ自身それを説明できないのだ。だからただ、そう答えた。
帰宅したミツオは、その服やカバンの全て、そしてそのカバンと共に手に持った例の傘に至るまで
一切濡れていなかったのだ。
『アンタ、いずれ傘になる』
枕元でそう囁かれた気がして飛び起きた。
あの店主が言った言葉が一晩中彼の頭を廻っていた。
「でも、もしかして……」
そう呟いて、枕元にある本を手に取った。
〈日本を引っ張った八人のリーダーシップ〉
そう書かれた表紙をまじまじと見つめて、隣の布団で眠る妻を一瞥し、中空に視線を漂わせた。
次にミツオが 〈傘のハリモト〉に入店することができたのは二ヵ月後のことだった。
あの日以来、帰宅前に毎日あの店の前で時間を潰したが一向に店は開かなかったし、いくら調べても『何年か前に閉店済み。元経営者も今は息子夫婦と同居しているのであそこには住んでいない』という情報しか得られなかった。
だったらあれは不審者ではなく、あれは夢ではなく、何か超常的なものなのだろうと考えたのは決して突飛なことではなかっただろう。なにせミツオのカバンにはひとたび開けば雨水には絶対に濡れる事のない超常の塊のような傘が入っているのだ。
その魔法の傘についても色々実験した。
その傘が効果を発揮するのは「雨」についてだけだった。水道水やペットボトルのミネラルウォーターをかけられれば普通に濡れるが、元が雨水であれば降っていようと水溜りになろうと、傘を開いている間は決してそれによってミツオが濡れる事はなかった。
だから今日、ついに入店が叶ったこの時に、あの日と同じように闇から出てきて、同じ質問をしてきた店主 (らしき人物)に対して極めて慎重に答えた。
「何を遮る傘だい」
「人ごみを避けたいんです。邪魔な人間を遮る傘って、ありますか?」
「あいよ」
普通の傘屋では頭を心配されそうな質問に、当たり前のように返答して店の奥へ消える店主を見てミツオは確信した。
この店は、何か「どうしても遮りたいもの」が出来たときにだけ開かれる、むしろ現れるといってもいい。そういう類の超常的な存在に違いない。
「もし、これで持ってきた傘が本当に『人を遮る力』を持っていたら……」
朝の満員電車で、若者の肘がぶつかって出来たあざを押さえながらミツオは店主を待った。程なくして、前回と同じように真っ暗な部屋の奥から前回と同じように愛想笑いの一つもなく現れた店主は、前回と同じ文句をミツオに告げる。
「今うちにある人傘はこれだけだ、お代はいらん」
「人傘? これが?」
彼が持ってきたのは、小さな傘の模型のような携帯ストラップだった。確認するように発したミツオの質問は店主のぴしゃりとした口調に遮られる。
「他にはない」
「わ、分かりました」
ミツオはそれを受け取ると、逃げるように店を出た。
「やっぱり、本物か……」
携帯電話につけたそのストラップの傘は、小さいながらにきちんと開閉のギミックがついていた。今はそれが開いた状態で揺れている。
朝のラッシュで人が限界まで詰め込まれている中、その車内ではミツオの周りにだけ人間一人分ほどのスペースが空いていた。
「だったら、きっと、うん、そうなんだな」
試しにストラップの傘を閉じると、急激に人の輪が縮まった。今にも押しつぶされそうになり慌ててミツオはそれを開きなおす。するとまたもミツオの周りだけを避けるような奇妙なベクトルで満員の客は押し合った。誰一人、押し潰されることなく一人優雅に立っているミツオのほうを見てはいない。
そこに空間がある事すら、下手をするとそこに乗客がいることにすら気づいていないようだった。ミツオは満足げに頷き、カバンから読みかけの本を取りだして読みはじめた。
「私は、国民に降りかかる様々な苦労を遮る傘となる!」
