再捜査
「課長、ここはもう一度小林園を洗い直す必要があると思います」と児玉は意を決して言った。だが松平は…、
「いや、とりあえず高田をまた署にしょっ引いてこい。今度こそ吐かせてやる」と言って高田犯人説に固執する。
「課長、高田の線はもう薄いと思います」と児玉は少し大きな声で言った。
「うん?」と松平は少し表情を変えて児玉の方に向き直る。
それに構わず、児玉は続けた。
「この事件は過去の線ではなく現在の線で動いていると私は考えます」
「現在の線だと?」と言って松平は児玉を鋭く睨みつけ、「どういうことだ⁉︎」と叫んだ。
「はい。現在の仕事、つまり小林園に関することです」と児玉はひるむことなく答える。
「何か根拠でもあるのか?」と言うと、松平は少し落ち着こうというのか机の引き出しにあった煙草を咥え火を点けた。一筋の煙が二人の眼前にゆっくりと漂う。
「いえ、具体的な動きはまだ掴めていませんが、少なくとも水谷が動こうとしていたきらいがあります」
「ほう、それはどういった?」
「水谷は、小林園の海外進出を企図していた節があります。妻の香が海外進出の話を聞いたと証言しています」
「ふ~ん。それで?」と松平は言って離していた煙草をまた咥える。
「おそらく、その話はいわばまだ水谷の胸の中だけにしまってある段階だったと思われます。少なくとも京都の経営陣には内緒で」
「ふ~ん、そうなのか。でももう一人の被害者が一条幸恵であるというこの厳然たる事実をどう説明するんだ?。一条は小林園とは関係ないだろう!?」
「え、ええ。そ、それは…、本当に殺されたのは一条幸恵なのでしょうか?」
「はぁ⁉︎、なんだと⁉︎…。きさま!!、警察の科学捜査・DNA鑑定を疑うのか⁉︎」
「あ、いえ…」と言葉に詰まった児玉は思わず後ずさりし、
「すみません。も、もう少し考えさせてください」と言って逃げるようにその場を去った。
「まったく…」と松平は険しい表情で呟き、怒りにまかせて煙草をふかす。
松平から離れ「なんとも釈然としないな」と呟くように児玉は丸山に言った。
「ホシが高田ということがですか?」
「うん…」と児玉は唸るようにうなずく。
「しかし、一条と水谷が一緒に殺された以上、その二人に恨みを持つ者による犯行というのが自然な考えです」
「うん、確かにそうなんだが…、しかし、どうもね〜。高田の態度は堂々としていて、犯罪を犯したという負い目を全く感じさせない…。うん、ここはもう一度、戸田にある一条のアパートを当たってみたい。本当にDNAの検体が一条のモノかどうか疑問が出てきた…」
「し、しかし、あのリモコンと検体というか髪の毛は児玉さんと私が持ってきたものじゃないですか」
「うん、確かにな…。でもそこに、何か落とし穴があるように思えてならんのだ。とにかくもう一度行ってしっかり確かめてきたいんだ」と児玉はそう言い、そのことの許可を課長にもらおうとした。
しかし課長は、「高田をもう一度しょっ引いて来い」と言って引かなかった。そこで児玉は声を上げ「もし、高田が本当に犯人だとしたら、もうとっくにあの寮から逃げているのではないでしょうか?。高田は自分が疑われるのではないかということを自覚していましたので本当に犯人なら悠長に会社の寮なんかにはいられなかったはずです。それに高田が伊豆高原に行ったという痕跡は今に至ってもなお見つからないままじゃないですか。課長、ここで無理押しすれば後で取り返しのつかないことになりかねません」と反論した。
「う~む」とさすがに松平は唸った。
静岡県警には過去に誤認逮捕と言われた苦い経験があった。まだ誤認逮捕・冤罪とはっきり確定したわけではないが、今や世間でも有名になった『袴○事件』がそれである。殺人事件の犯人とされ死刑判決を受けた袴○死刑囚が48年間獄中に入れられ近年になって再審請求が通り裁判のやり直しが決まった。現時点では無罪になる可能性が高い。静岡地裁が事件の捜査を厳しく批判したこともありマスコミが静岡県警による一連の捜査を強引な手法だとしてやり玉に挙げていた。
