圧力
総理官邸
「何だって?、もう一度言ってみろ!」と総理の宮坂一博は怒気を込めて叫んだ。
「ええ…、ですからあの伊豆高原での殺人事件は私の手違いというか、私の工作活動の未熟さ故に起こってしまったものでして…、それで…、ことここに至りましては大変申し訳ないのですがその後始末のため、どうか総理のお力添えを賜りたく…その点何卒、どうか何卒よろしくお願い申し上げます」
と、経済産業大臣の村田孝一は土下座をし、額を床にこすらんばかりに押し付けて、藁にもすがる表情で総理大臣である宮坂に懇願した。
「村田さん、事の次第を詳しくお聞かせ下さい」と官房長官の杉山が土下座する村田に寄り添って言った。
村田は憔悴し観念した様子で話し始める。
「ええ…、ことの始まりは、私の後援会長を務めたこともある古くからの友人であった水谷一郎がお茶の老舗で現在は大手飲料メーカーに成長した小林園に入った時からです。私は小林園を会社ぐるみでこの秋に行なわれる総裁選を、それに出馬予定のこの私を支援させるため、その水谷の背中を押して何とか小林園の社長に就かせようとしました。まあ…、そこまではいいのですが…、問題はその後です。私は水谷のサポート役に私の私設秘書をしていた女を差し向けます。大変申し上げにくいことですが…、その女は中国人で実は中国内で汚職を働いた地方政府幹部の元愛人で、そして自らも不正を働きその中国で指名手配され、それでもなんとかこの日本に逃げ込んできた密入国者なのです。密入国の際には日本の暴力団である東○会の助けも借りています。また、その者はやり手のネットトレーダーでもありまして…、私の政治資金稼ぎにも一役買っておりました。私の元に来る前はその密入国の際に世話になった暴力団の資金稼ぎを手伝っていたということです。ちなみにその女の名は陳麗華、日本での偽名は水嶋麗子といいます。その者が…、その者が伊豆高原で水谷と一緒に殺されてしまいました…」と村田は腹に溜めていたものを洗いざらい一気に吐き出すように話した。
「う~む」と宮坂が苦々しく唸り声を上げる。
「あんたという人は、噂通り危ない橋を渡り続けとるの〜。まったく!」と宮坂は床にへばりつく村田の顔に近づき呆れながら怒りをぶつけた。
「面目次第もございません」と村田は再び額を床にこすりつける。
「水谷一郎と一緒に殺された女が中国の指名手配犯、陳麗華…」と総理の宮坂が呟く。
「はい…」
「しかし、警察発表では、殺された女は水谷の愛人ということになっとりゃせんかったか?」
「はい、当初はそうでしたが、警察にも鋭いのがいまして、警察署内で再び身元不明となりました。しかし幸いそれはまだ公式発表はされておりません」
「うん…。それで、犯人は誰なんだ?」
「おそらく、小林玄太郎。もしくはそいつの意を受けた者かと思われます」
「小林玄太郎…、今の小林園の社長か?」
「はい」
「つまり、あんたらが小林園を乗っ取ろうとして、それに抗った玄太郎側が逆襲したと、こういうことか?」
「はい、おそらくその通りだと思います。それで…、大変申し訳ないのですが、総理に折り入ってお願いがございます。捜査が進んでくれば、小林玄太郎にも疑いがかかり、そしてその背景と動機について調べが進めば、こちらにも捜査の手が伸び、私の野望が露見しスキャンダルとなって政権・与党にも少なからぬご迷惑がかかることは避けられないかと存じます。そうなる前になんとか手立てを講じたいと思います。何卒お力添えを願わしく!」
「う〜ん、確かに…、我が政権・与党に累が及ぶのは迷惑千万」
「はっ、本当に申し訳ございません」村田は三度額を床にこすりつける。
「うん…。それでワシにどうしろと?」
「はっ、何卒政権のお力をもって捜査機関に圧力をかけていただき、捜査を止めさせ、事件を迷宮入りさせていただきたく」
「捜査に圧力をか…」
「はっ、何卒!」
「うん、まあ、力を貸さぬでもない…がな」
「あ、ありがとうございます!」