駅前で、拡声器を握ってミツオは叫んでいた。
あの日、最初にあの雨傘を手に入れた日から三年が経過していた。
ミツオには昔から国を変えたいと思う心が強くあった。日々の生活で磨耗し、心の水底に沈み、他の雑多な感情や仕事のストレスの中に紛れ、ほとんど消えかけていたその感情を浮上させたのは、あの一本の傘に他ならない。
どれだけリーダーシップがあろうと、どれだけ治世の才覚があろうと、力のない者に国を動かすことはできない。そしてその力とはこの国においては大抵カネかコネである。だから志はあっても力のない他の多くの人間と同じようにミツオも諦めてしまっていた。
しかしあの日手に入れた魔法の傘に、彼は世界を変える力となり得る可能性を感じた。そして二度目にその効力を確信し、その夜には妻に『政治家になりたい』と告げた。
離婚するしないの大喧嘩をした翌日、二日連続三度目の、あの店へと誘われたミツオはそれを天命と信じ傘の力で国を動かす決意をした。
「俺への反対意見を遮る傘をくれ」
〈傘のハリモト〉へ飛び込むと、あの店主に尋ねられる前に、ミツオは力強くそう言っていた。
「今あるのはこの反論傘だけだ」
店主が持ってきたのは傘のマークをあしらったネクタイピンだった。
「ありがとう、お代は」
「いらんよ」
「分かりました。でも、いずれお礼はさせてください」
「いや、いいさ。だってあんた、いずれ」
「ああ、やっぱりそうなんですね」
言いかけた店主に、自分の中であの日の言葉の意味に答えを見出して、ミツオは店を出た。
「この国を守る傘に、俺はなるんだ」
店主はそのつぶやきを聞いてか聞かずか、ミツオを見送りもせずに店の奥に消えた。
家に帰ると、昨日あれだけ「バカなことはやめて」と泣いた妻はもう何も言わず、ただ頷きながらミツオの話を聞いた。
彼女が言うには、喧嘩の最中に言った「二人目がお腹にいるの」という言葉すら活動への原動力にしてしまった夫に、妻はついていく決意をしたのだという。それが反論傘の力なのかどうか確かめる術はない。しかし、もはやミツオの確信は揺るがなかった。
そしてその代わりに、この日より日本の政治は、一人の男によって大いに揺るがされた。
総理も経験した有名な政治家親子が二代に渡って支持基盤を築き、磐石と言われる地区で、ありえない得票数を以って無所属新人の若造はトップ当選を果たし、政界へと飛び込むや否や破竹の勢いで駆け上がった。
彼の作った『日傘の党』は当初誰も見向きしないだろうと目されていたが、あれよあれよという間にたった三年で最大野党となり、多くの有望な議員がまさにその『傘下』に入った。
翌年、与党は外交において大変な失策をした。世論は解散総選挙へと傾き、マスコミは連日ドラマチックな政権交代への期待感を煽り続けた。程なくして、四年前までサラリーマンだったミツオは史上最年少、初当選から最短で内閣総理大臣へと肩書きを変え、首相官邸がマイホームとなった。
選挙戦の最中、ネット上には一時期奇妙な噂が流れた事があった。
【タノウエミツオのライバルの選挙ポスターには、呪いの傘が浮かぶ】
確かに、ミツオは「ライバルへの投票」を遮るため、〈傘のハリモト〉の主人が〈票傘〉として渡したシールを政敵のポスターに貼って回っていた。が、それは貼るとすぐ消えて見えなくなる不思議なものだったので誰かに見られるはずはなかった。もちろん公職選挙法違反になることもない。