このことが頭によぎったのか松平は俄かに誤認逮捕を恐れ出す…。
「まあ、いい好きにしろ!」と松平は児玉に吐き捨てるように言い放った。
それを受け、児玉は丸山を伴い捜査車両を駆って再び埼玉県戸田市の一条幸恵のアパートに向かう。その車中で、『被害女性がもし一条幸恵でないとしたら遺体の女は一体何者なんだ?』そんな不気味な疑問が児玉の脳裏をかすめる。
児玉らは改めて一条が住んでいたアパートの聞き込みから始めた。最近、特に事件前に変わったことはなかったかということをしきりに聞いて回る。すると同じアパートの住人から「そういえば1ヶ月ぐらい前に60代と思われる男が一条宅を訪ねて来た。親御さんかなと思った」という証言を得た。しかし、調べから一条の親はもういないということは分かっている。もう何年も会っていないという兄が一人いるだけだ。
児玉はとっさに同じ歳格好の小林玄太郎の写真を見せた。その住人は、
「ちらっと後姿を見ただけなので確たることは言えないが、雰囲気は似ている」と証言した。
「その確かな日付は覚えていませんか?」と児玉が尋ねる。
「その日は確か友人と会った帰りだったから連休最終日の1月11日ですね」とその住人は答えた。
「1月11日ですね?」と児玉は念を押す。
「ええ、確かにそうです」
一条と玄太郎が接触?。児玉はますます分からなくなった。
だが、分からなくなったが、高田が犯人ではないという可能性はぐんと増したように思えた。一条が殺されたにしても小林玄太郎と何らかの関係がある。そうであれば、小林園の線が非常に濃くなるからだ。
『玄太郎が水谷と一条を殺した?』『動機は?』『そもそも玄太郎と一条の二人はいつどうやって知り合ったのか?』児玉に新たな疑問が次々と湧きあがる。
『不倫をしている夫を持つ妹を思いやった?』それにしては時が経ち過ぎている。水谷と一条が付き合っていたのは20年も前の話である。
事情は分からない…。だが、玄太郎が二人を殺せば現場の状況と辻褄は合う。児玉はそう思った。水谷の上司に当たる社長の小林玄太郎は何か重要な用件で水谷と一条幸恵…、いや分からない。ここはまだ被害女性としておこう。で、水谷とその被害女性を呼び出した。そして玄太郎は京都で勤務を終えた後に出発して伊豆高原の元保養所に深夜に到着する。到着後待っていた被害者二人と寄り添って歩き、一気に殺害に及んだ。考えられる動機はまだ分からないが、経営方針の違いということは十分考えられる。だが…、水谷は所詮、一支店長にすぎなかった。二人の間に経営方針の違いがあったとしても玄太郎は社長である。水谷の意見などたやすく握りつぶすことができたはずだ。それをできない何か理由があったのか?。それともこの殺された女の存在が玄太郎にとっては大きかったのか…?。殺害していることから、もし本当に玄太郎が犯人なら女は玄太郎の敵で、しかも水谷の味方である可能性が高い。水谷の過去の性癖からすれば女が愛人である可能性も否定できないが最近の水谷にはそんな余裕はなさそうである。それでも…、もし仮にその女が水谷の愛人であったならば当然玄太郎は義理の兄として決して気持ちいいものではなかっただろう。だが…、それだけで玄太郎が凶行に及ぶとは思えないところもある。若かりし頃ならば激情に駆られてということもあるかもしれないが、とうに60を過ぎた大の男が妹の夫の浮気だけで殺人を犯すとは俄かには考えにくい…。だとすれば、玄太郎が二人を殺害するには、もっと他の理由が考えられるのではないか、もっと他の何かが…。そして児玉に一つの疑問が浮かぶ。『殺された女は小林園で何かをしようとしていたのか?』いや、それとももう既に何かをしてしまったのか…。もし小林園絡みだとすればそれこそがこの事件の核心ではないかと児玉は思った。