「だが…、その代わりにだ、村田さんは今度の総裁選への出馬は控えていただく。それから、今回は我が宮坂派からは候補の出馬は控えることにしているが、総裁選に際しては我が派が推す候補を村田派は支援していただきたい。そのことはよろしいかな?」
「あ、はい、もちろんそうさせていただくつもりでございます」
「うん…。では、あ、いや、待て。今それを決めてしまっては最大派閥である大谷派の一人勝ちになってしまう恐れがある…か。う~ん、しょうがない、村田さんの出馬については総裁選が近づいた時またそこでワシが改めて判断する。ただし村田さんは総裁選の準備などは一切しなくて結構。まあ我が派と村田派がまともに組めば何もしなくても余裕で勝てる…。最大派閥の大谷派といえども恐るるに足らずだ。ま、とにかく村田さんとしては現状維持だ。ここは大谷派への押さえとしてとりあえず出馬する意向は堅持し、それでもあなたは総裁選の準備など、余計なことは一切何もせずひたすら私の沙汰を待っていただく。そして、その沙汰次第では出馬を取り止めて頂くことにもなるが…、それでよろしいかな?」
「あ、はい、それで結構でございます。何も異存はございません」
「うん。ではと言いたいところだがな、苟もワシは一国を預かる総理大臣だ。こんなことに関わったということが世間に知れればタダでは済まされぬ…。そこでだ、ワシはこの件については何も知らぬ、どこまでも関係ないということにさせてもらう。圧力をかけたければ村田さん、あなたご自身でおやりなされ、ただ、そのことをワシが黙認しているということはちらつかせてもよい。とにかくこの件についてはワシは見て見ぬふりをする。それでよいか?」
「はっ、も、もちろんそれで結構でございます。あ、ありがとうございます!」と村田は礼を言い、また深々と頭を垂れた。
衆議院議員会館・村田事務所
「とりあえず、うまくいきましたね」と公設第一秘書の岡村重義が囁く。
「ああ、でも、ちょっとカッコ悪かったよな…」
「何をおっしゃいますか。あれぐらいでよいのです。気位ばかり高くてもこの世界では生きてはいけませんぞ。泥臭いところも見せておきませんと。あなたほどのお方でも、いざお上の前に出ればひたすら平伏し、許しを請い、願いを懇請する姿に上にいる者は心を打たれる、というか満足するのです。そのツボを押さえていることもまたモンスターと呼ばれる所以となりましょう」
「うん…、そういうものか。ま、今回は頭を下げて政治生命が保てれば安いもんだ。もし捜査が進んで小林玄太郎が逮捕されるなんてことになれば事件の背景が解明されて政界の、というか俺の裏の姿が明るみになってしまう…。そうなれば、俺の政治生命ははっきり言って終わりだ。ここは何としてでも捜査を止めなくちゃならん!」
「その通りです。ではとりあえず静岡県警の動きを止めましょう」
「うん、そうだな。でも止めるだけではなく、どこか違う方向に捜査を向かわせた方がいいのでは…」
「確かにそれがうまくいけばベストなのでしょうがあいにく静岡県警には過去に袴○事件という再審決定となった事案がございます。今回『違う方向へ』というのはおそらく県警も難色を示すものと…。また、あらぬ方向に向かってしまったら予期せぬ災いが降りかかるとも限りませんし。今回はおとなしく迷宮入りさせた方がよろしいかと…」
「うん、そうだな。新たに誰か犯人をでっち上げても後味が悪いしな…。よし、事件は迷宮入りさせよう。とそうは言っても現場レベルが暴走するかもしれんがな…。まあそんなところまでは面倒見きれん。何かこちらに都合の悪いことが起きたら力でねじ伏せればいいだろう」
「はい」
「うん、では早急に静岡県警の動きを止めよう。静岡県警の本部長は誰だ?」
「山岡という者です」
「知らんな」と村田は素気なく言い、
「まあいい、警察庁長官と検事総長は財務省時代からの知り合いだ。それに同じ大学の後輩でもあるから何かと話がしやすい。そこから話を下ろしてもらう」と続けた。
「では、さっそくセッティングいたします」
「ああ、土産は予算増とさらなる栄達、もしくは好条件での天下りをほのめかせ。それからいくらかの実弾(現金)も忘れるなよ。まあ、いざとなれば奴らの弱みもいくらか握っているからな。それに予算増については編成の要の財務省主計局は俺の古巣だ。ちょっとぐらいなら無理がきく」