その噂が本当なら、何かの拍子にその不思議な力が途切れて見えるようになってしまったのか、そういうものが見える特殊な人間であるかだろう。ひょっとするとミツオと日傘の党のお題目である「国民の傘となる」から誰かが連想したただの妄想の類だったかもしれないが、すぐにその噂も消えた。これは情報工作だとSNSが炎上する様子すら見せずに、きっぱりと消えた。ミツオが自宅のパソコンで 〈風評傘〉として渡されたフロッピーディスクに入っていたファイルの、傘のマークのアイコンをダブルクリックした直後の話である。
そんな調子で次々と傘の力を使い、なぜかマスコミはおろか野党からですら大きくは批判されない不思議な総理大臣「タノウエミツオ」は大胆な政策を断行し続けた……まあ、そのように人には見えたに違いない。
真実として、ミツオは素人考えの政策を打ち出しては何度も失敗していたのだ。正確には失敗しかけていた、である。自分の政策が躓きかける度にミツオは 〈傘のハリモト〉を訪れ、開かずのシャッターは彼のために開かれた。
〈不景気傘〉に〈外交問題傘〉、〈ゴシップ傘〉に〈貿易摩擦傘〉……
主人はミツオが、そしてこの国が直面する問題を遮るために必要としている傘を次々と店の奥から持ってきた。それは書類であったり、優秀な人材の連絡先であったり、かわいいペットの形をしたり、見た目は様々だったが、どれも完璧な能力を備えていた。
ともあれ、ミツオは国を変えた。
たった数年でこの国に降りかかる難題をことごとく遮り、弾いた。
その功績を讃えるように人々はミツオの内閣を『魔法の傘内閣』、ミツオの事を『傘総理』という愛称で呼んだ。
そして、さらに二年が過ぎた。
ミツオはその日、数年ぶりに家族と出かけた旅行の帰りだった。
もちろん国会は閉会中だし、現状で取り組むべき大きな問題もない。たった一泊二日の温泉旅行ではあったが、嫁も娘も、もうすぐ六歳になる息子も大いに喜んだ。
もしもの事があってはと、側近はこぞってSPをつけるよう進言したがミツオは断固としてそれを拒んだ。もちろん家族の団欒に邪魔が入るのを嫌ったこともあるが、何よりもあらゆる傘を手にしている自分に 「もしも」はないと考えていた。
〈銃弾傘〉も 〈爆風傘〉も持ったし、薬の形で手に入れた 〈毒傘〉や 〈病気傘〉も飲んだ。その他にもいくつかの災難を逃れるための傘を積み込んで、車は走り出した。
旅行は本当に楽しかった。
うまい飯に綺麗な景色、そして地方視察や遊説では絶対に見られない愛する家族の笑顔がそこにはあった。久しぶりの本当に安らげる休日を全員が満喫し、心からの笑顔をミツオに見せてくれた。
「住む人がみんな、こんな笑顔になれる国に……俺はできてるのかな」
何気なく呟いた言葉に妻が応えた。
「ええ、本当に今この国はいい方向へ進んでいると思うわ」
しかし、次に続いた言葉にミツオは、その表情に占める笑顔の割合を減らした。
「でも、貴方が今持っている傘は大きすぎるわ。大きい傘は風に煽られるのも大きいじゃない? いつか、貴方がその傘を持ったまま大きな風に飛ばされてどこかに行ってしまいそうで、私は少し怖い」
少し涙声になった妻の言葉にミツオはそっとその肩を抱き、改めて作り直した笑顔でこう応えた。
「だったら、その風を遮る傘を手に入れればいいだけだよ、そんなに心配するな」
理屈に合わないおかしな返答に、妻は一瞬不思議そうな顔をした。
「本当は、私たちだけが入れる傘でも……」
しかし、何故だかそれ以上何かを言うことは憚られ、喉の奥まで来た次の言葉を飲み込んで妻もまた無理に作った笑顔で微笑み返した。
宿からの帰り、ミツオたちは凄まじい豪雨に見舞われた。
叩きつける雨は今にもフロントガラスを打ち破りそうな勢いで、山道を流れる雨水はさながらウォータースライダーのようにカーブを滑り降りて行った。
「参ったな、さっきまであんなに晴れてたのに」