しかし、数々の被害者のモノがあったこのアパートに住んでいたのは一条幸恵ただ一人であるという厳然たる事実がある。その時、これはトリックではないかという疑いが児玉の頭にハッと浮かんだ。被害女性が一条幸恵と断定されれば、犯人は水谷と一条に恨みをもつ者に絞られてくる。そして犯行の手口等から必然的に男である高田宏に疑いがかけられる。真犯人は、高田宏の存在を知っていた上でこのトリックを仕組んだ。考えてみればトリックと言ってもそう難しいことではない。一条が住んでいたというこのアパートから一条を追い出し、部屋をまず指紋一つ、塵一つなく清掃し、一条の痕跡を無くす。狭い部屋なのでその気になれば半日もあれば出来そうなものである。そして今は遺体となっている被害者の女性を連れ込み、生活させればいいのだ。生活といってもそれはそんなに長い時間でなくていい、それこそ一泊ほどの期間でも十分である。
では…、一条幸恵はどこに行ったのか?。殺されたのか?、それともまだどこかで息を潜めて生きているのか?。ここは一条幸恵を調べる必要がある。児玉はそう思った。だが、一条に関することは小林玄太郎がカギを握っていると思われた。ではまずは小林を調べたい。児玉は強くそう思った。しかし、児玉らにはまだその前にやることがあった。とにかく女性被害者の身元をしっかりと特定する。このことである。
児玉は課長に連絡を入れる。
「一ヶ月ほど前に60歳ぐらいの男が一条宅を訪ねているとアパートの住人が証言しています。まだ断定はできませんが、小林玄太郎の可能性があると思います。小林の写真を見せたところ、雰囲気は似ているとのことでしたので。小林と一条が何らかの理由で結託し、今回の事件を引き起こし たとも考えられます。私は、このアパートにあった遺留物は確かに被害女性のものであると思いますが、本当に一条幸恵のものかどうか疑問が出てきました。それですみませんが急いで鑑識班を埼玉・戸田市内にあるこの一条のアパートに派遣してもらえないでしょうか?。徹底的に調べたいんです。それで自分らは近くの歯科医を当たって、一条の歯型を取れたら取ってきます。それと、一条の関係先を当たってDNAの検体をできるだけ多く集めたいと思います」
「そうか、分かった。じゃなるべく早く頼む。こちらも鑑識班を至急手配する」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
松平は焦っていた。一番の容疑者候補であった高田宏を逃して真犯人を捕まえられるのか…、しかも捜査本部は早期解決を睨み、それを滲ませてマスコミに発表している。現にマスコミ各社の報道も早期解決が期待できることを臭わせている。警察のメンツのためにもここは早期解決が望まれていた。
児玉らはまず戸田市役所に出向き、一条幸恵が加入している社会保険を調べた。一条は非正規の派遣社員だったこともあり会社で社会保険には加入しておらず国民健康保険に入っていた。しかし、そこから医療機関の受診記録を調べ幾つかの歯科医を受診していることを突き止める。児玉らはその一つに赴き、一条の歯形を手に入れることに成功した。さらに一条が派遣登録している会社に出向き、一条の私物がないか尋ねた。だが、『ここには無い』というのが答えだった。ただ「一条が派遣された現場には何か残されているかもしれない」と言われ、児玉と丸山は手分けして方々の一条の派遣先の職場を訪れ探し回った。その結果、幾つかの職場から一条の忘れ物だというハンカチやタオルが見つかり、それを手に入れた。その間に捜査本部のある伊豆東署から鑑識班が戸田市内の一条が住んでいたアパートに到着し徹底的な鑑識・捜索活動を行なった。
児玉らは押収した一条のブツを捜査本部のある伊豆東署に持ち帰りその後静岡市内にある科捜研(科学捜査研究所)に回した。そしてDNA鑑定の結果、驚くべきというか予想通りというべきか遺体の女性のDNAは新たに持ってきた『正真正銘の一条のモノ』とは一致しないことが分かった。歯型も同様に被害者のそれとは一致せず別人であることが判明する。
また、戸田に派遣されていた鑑識班もほどなく伊豆東署に戻り、持ってきた遺留物をやはり科捜研に回した。だが、鑑識班が持ってきた検体は全て被害者のものと一致したのだった。
児玉は、捜査本部で丸山に囁く。