「ええ。では、主計局長にもいくらか話は通しておいたほうが」
「うん、今度一緒に飯を食う約束だから、その時に話しておく」
村田は、次々と関係機関に掛け合い、捜査を止めさせるよう政権の威光もちらつかせながら圧力をかけ、すんなりとは『うん』とは言わない官僚達を半ば力づくでねじ伏せていった。
警察庁長官室
警察には政権から、もっと言えば村田孝一経済産業大臣から圧力がかかった。検察も同様にである。もちろん、首相である宮坂一博の黙認のもとであることは言うまでもない。
「くそっ、悔しいですね。巨悪が眠っているかもしれないっていうのに」と言って警察庁の幹部は歯ぎしりする。
「まったくだ。反論したら村田さんから国民から選ばれた政権・与党に楯突くとは何事だとどやされたよ」と警察庁長官の太田も不快感を隠さない。
「しかし、そこに不正や犯罪があると認められれば何人たりとも捜査の対象にし、検挙していくのが我々の使命です」
「そうよ、でも政権はそこが分かってないのよ。まっ、もっとも分かりたくもないのかもしれんがな。しかし今回は大物すぎる。相手が悪い…。奴は政界の、いや日本のモンスターだからな」
「日本のモンスターですか…。確かに、村田孝一は父親が建設族のドンだった村田孝蔵元建設大臣で、自身も若くして財務省主計局長を務めたエリート中のエリートです。相手は元財務省、それも主計局出身の元官僚大臣とあっては、やはり警察も検察もお手上げですかね」
「おう、なかなか分かっているじゃないか。財務省はなんと言っても予算を握っているからな。各省庁から要求された予算案の殺生与奪を握るのが主計官で、それがいる部局が主計局だ。つまり警察も検察も財務省から予算を貰ってやっているから、その財務省からそっぽを向かれたら、たちまち干上がっちまうってわけだ。これは噂だけどな、検察が財務省の絡む事件で捜査から手を引いたら地検のビルの建て替え予算が下りたって話たぞ」
「へぇ〜、ずいぶん露骨ですね」
「まあ、それが政治ってもんじゃないのか」
「政治ねぇ」
「まあ、所詮、宮仕えの俺達のやれることと言ったらお上の御指示を忠実に下に伝えることぐらいだ。悲しいが生きていきたかったらそうするしかない…」
「そ、そうですね…」
静岡県警察本部
「伊豆高原殺人事件の捜査に圧力がかかった…」と本部長の山岡(警視監)は呟くように言った。
「どういうことですか?」と傍にいた山岡の側近でもある山谷刑事部長(警視正)が驚いて尋ねる。
「理由はよく分からん。長官からはとにかくこのヤマから手を引け、特に京都の小林園には近づくなということしか言ってこない。そして手を引けば栄達は保障するともな…。それから予算も増やすと言ってきている。うん…、太田長官にはこれまで大変お世話になっているし、いま俺がこうして本部長をしていられるのもひとえにあのお方のおかげだ。何があっても長官の意向には逆らえん」
「はい…」
「伊東の捜査本部には本格捜査はやめて形式捜査に…、つまり適当にお茶を濁しておけと伝えるんだ。それと事情を知らない捜査員は特別な理由がない限り京都の小林園には近づけるな」
「はっ、分かりました」
伊豆東警察署署長室
「えっ、捜査から手を引けと?」と署長の大木は驚いた表情で言う。
「ええ、『本格的な捜査はストップ。特に京都の小林園には近づくな。これからの捜査は適当にお茶を濁せ』と山谷刑事部長から本部長の御意向だということで先ほど内々に指示がまいりました。そして、事情を知る者の栄達は保障するとも言ってきています」と冷たい声で中島捜査一課長は言った。
「もし逆らえば…?」
「おそらく警察にはいられなくなるでしょう」
「う~ん」と大木は悲痛な声を上げる。
「大木さん、所詮私たち下っぱは風見鶏のようなものです。風向きが変わればそれに倣うしかない。違いますか?」と中島は言った。中島の眼鏡が冷たく光る。
「悲しいものですな…」
「ええ、とってもね」