ミツオは渋滞する山道で片手にハンドルを握ったままポリポリと頭をかく。こんなことならあの雨傘も持ってくるべきだったかと考えたが、誕生日祝いに子供にプレゼントしてしまった事を思いだす。今頃はお片づけ箱の底に埋もれているだろう。とはいえ「あれ」は手に持った人間以外に効果を発揮しないことを実験済みだ。家族全員を乗せた車に積んであったところで意味はないか、とため息をついて諦めた。
「いいわよ、ゆっくり帰りましょ」
「そうだな」
後部座席で眠る二人の子供を見て、ミツオと妻が顔を見合わせたその時、雨音に混じって頭上から聞こえる奇妙な音にミツオはようやく気づいた。それは何かの唸り声のようでも、飛行機のエンジン音のようでもあった。
次の瞬間、周りの車が一斉にクラクションを鳴らし始めた。一刻も早くこの場所を離れなければならないという焦りがその音から感じ取れた。道の脇の斜面を見れば、表面のところどころからチョロチョロと水が漏れ始めている。ミツオはそれを見て、豪雨災害の対策会議前に教えられた知識を思い出した。
「土砂崩れか!」
自分たちに迫っている危機に気づいたミツオがとった行動は他のドライバーとは全く違う奇妙なものだった。すぐさまギアをパーキングに入れ、サイドブレーキを引いて車を降りた。
びしょびしょに濡れながら、トランクに積み込んだバッグの中から次々と何かを取りだしては戻すのを繰り返す。
「貴方? 何してるの?」
助手席の窓から顔を出した妻の叫びが、雨音と地響きの合間にかすかに聞こえた。
「傘がない! あああ、〈投石傘〉ならあるのに! なんでないんだ! なんで 〈土砂傘〉を俺は持ってないんだよ!」
狂ったように叫びながら、ミツオはバッグの中身をトランクにぶちまけた。
「駄目だ! 畜生!」
叩きつけるようにトランクを閉め、運転席へと戻ると、目の前では事態が悪化していた。
ミツオの車より何台か前で、対向車線を通って強引に山道を下ろうとした結果、事故を起こして横転しているの車が見える。渋滞だった道はこれで完全に塞がり、この場にいる十数台の車はただ土砂に埋まるのを待つしかなくなっていた。
地響きはいよいよ大きく、一刻の猶予も許さない。おそらくミツオの大声に驚いて起きてしまったのだろう、ただならぬ事態を感じ取ったのか子供達が後部座席で泣きじゃくり始めた。
『アンタ、いずれ傘になる』
なぜか、あの店の主人の言葉をミツオは思い出した。
「ああ、そうか……畜生、そういうことか!!」
ミツオはようやく、あの言葉の真意を悟り、叫んだ。
「貴方?」
困惑しながら顔を覗きこんでくる妻をじっと見つめ、一言だけ告げた。
「なるよ……俺。せめて、お前達だけでも入れる傘に」
「え?」
聞き返した妻を力いっぱい抱き寄せ、後部座席に手を伸ばして泣き続ける子供二人もその腕の中へと包んだ。
土色の波が、全てを飲みこんだ。
「要救助者発見!」
厚く重い土砂を掻き分け、救助隊員は形式上そう叫んだ。確認するまではあくまでそうではあるが、どうせ要救助者ではなく犠牲者だ。昨日からもう何人、いや何体も土の下から発見してしまった人々と同じだ。そう思っていた。しかし……、
「うわぁぁぁぁぁん」
泣き声が聞こえた。土砂に埋もれた車の中から、力強く生きていることを主張するその声に隊員たちは色めきたった。
「は、早く助け出せ! 絶対に助けるんだ!」
そして――
「お、おい、これ……」
さらに土砂の撤去を進めた隊員たちは、それを見た。
この大量の土砂の中、ひしゃげた車体と泥に飲まれたシートの隙間で、全くの無傷で泣きじゃくる二人の子供と一人の女性。そして、その三人を覆うように抱きかかえている、この国の総理大臣。
それは、愛するものを脅かす危機から遮りきった、傘総理の最期の姿だった。