「やはり、遺体は一条ではなかったな」
「ええ、ただ、これで捜査は振り出しに戻ってしまいました…」
「うん…、その通りだ」
「それに一条幸恵はどこに消えたのでしょう?」
「おそらく…、それは小林玄太郎が知っているんだろう」と児玉は呟くように言った。その時、刑事課長の松平が入ってきて、
「おまえの見立て通り、遺体は一条ではなさそうだ。しかしこれからどうするんだ⁉︎。おかげで我々はとんだ恥さらしだ‼︎」と松平は怒りを伴う不満を児玉にぶつけた。
児玉はダッと席を立って松平に近づき、「確かに捜査は振り出しに戻りました。しかし、いろいろ分かってきたこともあります。それは、事件直前に一条幸恵が失踪していることからこの事件に一条が関わっていることは間違いないと思います。犯人は一条や高田のことなど、ダイヤスタイルの社内事情をある程度知っていた人物です。我々は確実に真犯人に近づいていると思います」と言った。
「じゃあ、真犯人はダイヤスタイル社内の人間だと言うんだな?」
「ええ、その可能性は大いにあるかと思いますが、必らずしも社内の人間とは限らないと思います」
「どういうことだ?」
「社内の人間に限らず、社内の事情に明るければいいからです。ダイヤスタイル社外にも事情に明るい人物はいた可能性があります」
「ほう、具体的にそれは誰だ?」
「一人は小林玄太郎です。彼は水谷一郎の義理の兄ですので、水谷の妻である妹の香を通じてある程度ダイヤスタイルの社内事情にも通じていた可能性があります。実際、銀行がダイヤスタイルに融資する際には保証人になったりもしていますから社内事情にも一定程度は明るかったと思われます。そしてもう一人は水谷のもう一方の愛人だった川島葵です。彼女は下請けとはいえ、取引先の社長でしかも水谷の愛人でした。ダイヤスタイルの事情にもある程度明るかったと思われます。ただ川島葵は今回の事件の被害者である恐れもあると自分は思っています。それで課長、この二人をぜひ調べたいと思うのですが…」
「うん…。ただ、今はそんなことよりも一条幸恵はどうするんだ?。まずは一条の行方を捜すのが先だろ!。殺されているかもしれないんだぞ‼︎」
「そ、そうですね…。分かりました。ではまずは緊急性の高い一条幸恵を捜します。ただ、それは小林玄太郎が関係している可能性があります」
「うん?」と松平は怪訝な顔をした。
「1ヶ月くらい前に年配の男が一条宅を訪れています。もしやと思い、小林玄太郎の写真を見せたところ、顔までは分からないが、雰囲気は似ているという証言を得ました」
「ああ、前にも聞いたな。小林玄太郎か、大物だな。そこにガサを入れるのか?」
「いえ…、まだそこまではいきませんがぜひここはうちらに調べさせてください」
「うん…。おまえがそこまで言うのなら、まあ、いいだろう。直接の一条の捜索については他の者を充てればいいしな…。だが手荒な真似はするなよ。行動は逐一報告しろ。小林玄太郎は経済界のみならず文化人としても大物だからな。ホシと見立ててもし違っていたなんてことになったら、過去のこともある…。今度こそ静岡県警はおしまいだ!。その時は刑事課全員のクビが飛ぶぞ!!」
「はっ!、よく心得ているつもりです」と児玉は悲壮な顔つきで言った。
「よし、行け!」
松平は逡巡していた。高田宏の線が薄い今、手繰り寄せられる糸は少しでも引き寄せておきたい。しかしそれが経済界・文化界の重鎮、小林玄太郎となるとまた厄介である。ただでさえ袴○事件で脛に傷ある静岡県警である。再び誤認逮捕の疑い、それも大物にとなれば世間から激しいバッシングを受けることは必至だ。かといって上に相談すれば小林玄太郎捜査の許可がいつ下りるか分からない。とりあえずここは本格捜査ではなく頬を撫でるくらいの『形式捜査』ならば大丈夫だろうと松平は思った。しかし、あまり時が過ぎ、その形式捜査の成果が上がらなければ…、独断で捜査を指示した責任を問われかねない。『とにかく少し時が経ったら上に相談しよう』と松平はそう心の中で呟く。松平は所詮気の小さな小役人であった…。