「ご主旨は分かりました。で、今後のことですが、具体的にはどのように…?」と大木は一応の覚悟を決めたのか、そう尋ねた。
「所轄の連中は鋭い者もいそうですからね、特別、事情がない限りは京都の小林園には近づけないでください。一課の捜査員だけで上の言葉通り適当にお茶を濁す捜査をします。ですから予定していた所轄とうちとのペアも無しということになります」
「分かりました。それでうちの松平(刑事課長)にはこのことは?」
「まあ、一応、彼は捜査の最前線を預かる指揮官ですからね。話さないわけにはいかないでしょう。今回、『事情を知る者は警部以上の管理職に限るように』というお達しもありますから…、ところでお宅の刑事課長は組織の論理とかは分かってらっしゃいますか?」
「ええ、いくらかは…」
「フフ…」と中島は少し笑って
「ちょっと不安ですが…、ま、このことは署長さんからお願いできますか?」と言った。
「ええ、やってみます…」と大木は言って少し不安な表情を見せた。
それを見た中島はすかさず「お分かりだとは思いますが、組織の秘密を明かすからには必ず協力を取り付けていただかなければなりませんよ。でなければ組織は崩壊してしまう。そこのところはくれぐれもお願いしますね」とピシャリと言う。
「あ、はい、そ、そこは十分承知しているつもりです。ええ、どうかお任せください。必ず協力は取り付けてまいります」と大木はやや苦しそうだったが意を決して言った。
中島一課長が署長室を出ていった後、署長の大木は内線電話で3階の捜査本部に詰めている刑事課長の松平を署長室に呼び出した。
そして…、
「え、捜査をストップしろ?」と松平の驚いた声が署長室に響く。
「そ、そうだ。正確に言えば捜査に力を入れるなということだ。特に京都の小林園には近づくな。上から圧力がかかっている」
「上から…、上ってどこです?」
「とりあえずは県警本部長かららしいが、しかし本当の出どころは分からん。俺らが想像もできんようなところかもしれん」
「犯人側がどこかのお偉いさんに圧力をかけるようお願いしたってことですか?」
「かもしれんな。と、とにかく、君にも生活があるだろう。もちろん私にもある。このことを知る者は栄達が保障されるということだ。しかし…、もし逆らえば警察にはいられなくなるだろう。うん…、まあ考えようによっちゃ俺達は選ばれし者だよ。このことを黙ってやれば自動的に昇進できるんだからな」
「う~む」と言って松平は逡巡した。それをじっと悲壮な顔つきで大木が見つめる…。重苦しい沈黙の時間が二人の間に流れる。やがて…、松平がその署長室の静寂を破り声を上げた。
「分かりました。確かに私にも家族があり生活があります。事情はよく分かりませんが組織のため、それが最善だということであれば協力させていただきます」とあきらめとも、決心とも取れる答えを松平は発した。
「おお!、分かってくれるか」
「はい。それで…、私の部下たちには何と?」
「うん…。それは君の胸にだけしまっておいてもらいたい。今回事情を知るのは警部以上の管理職に限れというお達しが上から出ている。実際、彼ら下の者に話せば抜け駆けをする者もいるかもしれんし、情報が漏れるということもあるかもしれん。現場を預かる君が彼らをしっかり管理してくれればことは成就できるはずだ。それにだ、捜査は失敗すると決まったんだ。それなら誰かが責任をとらなきゃならんだろう。その時に犠牲になってもらうのが彼らだ。まあ『生贄』と言ってもいいかもしれんな。特に警部補の位にある者にはきっちり責任をとってもらうことになるだろう。この時点で可哀そうだがもはや彼らの警察での居場所はなくなった。そのことをしっかり腹にすえてやってくれ。それから、もし変なことを言う奴がいたらすぐに俺に伝えるんだ。即刻どこかの閑職に吹っ飛ばしてやるからな」
「はっ、分かりました。ただ、殺人事件に時効はありませんが…」
「うん…。このことは、俺たちが墓場まで持っていかなきゃならん秘密事項だ。そして、これから代々に亙って伝えられる引き継ぎ事項になる。もちろん引き継いでくれた者には栄達が保障されるはずだ」
「分かりました。そのこと腹にすえてやります」
「うん、頼むぞ、そして、今後のことだが、とりあえず君ら刑事課の者は京都の小林園からは外す。まず、これまでの捜査全体を一課が俯瞰し各現場を回って目ぼしい証拠品は押収するということだ。所轄がでしゃばらんようにするためにな…。そしてこれからは基本的に京都の小林園は捜査一課が担当するということだ。中島課長の指揮のもとで一課が適当にお茶を濁してくれるそうだ」
「分かりました。で…、京都の小林園から手を引けということは、やはりホシは小林玄太郎ということなのでしょうか?」
「うん?。俺は知らん。君もそんなことは知らん方がいいだろう。所詮俺たちは下っぱだ。とにかく上の言うことをハイハイと聞いていればそれでいいんだよ。だいたい余計なことは知らなくていいし、知ろうとしちゃいかん。それこそがここでの長生きの秘訣だ」
「はっ、おっしゃる通りかと思います。お言葉肝に銘じます」
「うん…。それと、女のガイシャの身元は今のところ一条幸恵で押し通せ。一条が発見されるまではその方がいい」
「し、しかし、女の遺体が一条でないというのはもはや明白だと思うのですが…?」
「そこを何とか丸め込め!!」
「はぁ…。はっ、なんとかやってみます。それで我々刑事課は何を…?」
「まあ君らはそうだな、とりあえずは…、差し障りのないところで主には川島葵でも追いかけていてもらおうか。こいつも一条と水谷を恨んでいるだろうからな。これは何かと鋭い児玉にやらせろ。奴を核心から一番遠いところに追いやるんだ」
「はっ、分かりました」
「まあ、所轄であるおまえのところの刑事たちははとりあえず小林玄太郎と一条幸恵に近づかなければそれでいい。まずは京都に出張っている奴らと玄太郎や一条を探っている者がいるならそれを引き戻せ。とりあえず今はそれだけだ。あとは現状維持でいい」
「分かりました。では取り急ぎ京都にいる田辺と谷口それと玄太郎周辺を捜査している児玉と丸山を引き戻させます」
「うん…、そうだな。あ、いや、待て。捜査一課の者との引き継ぎ要員が必要だ。京都にいる一人は残せ」
「あ、はい…。では年配の田辺を残すということでいかがでしょうか?。あいつは一課の者とも顔見知りが多いようですし適任かと…」
「うん。よし、それでいい」
「では、さし当たっての配置換えは京都の谷口、それと玄太郎周辺を洗っている児玉と丸山の3名だけでよろしいでしょうか?」
「うん…、まあ、いいだろう。あとは現状維持で。あまり大きく捜査態勢を変えると何かとうるさいマスコミに気付かれてしまうからな。うん、重ねて言うがこれからは形だけの捜査をするんだぞ。くれぐれもやり過ぎるな。そして部下の報告は逐一入れさせろ。奴らが妙な動きをせんようにしっかりと見張るんだ。それから…、捜査会議は基本的にやらなくていい…。どうしてもって時にやるんだ。この捜査本部も今後は徐々に縮小へと向かう。捜査に進展がなければ報道も下火になり、やがて人々は事件があったことさえ忘れてゆく…。それが世の常というものだ。それに下手に捜査会議なんか開いてこちらの魂胆というかやる気のなさを児玉ら所轄刑事たちに悟られても厄介だからな。捜査が広域に及んでいるから会議をしょっちゅう開くのは困難だとか理由をつけて、とにかく奴らをこの捜査本部からなるべく遠ざけるんだ。その一方で奴らが勝手なまねをしないようおまえががっちり手綱をとって個別に捜査状況を報告させろ、うん、とにかくしっかり管理するんだ。いいな!」と署長の大木は最後には有無を言わせぬ高圧的な態度で叫んだ。
「はっ、わ、分かりました」と刑事課長の松平は少し上ずった声でただそれだけを言い、何ら抵抗することなくただ唯々諾々と『お上』の悪意に基づく要求を受け容れた。
そして、署長の指図通り捜査の末端の刑事たちには『お上』から圧力がかかっていることは全く知らされなかった…。
大木と中島が新たに出した捜査方針は以上のことを踏まえ、小林玄太郎を本格捜査することはせず、玄太郎を含む小林園に形だけの捜査を引き続き行ない、そして、事件の本筋からは外れ、どこからも圧力がかかっていないため捜査に着手しやすい川島葵の行方を調べることが優先された。
松平は小林園京都本店の捜査に児玉らを外す決断をしていた。署長の言う通りにしたと言ってしまえばそれまでだが、改めて松平自身、児玉ら最前線の刑事たちのその勘と頭の鋭さゆえに『一線』を越えられるのを恐れたためでもあった。急遽、小林玄太郎周辺の捜査に当たっていた児玉らが呼び戻される。まさに朝令暮改というやつであった。
松平は少しバツが悪かったが、部下である児玉らの前では威儀を正し、
「小林玄太郎については、もう少ししっかりと裏を固めてからということになった。これからは異例のことではあるが玄太郎周辺などの京都の小林園関係は県警本部の捜査一課が単独で捜査を行なうことになった。ただ捜査開始当初からこれまで京都に張っていた田辺だけは引き継ぎ要員としてしばらく残す。以上のことから小林玄太郎と関係があるかもしれない一条幸恵についても捜査一課が単独で捜査をするということだ。それから念のために言っておくが一条宅を訪れた年配の男が小林玄太郎だという証拠は現時点ではどこにもない。小林玄太郎かもしれないという何ら確証に基づかないおまえらの一方的な思い込みによる捜査は誤認逮捕を招き、さらには冤罪を生じかねない。そういった思い込みによる捜査は捜査員として厳に慎まねばならぬことである!。
それからもう一つ言っておくが捜査本部では、まだガイシャが一条幸恵である可能性を捨ててはいない。よって一度発表した遺体の身元はとりあえず変更するつもりはなく今でも公式には一条幸恵のままだ。いいな!!」と一方的に高圧的な態度で言い放った。それを受け慌てて児玉が反論する。
「ちょ、ちょっと待ってください課長!、遺体が一条でないということはもはや明白だと思うのですが」
「あぁ⁉︎。じゃあ、殺された女は一体誰なんだ!?。おまえも警察官なら少しは組織の事情ってものも考えろ!。一度公式に発表されたものをこちらのミスでしたと言って簡単に取り下げてそれじゃあ被害者は誰なんだと訊かれたら、それはまだ分かりませんなんて発表が警察としてできるか!?。少しはそういうことも考えろ!!」
「はぁ…」児玉は松平の迫力に気圧されて二の句が継げない。その中を松平は悠然と語り始める。
「そして、捜査の方だが、君らには水谷のもう一人の元愛人である川島葵の行方を追ってもらう。彼女も一条と水谷に対し深い恨みを持つ人物と考えられるからな。彼女は十分容疑者になり得る人物だ。もしかしたら、どこかで高田宏と繋がっているかもしれん。ここは徹底捜査が求められるところだ。よってただ今から君と丸山刑事は全力を持ってこの方面を捜査するように。いいな!!」とここでも高圧的で有無を言わせぬ態度で松平は言った。
児玉と丸山は直属の上司である松平の態度に圧倒され、ただ「はっ、分かりました」と言うほかなかった。児玉は遺体が一条幸恵のままでいくということについては無論納得できないところがあったが、それを口にすれば警察という組織の論理からはみ出し自分は左遷されてしまう。そういうことが松平の態度から十二分に想像できた。児玉は長い警察官生活から直感的にそれを感じ取り、またそれを怖れた…。ただ、児玉はこれだけは訊いておきたかった。
「課長、小林玄太郎の捜査から所轄が外されるということは、所詮、所轄の刑事では信用が足りないということなのでしょうか?」
「うん?、俺は知らん。今回の割り振りは最終的には捜査本部長である大木署長がお決めになったことだ。まあ、適材適所ということなんだろうよ。相手は経済界、文化界の大物だ。捜査は慎重を要する。ただまあ、そんなことをおまえたちがあれこれ考える必要はない。とにかくおまえらは与えられた仕事に専念すればそれでいいんだ」
「はっ、分かりました。失礼いたしました」
松平は黙ってうなずき、「ではそういうことでよろしく頼む。何か分かったらすぐに連絡を入れるように」と言った。
児玉は再び「はっ、分かりました」と言って敬礼し、丸山を伴って捜査本部を後にした。